最終話 月と太陽

『私が思うに——『好き』とは相手の哲学に自分の哲学を見出すことだ。相手の哲学に自分の哲学と類似したところを見つける。あるいは相手の哲学によって、自分の哲学を再発見することだ。


 まあこんな言い方をされても分かりづらいよね。しかもこの理屈には穴があって、それが、恋愛の盛んなはずの学生のうちには、各々の哲学だなんてものは未完成だってところなんだ。だからそうだね、もっとシンプルな言い方をする必要があるかな。哲学未満の価値観、まだ理屈でまとまっていない無垢で美しい——感性と。


 つまり好きとはね、素朴な感性の共感なんだよ。ふとしたときに出る言葉、素朴な言葉に自分と同じ感性を見た瞬間にこそ恋は始まる。例えば——。


「頬を撫でる春風が好き」

「夕焼けに心を洗われるよ」

「子どもたちが遊ぶ声を聞くと嬉しい気分になる」

「時間が早く過ぎたね」

「敷き詰められた満開の桜よりも地元の桜並木の方が好きなんだ」

「雨上がりの街灯が星みたい」

「入道雲でかすぎんだろ」

「ビルの隙間から見える夕日は一層綺麗に見える」

「浅瀬の砂が足の指を抜けるのが気持ちいい」

「風が秋めいてきたなあ」

「今日は空が高く見えて気持ちいい!」

「夕立の後の空気が美味しいな」

「古い本って撫でたくなる」

「道端に咲くひなげしってなんかいいよね」

「星空がまるで宝箱みたい」

「風が好きだから自転車も好き」

「草の匂いが懐かしいよ」

「雪が音を吸って静かだね」

「落ち葉を踏むのってちょっと楽しい」

「夏の川は足を入れてこそ」

「今日は月が綺麗だね」


 そういう感性に共感することを恋と呼ぶのさ。ふと相手の素敵な部分を見出したときに、その鏡に自分の素敵さを映したときに。人は人を好きになるんだ』





 水壺颯兎は落書き帳を閉じて星空を見上げた。暗く静かな校舎裏にて、無造作に並べられたプラスチック椅子の一つに座って。


 ——僕は望月と炉端で気ぶりたかったのに。


 二人を繋ぐ橋梁パスは折れていた。失われていた。返信にラグのある物質という特性ゆえ、物理的に奪うことが可能だった。そして彼は誰にも悟らせなかった。繋がりパスは再び通うはずが無かったのである。


 ——僕らの教室は一階だ。全日制の一年生が使うわけない。使うにしても三年生とかだろう。


 少女が鮮やかに彩った、微に入り細を穿つ虚飾は、こんな簡単なことすら気付かせなかったのだ。


 当人たちを除けば、水壺颯兎にだけ、そのストーリーが見えていた。


 ——つまり全ては、椎名先生が誤って——教材かファイルなんかと混じったんだろうか——落書き帳を持って帰ったことに端を発する。それからもいくつかの偶然あるいは奇跡が重なり、落書き帳は「彼女」の目に留まることとなった。きっとその日、椎名先生は午前中長く眠っていたのではなかろうか。その間に最初のリクエストは書き込まれた。それがこの交換日記の始まり。


 思わず嘆息した。


 ——運命的としか言いようがない。


 ふと星がまたたいた。大気に逸れた光の屈折である。しかし彼はそうは思っていなかった。きっと向こうの星からの通信だと信じていた。だから彼はこのときもまた、携帯の光を振って返事をした。

 天の川が無くとも、橋がかからなくとも、返事が届くのがずっとずっと未来のいつかだとしても。二人の間にどれだけの距離があろうとも——人は星に想い願う。


「水壺」


 呼ぶ声に目を向ければ乃木理央の姿がある。十月の過ごしやすい夜。遠く車のライトに肉食獣の牙がきらめいた。


「ちょっと話があるんだが」


 水壺颯兎は頷いた。





**





 炉端春夏李が屋外の通路を渡って体育館へ——國分依舞季のライブ会場へ向かっていたところ。

 その人物がいた。目に留まった。

 通路の端にいた一人の少女。柱に体重を預けて、明らかに自分に向かって手を振っている。セーラー服に身を包んだ、品の良いお嬢様。

 青天の霹靂だった。彼女には少女が何者か一瞬で分かった。しかし少女は視線を確認すると、入れ違う形で去っていく。


「え、ちょっ……え? あっごめん美咲、美鈴。先に行っておいてくれるかい」

「え、うん」

「またね」


 二人を見送り再び目を戻せば、少女は人波に逆らって校舎内へ戻ろうとしていた。追いかける。


「ね、ねえちょっと、キミ」


 体育館のライブステージの裏側、人気ひとけのなくなった校舎内。古い板張りの廊下に二人。

 呼び止めるまでもなく、少女は振り返っていた。


「初めまして、炉端春夏李さん。一目であなただと分かったよ」


 その当然のような仕草に、確信できた。


「あの、その……。ボクはキミに、言いたいことがあって」


 黒く細い目が薄く微笑む。


「そうだね。気付いていない訳がないよね」

「キミに……キミにしか、頼めないことがあるんだ」

「なにかな? ゆっくりでいいよ」


 両手を胸に当てて、逸る息を鎮める。セーラー服の少女を見つめて、一音一音慎重に、言葉として押し出していく。驚いたのは、まるで自分を削っていくかのような感覚に襲われたから。溶け合った身体は色を変えていた。深く融合したそこから、色だけを剥がして引きずり出して独立させる。自分の他に置く。耐え難く、苦しい痛み。


 ——けれど、けれど。


「お願いします」


 ——ボクは。


「倫斗を幸せにしてあげてくれませんか」


 ——これがボクのだ。


 少女は困ったように笑って、カバンから一枚の紙を取り出した。チケット大の紙をラミネートした細長い


「これはね、私がこの制服を着て家の扉を押し開くに足る動機だった。でも本当は私のものじゃないんだ。だから——あなたに返すね」


 渡されるままに受け取る。水色の色紙に黄、赤、紫、緑で鮮やかな押し花。四つ葉のクローバーは贅沢に二つ。花丸みたいな太陽のイラスト。

 しおりとして使うには大きすぎる。


「あんまり卑下しないで。彼があなたにとってそうであったように——」


 少女は階段を上っていった。踊り場の大窓には一分の隙も無い白磁の大満月が輝いている。


「あなたは彼の居場所であった。それ以上の救いなんてね、ないんだよ」


 気付けば少女はいつの間にか姿を消していた。まるで月光に溶けるようにして、初めからそこには誰もいなかったかのように。

 カードに目を下ろそうとしたところ、しかし別の人間が声をかける。


「春夏李」

「……倫斗」


 炉端春夏李の前に現れた望月倫斗は息を切らしていた。挫いた足も庇わずに。

 彼は彼女の目の前で足を止めると、胸を上下させながら、不思議そうな様子で顔を覗き込んだ。


「春夏李? どうかしたか?」


 ——ああ。


 顔に向かって伸びてきた手を優しく押し戻す。


「おっと、ほっぺたにご飯粒でもついてたかい?」

「いやなんか……ちょっと様子が違う気がして」

「そう? 特に何もないけれど」


 引き止めないと。


「本当に? もうすぐ國分の出るステージだろ。なんでこんなところにいるんだ」

「ちょっとお手洗いに来ただけだよ」

「そうか。じゃああの……そのさ。——セーラー服の女の子を見かけなかったか?」


 終わってしまう。


「セーラー服? ああ、ちょうど見たよ! この階段を上っていったかな」

「え!? 本当に!?」

「うん、ついさっき。何か用があるなら——追いかけたら?」

「そうだなそうするよ。ありがとう春夏李」


 階段を上っていく彼に、つい手を伸ばしそうになった。


「あ——」

「ん?」


 なぜだろう。どうしてこんなに胸が痛むんだろう。


「あっ、いや、ううん。何でもない」


 もう一度、作り笑いを見抜いてくれたなら。


「じゃあ、また後でな」

「うん」


 望月倫斗も去って行った。

 炉端春夏李ただ一人だけが残された。少し放心したのち、頭を軽く振る。


「いや、いやいや。何をやたらと感傷的になってんだボクは。はあ、まったくらしくない。そもそもボクは倫斗と付き合ってすらいないんだ。何の権利も——」


 遂に手元のカードを裏返す。そこにあったのは——。


「——うそ」


 見慣れた彼の筆跡の、遥かな星への願い事。


「なに、これ」





『春夏李が幸せに暮らしていけますように 望月倫斗』





            ✓





 顔を上げると景色が一変していた。


「あれ」


 意識せずとも右足が一歩出てしまう。踊り場の大窓に釘付けになる。目元を拭っても視界はすぐまた潤む。


「あれ、おかしいな。なんでだろう」


 彼女は削り捨てた過去に立ち返り拾い上げてきた。自分という存在を受け入れてきた。腐ったはずの宝石はいつしか自らに光を宿していた。


 恒星の欠片はその手の中に。


「だって、こんなに——」


 胸の内に。


「こんなに月が綺麗なのに」


 月は——。


「——涙が止まらない」


 いつだって見守っている。ただ望む者の心を映して。





**





 なんてことはない夜の教室だ。風に揺れる木々の影が揺らめいている。遠くから夜鳥の鳴く声が聞こえてくる。黒板が月光を眩しく映してホコリを浮かび上がらせる。

 見慣れたはずの光景が、このときは妙に幻想的に映った。銀色の月光を受けて影を伸ばす少女の姿、ただそれ一つの存在感によって。

 少女は机に腰かけて夜風を臨んでいたらしい。俺の来訪を受けて振り返る。


「ん? おお」


 少女はもぐもぐと何かを飲み込んでから、ニコリと微笑んだ。よく見れば彼女の手元には羊羹の乗ったプラスチックの小皿がある。二組の模擬店で手に入れたもの——というかこの教室自体が一年二組だ。

 既に店仕舞いをして、みな出払っているようだった。


「机に座っちゃあダメなんだぞ?」

「私のこれは腰かけてるだけだから」


 想像していたよりも下らないやり取りが初めての会話になってしまったことに、なんだかもったいないことをしたかもな、と内心で苦笑した。次に、勝手に神聖視していた自分を馬鹿らしく思った。

 目の前にいる相手は、当然のように、人ひとり分の質量を持った等身大の人間である。


「初めまして……だな」

「うん。初めまして」


 初めて話すはずなのに、聞き慣れた声に感じる。

 少女はからかうようにしてニヤリと笑った。


「聞いたよ。クラス全員の机に美術部の案内を入れるだなんて作戦を言い出したらしいね。そんなに私に会いたかったんだ」


 俺はやれやれと頭を振った。


「結局そんな必要はなかったけどな。椎名先生が話してくれたから」

「そうだね。私の元に届けようと思うなら、お父さんに一枚だけ渡せばよかった」


 手を腰に当てて笑いかけた。


「随分遅くなった気がするが……せっかくだ。自己紹介をさせてもらうか。俺の名前は望月倫斗。この学校の夜間定時制に通ってる。十七歳。会えて嬉しいよ」

「うん。私は椎名彩音(しいなあやね)。勇気を振り絞って会いに来たよ」


 彩音はばつが悪そうに目を逸らした。


「幻滅したよね。あれだけ偉そうなことを言ってた人間が、実は不登校の引きこもりだっただなんて。適当なことばかり言ってごめんね」

「それでも彩音は俺の太陽だったよ。俺を照らしてくれてた」

「ありがと。私にとっての倫斗くんも、そうだったよ」


 ふと会話が途切れた。それは短い時間だった。けれど妙に長くも感じた。むず痒さについ口を開く。


「あ、そうだ。なあ、俺はまだ答えを聞いてないんだ」

「何の——答えを?」


 妙に心臓が逸っていた。あまりにも心拍が大きすぎて耳に圧迫感すらあった。緊張で神経がぎゅっと絞られていて、気を抜いたら気絶したかもしれない。

 しかしついに、空気は震える喉を越えて、令月を讃える乙女に問いを投げかけたのである。


「『好き』ってなんだと思う?」


 少女の動作は迷いなかった。まるでその言葉を待っていたかのように。無駄なく手際よく、しかし間をたっぷりと含んで。

 羊羹とフォークを置き、息を一つつくと、机に腰かけたまま窓に半身を向けた。右手を上げる。

 肌合いを撫でるように手の平に乗せれば、試すように視線を流して、透き通る声と共に微笑んだ。


「この月を見て、君はどう思うかな」


 問いかけには回答を。贈歌には返歌を。

 夜の鏡が彩の火を映して。


「俺が思うに——」





    五章「一億五千万キロメートルの旅路」 ここまで。

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こんなに月が綺麗なのに〜夜間定時制の俺と机の中の交換日記〜 うつみ乱世 @ut_rns

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