小さなお話

祐里

1.黄色いパンジー


 その朝、比呂人ひろとが学校に行く時に拾った直径三センチくらいの石には、『緑』と書かれていた。比呂人は少し首を傾げて「みどり?」と独り言をつぶやいてから、ズボンのポケットに入れて歩き始めた。


「比呂人くん、おはよ」


「あ、おはよう、メイちゃ……」


 四年二組の教室に入ると、幼稚園から一緒のクラスで仲の良いメイが話しかけてくる。メイの方を振り向いた比呂人は、少し驚いた。彼女のお気に入りでいつも髪に付けている緑色のバレッタが真っ白だったからだ。


「……メイちゃん、その、髪の……」


「えっ、何かおかしい? いつもと同じように付けてきたんだけどな」


「あ……、ううん」


「外して付け直せばいいかな。おかしくても笑わないでね」


 恥ずかしそうに眉尻を下げ、メイはバレッタを一旦外して点検するように眺めてから再び左耳の上の髪を挟んでパチっと留めた。


 先生が教室に入ってきて学校での一日が始まっても、比呂人はポケットの中の石が気になって仕方ない。先生に見つからないようこっそり出して見てみると、確かに書かれていたはずの「緑」の文字は消えていた。


「じゃあ出席取るから、返事しろよー。相原遥斗」


「はい」


「江川美波」


「はい」


「加藤ひなた」


「はい」


 先生が出席を取るのをぼんやりと聞いていると、比呂人はあることに気付いた。「大川緑」が飛ばされたのだ。彼女の席は窓際の一番後ろだったはずだ。そちらに視線をやると、席が消えていた。まるで大川緑という生徒など、最初からいなかったかのように。


 怖くなった比呂人は、昼休みにその石を校庭の隅の花壇に埋めることにした。腹の底が冷たくなるような静かな恐怖を感じて自分がいつも世話をしている花に会いたくなったからという理由もあるが、世話をしているからこそ、花たち――今植えられているのはパンジーだ――が何とかしてくれるのではないかという期待からの行動だった。


 花壇の端に石を埋めてから手についた土を払い、力が入りにくい足を無理やり動かして教室に戻る。自分の席に着く前にうつむき加減の顔を上げて窓の方を見ると、大川緑が窓際の一番後ろの席に座っていた。


「よかった……」


 比呂人の安堵のため息は、昼休み中の騒がしい教室内では誰にも届かなかった。


 ◇◇


 翌朝、同じ場所で比呂人はまた文字が書かれた石を拾った。今度は『誤』という文字が書かれている。前日に起きた気味の悪い出来事を思い出し、そこに置いておこうとも思ったが、この石を教室に持っていったらどうなるのかという好奇心が勝った。比呂人はまた石をポケットにしまった。


 その結果、四年二組では何かを間違えたりしそこなったりする人が全くいなくなった。宿題を忘れてきた生徒もいない。いつも苦手な算数の問題で間違った答えばかり言っている優太でさえ、先生に当てられて正しい答えを堂々と口にしている。


「……何かつまらないし、僕だけ間違えたら嫌だな……」


 またしても嫌な感覚を腹の中に味わい、比呂人は校庭の隅の花壇に『誤』という文字が消えた石を埋めた。教室に戻ると、メイが話しかけてきた。


「比呂人くん、どこ行ってたの?」


「えっと、花壇に」


「花壇? あ、そっか、比呂人くんお花のお世話するの好きだもんね」


「う、うん」


 比呂人はにこにこと笑うメイに石のことを打ち明けたくなったが、信じてもらえるかわからないと思うと、曖昧に笑うことしかできなかった。


 ◇◇


 その翌朝も、比呂人は石を拾った。『女』と書かれている石だ。


「女、って……」


 女子が全員いなくなってしまうのだろうか、音楽の授業だけしに来てくれる女の先生も……そう思うと背筋が凍るような感覚を覚え、足ががくがくと震えてくる。石を手に乗せていることすら気持ち悪く思えてきて、もともと置かれていた場所に石を戻そうとしたが手の平に貼り付いてしまい、どんなことをしても振り落としたり剥がしたりすることはできなかった。仕方なく、比呂人はそのまま手をポケットに突っ込んで歩き、登校することにした。


 思ったとおり、教室に入ると男子生徒しかいなかった。机と椅子の数も半分近く減っている。男子生徒の席しかないという状態だ。


「……どうしよう」


 泣きそうになりながらも、比呂人は考えた。遅刻扱いになっても花壇に埋めに行くべきなのだろうと。ただ、石はポケットに手を突っ込んでも離れていかず、手に貼り付いたままだ。埋められないかもしれないが、比呂人にはその方法しか思い付かない。


 ランドセルを机の上に置き、比呂人は一目散に花壇を目指した。女子がいなくなるなんてひどすぎる、どうしてこんなことになったのか、どうして、どうして。そればかりを考え、息を切らしながら、花壇の前に到着した。


「どうして……」


 比呂人は、思い出していた。メイのバレッタの色が本当は好きではなかったこと、大川緑は高飛車な印象で好きではなかったことを。いくら算数が苦手とはいえ、先生に構ってもらいたくてわざと間違えて回答する優太も。足が速くてスポーツができる男子生徒ばかりをちやほやしたり、教室内が騒がしくなった時にもっと大きな声を出して諌めようとする女子生徒も。比呂人は、好きではなかった。いや、嫌いだったと言ってもいい。


「ごめん、みんな、ごめん。今、埋めるから」


 次から次へと出てくる涙でよく見えないながらも、昨日までに石を埋めた場所は大体わかる。『女』という文字が消えた石をポケットから出して土に埋めようとするが、やはり手にぴったりくっついたまま、離れてはくれない。


「どうしよう、これを埋めないと……! どうしよう……ごめんなさい、僕が、僕が……!」


 比呂人は、パンジーが植わっている場所を避けて土に手を付いた。パンジーの上に四つん這いになったような格好だ。パニックになっているのにパンジーをよけるなんて冷静なところもあるんだな、などとまるで他人事ひとごとのように考えるが、涙は止まらない。出てきたばかりの蕾が濡れてしまうくらい、ぼとぼとと流れては落ちていく。


「……え……?」


 そろそろパンジーに落ちた涙の粒が二十粒くらいになるだろうという時、濡れた蕾が明るい黄色の美しい花弁を見せつけるかのように開き、まばゆい光を発した。


「ま、まぶしい」


 比呂人が思わず石が貼り付いた手で目を覆うと、そこからぽろりと石が落ちた。


「あっ、石が!」


 顔に土が付くのも構わず手で乱暴に涙を拭い、懸命に土を掘る。そうして石を埋めてから、土をかぶせておく。


「これで、これでいいはず……」


 「ありがとう、パンジー」と小声で言い、比呂人は教室へと走った。遅刻して叱られるかもしれない、でも構わない、いつもきちんと登校しているのだから一度くらいいいだろう、と。


 ガラッと音をさせて教室の扉を開けると、そこには自分以外のほぼ全員が揃っていた。


「比呂人くん……? どうしたの? 顔、汚れてるよ」


「……あ、う、うん」


「珍しいね、ギリギリに来るなんて。……あれ? ランドセルはもう置いてあるんだ」


 メイに声をかけられ、安堵からまた涙腺が緩む。


「えっ、な、泣いてるの?」


「何でもないよ、大丈夫」


「そう……? えっと……、顔洗う?」


「うん」


 つい先刻まで石が貼り付いていた手の感覚は、まだ消えていない。それでも比呂人は笑顔になった。いつものこのクラスが、いつものように騒がしいのが、何だかうれしかった。


「顔、洗ってくるよ」


「早くしないと先生来ちゃうよ」


「うん」


 普段どおりにメイが話しかけてくれたことも、普段どおりのクラスが一番安心できるとわかったことも、比呂人には、とてもとてもうれしかった。

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