第28話 晴天

 秋雨の元で実家に顔を出すと、玄関に入ってすぐ異変に気付いた。いつにも増して荒れている。普段ならゴミ袋が積まれていたり、服や洗剤の袋が散らかっているくらいなのだが、今日はそれらとはまた違う異質の荒れ方だった。なにせ「先生」の経文が額から割り出され、ビリビリに引きちぎられていたのである。

 リビングに望月瑠美はいなかった。気配はある。襖を引いて座敷を覗けば、彼女は仏壇の前に居た。


「母さん……?」


 丸い背中が酷く小さく見えた。仏壇に向かってはいたが、祈るでも話しかけるでもなく、ただ茫然としているようだった。いつからそこにいたのか分からない。何日も前から動いていないと言われても信じただろう。座布団も敷かないで、ただ精根尽き果てたかのように居尽くしていた。


 仏壇の鏡面に移った彼女は、俺に気付いてゆっくりと口を開いた。声の出し方を忘れていたのだろうか、自ずから奇妙そうにしつつ、初めは掠れた音にもならない音を吐き出す。そうしてから、ついに言葉を発した。


「先生が詐欺で起訴された」

「らしいね。ニュースで見たよ」

「被害者支援団体って奴らからも電話が来た」

「それは……初耳だったな」


 彼女は確かに、仏壇の写真を見つめていた。彼女の愛した男性の姿を。枯れて掠れた彼女の頬には、数日分の涙の痕がある。


「そんなこと、ありえない」

「……」

「ありえるわけない。ありえるわけが……」

「母さん」

「私は……私は」


 俺は母さんの傍に膝を着いて、ひたすらに嗚咽を飲む背中に手を置いた。


「あなたのお父さんを——」


 骨の浮かんだ痩せた背中だが、ちゃんと命の通った、暖かい背中だった。





 表に出て、携帯を取り出した。


『日本語、通じたよ』


 小泉からの返事はそっけないものだった。


『そう』


 文字を打つ画面に水滴が落ちた。潤む視界の中でなお打ち込む。


『ありがとう』


 雨はもう上がっていた。





**





 阿知賀部長と二人、展示に借りた教室の入り口で並んで座っていた。


「人、あんまり来ないのう」

「まあ、たった三人の美術部ですからね」


 教室にある油彩のパネルはたったの六つだ。うち三つが阿知賀先輩のものなので、実質阿知賀展みたいなものである。なんならこないだ小泉に誘われたゴッホ展にはゴッホの絵は三つか四つしか無かったし、割合で言えばこちらの方が大きいくらいだ。一応他にも展示物はあるが、俺の手癖の美少女絵とデフォルメに甘んじた春夏李のイラストといった、ちゃちなものだけだ。アクスタや絵ハガキなんかも作ったが売り上げは芳しくない。これは持ち帰りコースである。


 阿知賀先輩は空のペットボトルの底をポンポンと叩いた。


「俺のも無くなっちゃったので、買ってきますよ」

「おっ、かたじけない。じゃあ瓶のラムネで」

「炭酸飲めないでしょうが……」





 校舎から出て食堂脇の自販機に向かうと、園田と出くわした。


「おっ倫斗っち! おつかれーい!」

「園田。お疲れ様」


 並び立ってお金を入れる。お茶を二つ買った。


「炉端っちの分?」

「ん? いいや、美術部の先輩の分」

「ほえーっ!? 学祭だってのに炉端っちと一緒にいないんだ!?」

「春夏李なら美鈴に誘われて一緒に回ってるらしい」


 園田は腕を組んでうんうんと頷いた。


「いやはや、依舞ちゃんとも結構仲良しみたいだし、倫斗っちの狙い通りだな。炉端っちの交友関係はちゃんと広がってんよ」

「あれ……依舞って呼んでよかったんだっけ。改名したんだよな?」

「『依舞季(いぶき)』になあ。でもまあこれはこれで依舞っちだろ? あとそう、女性的なニュアンスはともかくイブって音自体は好きらしいんだよ。ならそうと呼んでやるのがオレの気遣いだなー」

「はあ……そうなのか」


 そちらは知らなかった。俺が知っているのは「季」の字は春夏李の「李」から貰ったとかいうやや重く湿った事情だけだ(言われてみれば確かにかなり似ている字だ)。好きだった相手の名前がタトゥーに残るというのはよく聞く気がするが、自分の名前に残す人間は流石に中々珍しい。そんなんで未練吹っ切れるのだろうかと心配になるのだが、聞いたときにはもう手続きが終わっていた。


「そういえば園田は気が回るよな。さっきの言い方もまるで、春夏李の交友関係の狭さを以前から気にしてたみたいだ」

「実際してたよう? 倫斗っちと炉端っちは他に友人を作らず孤立してる感じだったからなあ」

「春夏李だけじゃなくて俺も?」

「水壺ちゃんも、こいちゃんもよ!」


 園田は歯を見せて笑った。


「だから、良かった! ありがとうな、みんなとクラスの一員になってくれて!」


 すぐにおどけて「オレが何をしたわけじゃないけど」と頭を掻く。センスの悪いサングラスが珍しくカッコよく見えた。





「ただいま戻りました」

「遅かったな望月氏! さっきお客さんが来たのだぞ!」

「へえ。よかったですね」

「自分ごとだと思って喜んでほしかったのだが!」


 再び席に着いて、先輩からアンケート用紙を貰う。アンケート用紙とは——訪問客に書いてもらっている、それぞれの絵の感想だ。とはいえ一つ一つに品評を残すようなものではなく、気の向いたものに一言二言残す——その程度の簡単なもの——そういう想定ではあったのだが。


「熱心に書いてくれとるのだよ、ほれこれ。望月氏のも結構書いてくれておる」


 目を通せばなるほど確かに。重箱の隅をつつくような心底ありがたいご指摘をこんなに細かく書いてくれて——。


 鼻で笑うのが先か、気付くのが先だったか。


「しかしこのコメントだけなんというか。望月氏、そんなえっちな絵、描いとったかのう?」

「先輩、この人がどんな見た目だったか覚えてますか?」

「え? えーっと確か——随分と長い黒髪を下ろした、前髪ぱっつんの? あ、あと、セーラー服を着ておったな。どこの制服かのう、ここらでは滅多に見ないようなセーラー服であった」

「ありがとうございます。すいませんちょっと出かけてきます」

「おう? まあいずれにせよもう店仕舞いだしのう。ボン・フォヤージュ~」


 なんでオランダ語読みなんだよ、と内心で突っ込みながら、俺は教室を出て行った。

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