3.【GL】ドーナツ屋で足を滑らせ水中で苦しそうにしているナイスバディの彼女を救出せよ
繁華街のドーナツ屋に、私は今日も足を運ぶ。最近、三日に一回は来ている。店員にあの人暇なんだなと思われても仕方ない。だって本当に暇なんだもの。
一ヶ月前までは毎日多くの仕事を抱え、時間に急かされ、交通機関の乱れにイラついていた。月に一回、厚生年金や所得税、住民税の徴収額に怒りとあきらめの気持ちを覚えていた。ある日、自分のミスを被せた同僚にブチ切れ、冤罪だという私の言い分を信用しない上司にもブチ切れた。幸いボーナスが入った直後だったから、私はさっさと会社を辞めた。
無職になってからの一ヶ月、夏の暑さの中でメイクをしなくてもいいことが快適だと喜んでいたのに、私はなぜかメイクをして部屋着からブラウスとスカートに着替え、家を出る。毎日ではないけれど、数日に一回はそうしないといけない気がする。理由は自分でもわからない。
「ね、マッチングアプリどれ使ってる?」
「んー、あんまいいのないよ。どれも同じって感じじゃない?」
「あーね。数だけ多くて」
「そうそう、この間ブロックしたやつが別のアプリで"キュン"押してきたの」
「うわっ、それ引くわ」
女子大生くらいの年頃の二人の会話が聞こえてくる。マッチングアプリが隆盛しているってことはみんな出会いを求めているんだな、なんて
ドーナツはもう二個食べてしまった。そろそろカフェオレのおかわりを頼もうか。もし彼氏ができたら、こんなふうにドーナツ屋でのぐだぐだに付き合ってくれるだろうか。そういう人を選べばいいのだろうけど、選べるような立場でもない。私はもう二十八歳だ。しかも胸も尻もささやかな棒体型、色気なんて皆無。仕事の面接では胸が大きい人の方が有利に思える。スーツの胸元が隆起していて、椅子に座るだけでタイトスカートがずり上がりそうな女性の方が、ウケがいいに違いない。だから面接なんて行きたくないんだよね、なんて言い訳で自分を甘やかす。
残り少なくなったカフェオレのカップを片手に持ち、「もうアラサーだよ!」と脳内に自虐的な言葉を響かせる。すると一拍置いて、チリン、という風鈴の音が聞こえた。内装を見渡してみるが、風鈴は見当たらない。それでも涼やかな音はちょうどいい音量で耳に入ってくる。だいたい十秒間隔で一回ずつのようだ。
店内の上の方ばかりを舐め回していた視線を下げると、床に水が溜まっていることに気付いた。とっさに足を上げ、周りを確認する。水深は十センチくらいありそうなのに、座りながら靴紐を手で直す人も……いや、直す手が止まっている。手どころか、全てが止まっている。まるでパントマイムの演者が披露する大道芸のように、ぴたりと。
「な、なに、これ」
私が発した声は、思いのほか響いた。すると、店の奥から私をめがけて若い女性がずんずんと歩いていることに気付いた。巨乳の持ち主のようで、足を進めるたびに胸が揺れている。ゆさゆさ、ゆさゆさ。その中に、チリンと風鈴の音も聞こえる。ゆさゆさ、チリン。
「あなた……、あなただけが、動いて見える!」
「あっ、はい、私も」
何だか気の抜けた返答になってしまった。SFともファンタジーともつかないおかしな状況で、仲間がいることに少々安心したからかもしれない。
「トイレ行ってたら、こんなことに……。何でみんな止まって見えるんでしょう……?」
「私にもさっぱり。この水、どこから……?」
「気持ち悪いですよね。足は濡れちゃってるし……風鈴か何かの音も、何だか嫌な感じで」
女性は私より背が低い。私の胃の高さあたりに彼女の胸がある。いいなぁ、大きな胸。いやそうじゃなくて、まずはこの状況について冷静に考えないといけない。でも、チリン、と風鈴が鳴くとなぜか私の思考は止まってしまうのだ。これではいけないと、サボり癖のついた頭を懸命に回転させて言葉を絞り出す。
「店の外は普通に動いてますよね。水もないみたいだし」
「そうですね。店を出てみたら……出られたとしても、どうやって止まってる人たちを助けていいかわからないですけど」
助けてあげる気なんだ、優しくて真面目そうな人だな、なんて考える私は冷たいだろうか。私には、そんな気力は湧かない。とにかく自分のことで精一杯。彼女のことだって、仲間がいてほっとしたという癒やしグッズみたいな扱いだ。
彼女の年齢はおそらく私より少し下くらいだろう。肩口で切りそろえたストレートの黒髪と、大きな黒い瞳がうまくマッチングしている。マッチングするって大事なことだ。かわいらしい外見に、より一層癒やされる。癒やされるけど、水は少しずつ水位を上げているようで、膝下のあたりまで来てしまった。床に落ちていたドーナツのかけらが浮いているのが見える。急がないといけない。
「とにかく、出ましょう。だいぶ水がたまっちゃってますけど、歩けますか?」
「は、はい」
私の方が店の出入り口に近い方にいるため、彼女に手を差し伸べる。彼女……「あ、私、ぼたんって言います。お花の牡丹」牡丹ちゃんは私の手をすんなり取ってくれた。牡丹だなんて、名前も立派で美しい。そして立派なモノを二つお持ちで……お尻も立派で……ウエストはそうでもなくて……うらやましい……。
「私は、
「えっと、真央さん」
牡丹ちゃんはきゅっと私の手を握り、不安そうな表情の中に懸命に笑顔を作ろうとしている。かわいくてやる気が出た。私ってこんなに単純な人だったんだ。新たな発見だ。そんな私を嘲笑うかのように、水は膝まで来てしまっている。
「がんばりましょう。じゃ、歩きますね」
「はい。真央さんはよくここに来るんですか?」
「……けっこう、来ますね」
「私も、です。春に仕事辞めて……暇で」
「えっ、牡丹さんも? 私もなんです。一ヶ月前に辞めたから」
すると彼女は、一瞬驚いた顔を見せてからころころと軽快に笑った。安心する笑顔。
「無職の人だけが動けるのかしら」
「なるほど……? いいような悪いような」
そんな会話をしながら、水圧を感じる中のろのろと足を進める。私の中には、どんどん上がってくる水位と動かしづらい足への不安と、癒やしグッズである牡丹ちゃんを守らないといけないという使命感が共存している。
そのうち、チリン、と風鈴の音がすると、水位が少し上がるということに気付いた。でも、気付いただけでどうにもできない。風鈴がどこにあるかなんてわからないのだから。
通路を歩いている途中でフリーズしている人を避けて、私は何とか店の出入り口までたどり着いた。手を繋いでいるから大丈夫だとわかってはいるけれど、念のため後ろを振り返ると、牡丹ちゃんが無事な姿を見せている。
「よかった、あとは……」
そう言いかけた瞬間、牡丹ちゃんが足を滑らせて水中に潜ってしまった。私の手を離した直後だった。水位はもう太ももあたりまで来ているから、下手をすると溺れてしまう恐れがある。水中の苦しそうな表情に、胸がどきりと音を立てる。彼女は癒やしグッズなんかじゃない。人間なのだ。
私はぐっと腹に力を入れるイメージで踏ん張りを効かせ、彼女の背中に手を回して抱えるように上へ引っ張り上げた。自分の腹あたりに彼女の柔らかい胸が当たり、片手はお尻に移動させ、そのぷりぷり感を……いや、助けます。助けますから。
「だ、大丈夫!?」
「ぷはっ……、ありがと、ござ……」
「しゃべらなくていいよ。歩ける?」
「は、はい」
むせながらもしっかり答えてくれた牡丹ちゃんの手をもう一度取ろうとすると、彼女は私の腕に抱きついてきた。ああ、やっぱりブラジャー越しでもぷにぷにしている。胸が大きいとこんなに柔らかいんだな、でも弾力もあって形も良さそうで……などと、良くない方向に思考が進もうとするのを必死で抑える。
「よ、よしっ、あとはドアを……」
自動ドアもぴたりと止まってしまっているようで、私はギギギ……と歯を食いしばらせて開けなければならなかった。今日だけで、一週間分の力を腹に込めた気がする。
「開いた!」
私の声に合わせたかのように、チリン、と風鈴の音がした。店内にたまっていた水はサーッと外へ流れ出し、やがて空中に霧散していった。
◇◇
「あのあと、お客さんも店員さんも元に戻ってたんだよね。何事もなかったかのように」
牡丹ちゃんと知り合いになった不思議な事件から一週間後、私と彼女はドーナツ屋の近くの喫茶店に入った。会うのはこれで三回目だ。彼女の水色のフレンチスリーブの裾からほんの少しだけブラジャーの端が見えているのは、注意した方がいいのか悩んでしまう。
「そうそう。しかも、真央さんと外に出たら濡れてなくて……私なんか頭まで水に浸かったのに。何だったんだろう、あれ」
「風鈴なんかなかったし……」
「ん……。考えれば考えるほど不思議。でも、真央さんカッコよかった。友達になれてうれしいの」
目を細めてにこっと微笑む牡丹ちゃんは今日もかわいい。胸の弾力とボリュームも、ぷりぷりのお尻も健在のようだ。きっとすぐに彼氏ができてしまうだろう。今のうちに堪能しておかないといけない。
「私もだよ。……あのね、牡丹ちゃん、その服かわいいんだけどブラジャーが見えちゃっ……」
「やだ、真央さんのえっち」
「えっ? ま、待って、そういうつもりじゃ」
牡丹ちゃんはアンダーバストのあたりで両腕をきゅっと合わせている。胸を隠すつもりだろうけれど、全然できていない。腕に大きな胸が乗っていて、下乳がぷにっと……かわい……いや、かわいいのは置いといて、注意しないといけない。私はアラサーで、人生の先輩なのだ。
「あー、それ、胸が強調されるからやめた方がいいよ」
「やっぱりえっち!」
「!? いやいや、そういうんじゃなくてね、その、老婆心というものが人間にはあってね……?」
「でも真央さんになら見せてもいいかな」
鼻血が出そうになっているのは、おかしいことだろうか。普通のことだと思いたい。
「ねぇ真央さん、二人でがんばって仕事見つけて一緒に暮らそ?」
「ハイ」
「私、掃除が得意なの」
「ハイ」
「真央さん料理できるんでしょ、ちょうどいいね」
「ハイ」
「がんばりましょ」
「ガンバリマス」
鼻血が出ないようにする方法をあとでネット検索しようと、私は強く思った。
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