【第二夜】
久方ぶりに、気分のいい寝起きである。目論見は十二分に成功を納め、俺は六週間ぶりに妻と再会を果たした。夢の中の、懐かしい姿であったが。それでも成果は充分であった。思い出したのだ、何十年も忘れていた妻との出会いを。
妻と出会ったのは、俺が二十三歳、妻が二十歳の時。共通の友人の紹介だった。あの頃の俺からしてみれば半ば会わ“された”と言っても語弊が無いような強引さで、少々辟易としていた。断り続けても、“ひと目見ればお前はその気になるだろうから”と、話がやってくるので、仕方無く、会うだけならいいだろうと渋々了承したことを覚えている。結婚は疎か、交際することすら頭になかったはずだった。だがトントン拍子で話は進み、いつの間にかの結果がこれだ。結論から言うと、友人の言葉通り、俺はひと目見て惚れ込んでしまった。こちらを見つけて頬を染め、にこりと笑ったその顔に、耐えられるはずなど無いであろう。この世の美しいものすべてをかき集めてきて、職人の技のように美しく、なんの過不足もなく形作られたステンドグラスのような、その存在。つまらない言葉にはなってしまうが、それが俺にとっての「世界が色付いた瞬間」であった。本当に美しかった。この世で一番愛らしく、美しい、女神のような佇まいに見えて仕方がなかった。
出会わせてくれた友人にはとても感謝せねばならないとつくづく思っている。ほれ見ろ、言った通りじゃないか、と言われるのは癪なので、絶対に口に出したりはしないが。
せっかくいい気分なのだから、今日は散歩にでも行こうかと、床から起き上がる。妻がいなくなるまではこれが毎朝の日課であった。朝の弱い妻を起こして、外へ連れ出していた。この日課を始めた頃は、開ききらない目で眠い眠いと文句を言っていたが、眠いと文句を言う姿も可愛かったので、それが見たいがために俺は彼女を揺すって起こしていた。まだ眠いのです、寝かせてくださいよ、と辛うじて解読できる、呂律の回りきらない声が好きだった。甘やかしたくなるような緩みきった声を、俺の前で出してくれていたのが、堪らなく嬉しかった。
まぁ、その数年後には文句など言わなくなり、俺より早く起きるようになってしまっていたのだが。それはそれで楽しい朝で、気に入っていたのは事実である。
夢の中で、俺達は何年ぶりかにしっかりとした会話をした。どこの何が美味しかっただとか、俺が何が好きなのか、あなたが何が好きなのか、あなたに対して、俺が一体どれだけ愛していたか。懐かしい昔話もしたかったが、あの頃のあなたは俺に出会う前なので、その昔話を知らない。それはもう仕方がないので、また、会えるときまで取っておこうと思う。
昨夜のように、骨を呑めば、もう一度会えるだろうか。今日も試してみようと、玄関の扉を開けた。
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手に温かいものを感じる。ゆっくり瞼を開くと、自分の手が誰かに握られていた。顔を上げると、そこには、俺の手を引いてぐんぐんと進んでいく女性の姿。瞬間的に理解する。この人は妻で、これは夢だと。どうやら今回も成功したらしい。次は何を思い出せるだろうか。
ぐるりと周りを見まして、世界が青いことに気づく。ぽこぽこと鳴る水の音と、水槽が立ち並ぶ空間。この場所は、妻がよく赴いていた水族館だ。妻に連れられて、幾度となく俺も来た場所なので、間違っていないはず。
ピタリと妻が立ち止まった。目の前には水色の世界とガラス板。その世界に圧倒されているとこちらを振り返られる。見ててくださいね、と言われたかと思えば、また水槽に向き直ってしまった。どういうことだ、と頭の中にはてなを浮かべながら、その姿を眺めていると、彼女が、おーい、と生き物たちに手を振った。ぐるぐると水槽を回るだっけだったその生き物が、真っ直ぐにこちらを見る。なんだかロックオンされたような気がしてたじろいでいると、その生き物が、嬉しそうに目を細めて、ぴゅーっとこちらに泳いできた。え、と声が漏れる。悟られないように心の中であたふたしていると、つかの間に、ごつ、と音がして、目の前にその体が現れた。細長いふん、三日月型の胸鰭、大きな尾鰭。イルカだ。横を見やると、珍しく、彼女の頬がへにゃりと緩んで、顔が、どことなく自慢げに変化していた。
あぁ、そうだ。妻はイルカが好きだった。そういえばそうだ。近場の水族館に通い詰めて、こうしてイルカたちと戯れてるくらい、好きだったのだ。そうだ、そうだった。当たり前すぎて、忘れていた。
イルカたちは、代わる代わる、離れていっては寄ってきて、見つめ合っては離れて、そんなことを繰り返していた。まるでそれは、久しぶりに会った友人と言葉を交わしているかのようであった。
繰り返すこと何回目だろうか。こちらに視線をやらぬまま、唐突に手招きされる。どうした、と声をかけて、言われた通りに横に並ぶと、よく見ててください、と囁かれる。あなたの手が、ガラスの目の前に置かれた。視線がそれに集中する。閉じられていた手が、ぱっと、開いた。それと同時に、ぐわり、とイルカの口が開く。
驚いて固まっていると、かわいいでしょう、とあなたが笑った。ああ、たしかに、かわいいな、そう返せば、見たこともないような華やかな笑顔と声で、そうでしょう、そうでしょう、と食い気味に跳ね返ってくる。
目の前のイルカに顔を向けると、少しばかり睨まれているような気がした。お前は一体どこの骨だ、と言われているようで、妙に張り合いの気が起きる。ぽつりと、この人の夫だぞ、と呟いてしまった。伝わるはずなどないが、お前にはやらないぞ、と声が聞こえたような気がした。じとり、お互い睨み合って数秒、隣でふっと吹き出す音が聞こえた。同時にあなたの方を向けば、あなたたち、仲良しですね、と笑いをこらえるように言われてしまった。もう一度顔を見合わせる、仕方ない、今回は許してやろう、なんて顔をされて、そのイルカは目の前から離れて行った。あ、行っちゃった。そうどこか寂しそうな声であなたは見送っていた。
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