7.祈り


 きみは蒸し暑い空気と一緒に玄関ドアを入り、小さな声で「ただいま」と言った。手にはクリアファイルに挟まれた書類がいくつも入ったバッグ。脱ぎ捨てられたパンプスは、左右とも外側に倒れてしまった。

 シューズボックスの上にはくまのぬいぐるみ、その右隣が鍵の定位置。短い廊下を通り、部屋のドアを開けてエアコンのスイッチを入れる。それから、バッグを乱暴にラグの上に転がすと服を脱ぎ始める。まずはシャワーでさっぱりするつもりで。買ってきたメロンソーダのことを忘れていないのはさすがだ。スカートだけを脱いだ格好で、コンビニ袋から出したメロンソーダのペットボトルを冷蔵庫に入れた。

「はぁ……あたしバカ、ほんとバカ」

 きみの独り言は、ユニットバスに大きく響く。シャワーの湯を出して全身を洗うと洗面台の前で化粧水を顔に、乳液を足や腕に塗り、いつもの部屋着をさっさと身につける。

「大バカだよね」

 何度「バカ」と自分をけなせば気が済むのだろう。背中を半分隠すくらいまで伸びた髪は、乾かすのに時間がかかる。シャワーを浴びる前から玄関以外部屋中のドアが開けられているから少し涼しくなってはいるけれど、完全に乾かすのは大変だ。

「ま、前からバカだからな! 今に始まったことじゃないしー!」

 ドライヤーの温風の中、そんな開き直りをきみは大きな声で口にする。乾いた髪を触りながらドライヤーを洗面台の引き出しにしまうと、冷蔵庫のメロンソーダが飲み頃だ。プシュッとペットボトルの蓋を開け、きみは翡翠色の液体を喉に滑り込ませる。

 きみが冷凍庫の扉を開けて冷凍チャーハンに手を伸ばした時、スマートフォンが振動を始めた。

「……何?」

 冷凍庫から何も出さずに扉を閉めて訝しげに画面を睨んだきみは、一瞬で頬を染める。

「んもう、明日早いって言ってたじゃない。早く寝なさいって」

 説教のような言葉とは裏腹に軽快に画面をタップし、文字入力を続ける。

「えっと、次の休み……」

 きっときみは今、『ダイエットしなきゃ』なんて思っているだろう。鏡を見るとよく出てくる口癖だ。

 きみのスマートフォンはタップされ続け、どんどん充電の数値が減っていく。スマートフォンではなく壁のアナログ時計を見たきみは、長針ではなく短針の位置に驚き、慌てて冷凍庫のチャーハンを取り出した。

「やっば、もうこんな時間」

 ベッドの上に放り投げたままのスマートフォンは静まり返り、電子レンジの微音が、音楽もかかっていない、テレビもついていない部屋を支配する。きみの表情がまた曇る。「ほんとあたし、バカ。グズだし」という小さな言葉が口から出てきた。

 何度も何度もきみは自分をさげすむ。何度聞いても、少し悲しくなる。僕を拾った時に見せた優しい表情は、日々の「バカ」のせいで見られなくなっている。

 ただのぬいぐるみでしかない僕も、きみに声をかけられればいいのに。雨の中、車の窓から捨てられて排気ガスまみれの汚い水に浸かっていた僕を洗ってくれたきみが、玄関から動けない僕に「行ってきます」と言って頭をなでてから外出するきみが、バカであるはずないのに。

 僕は祈る。どうしようもなく祈る。祈ることしかできないから。スマートフォンでメッセージのやり取りをした相手が、きみの表情をまた柔らかくしてくれますように。きみの温かな愛が注がれる人になりますように。きみに愛を注ぎ返してくれますように。いつかこの部屋を出ていくことになった時に、きみが僕を連れていってくれますように。

 きみはチャーハンを食べ終え、歯磨きを終え、ベッドに寝転がった。またスマートフォンが震える。

「……次の休み、何着て行こうかな……」

 恥ずかしそうにスマートフォンを胸に抱えるきみが眠りに落ちる前に、部屋と廊下をつなぐドアを閉めますように。電気代のことを考えられるくらいの余裕ができますように。

 どうかきみが、今よりもっと、幸せになりますように。

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