【第一夜】

 あなたの骨を呑んでしまえば、あなたの夢が見れるのではないだろうか。

 最愛の人が旅立って六週間が経った頃。それは突然だった。何度挑んでも解けなかったはずの数学の問題が、急に解けたような、そんな気分であった。すっかり変わった生活習慣に慣れてきて、脳があなたとの記憶を既に忘れてきていることに漸く気づいた時期。俺は焦っていた。次々とあなたとの記憶が指の間から落ちていくように消えていくのだから。ずっと忘れないなんて陳腐な言葉でくくりつけていた思い出は、いとも簡単にすり抜けていく。頭ではそんなことわかっていた。だが、信じられなかった。

 普遍的に考えれば当たり前のことで、生きていくために必要なことであろう。悲しみに暮れていては、この世界は生き抜いてはゆけぬのだから。当たり前、それが普通である。皆が口を揃えてそう言うだろうし、俺だって理性的な部分ではそうであることを理解している。ただ、それでも。あなたを愛している俺が、許せないのだ。愛しかったあなたを、忘れてゆくなど、そんな残酷なこと。あってはならないはずなのだ。あの生活を忘れてゆけば、俺が俺でなくなるような、そんなような気がしてならない。記憶の中でさえ会えなくなってしまえば、生きてはいけないことは感覚的に解っていた。どうにかして、記憶を取り戻さねばならない。そう思った。俺が、このまま変わらぬように。あなたが愛した、俺であれるように。そんなことを悶々と考えていたからだろうか、試してみないといけないような気がしてならなかった。

 骨かみなんて風習だってあるのだから、可能性は低くないであろう。それに四十九日を過ぎれば、あなたはもう俺の手元から離れていってしまう。これ以上、あなたとの距離が空いてしまうなど俺はきっと耐えられない。それなら。二度と離れられないように、体の中に入れてしまえばいい。一石二鳥である。自画自賛になるが、なかなかに名案ではないか。

 思い立ったが吉日、骨壷からあなたをいそいそと取り出して机に並べる。ちょうど今から床につくところであったし、やってみればいい。成功したところを想像して、へなりと頬が緩む。らしくないなと、元に戻そうとするが、何度口角を下げても勝手に上がっていってしまって、失敗した。

 あなたに会えたら、一体何をしよう。まずは、伝え残した愛を伝えたい。そのあとは、この腕で抱きしめたい。会話をしたい。瞳を合わせたい。やり残したこと、全てを。久しぶりに感じる心の浮つきを抑えて、丁寧に丁寧に。今度こそ、あなたの声を、目を、体温を。記憶に焼き付けなければ。我ながらかなり精神がおかしくなっているような気がするが、思いついてしまった矢先、止めることなどできなかった。

 ゆらゆらと、頭に残っている思い出たちを振り返る。記憶の旅の中で、ふと、俺達の間には会話というものがあまり存在していなかったことを思い出す。同じ空間にいることだけに重きをおいていたからだろうか。同じ時間に起き、同じ食卓で食事を摂り、隣で眠って。その生活に、言葉は介在していなかった。ただ、側にいて、寄り添って、それだけが俺達の愛情表現だった。偶に手を握ったりはしていたが、本当に、ただそれだけで。いつのまにやら、話すことすらできずに手遅れになってしまっていて。

 かつん、指が何か骨とは違う固いものに当たった。おや、と中を覗き込めば、そこは空っぽであった。どうやら全て出し終えたらしい。より一層頬が緩んで、戻らなくなる。今晩、話せなかった時間を含めて、沢山話そう。そう心に決めた。はやる気持ちを焦らして、一つ、小さめなものを持ち上げて光に透かす。あなたに、会えますように。何度も願ったそれごと呑むように、俺は骨を呑み込んだ。

______.。*。._____

 妙に現実味のない感覚に違和感を覚えて、瞼を開く。見えた景色は、どこか知らないようで知っている、喫茶店の店内。あぁ、これは夢だな、と当たり前のように気づく。そういえば、骨を呑んだ結果は、如何なったのだろう。見知らぬ場所に来てしまったということは、失敗したということだろうか。駄目だったか、そうか、駄目か。会えないか。会えると、思ったのにな。夢の中の感覚は思っているよりも冷え切っていて、どことなく他人事のようにその景色を見ていた。涙を流すわけでもなく、嘆くわけでもなく。その感覚は冷めていた。どこかで上手くいくはずがないと思っていたのだろうか、それはそうだなよな、なんて、諦めていたのかもしれない。

 早くこんな夢、覚めくれないだろうか。妻がいないのなら、なんの意味もないのだから。そのとき、からん、と扉が開く音がして顔を上げた。きょろきょろを店内を見回して、誰かを探しているふうであった。これまた妙な既視感に、無遠慮にじぃ、と見つめていた。だからだろうか、不意に、その人がこちらに顔を向けた。視線がかち合った。

 息を、呑んだ。

 あぁ、と思う。この目論見は成功したのだと悟る。ぽたりと涙があふれるようだった。そこに居たのは、紛れもなく、妻であった。懐かしい、まだ出会った頃の姿。見紛うはずなどない。幾度となく見つめた、あの妻だ。二度と会うことなどなかったはずの、愛しい人。

「こんにちは」

 凛とした声が響く。これまた、懐かしい妻の声であった。全身から力が抜け落ちそうであった。嬉しくて、どうしようもなくて。あぁ、そうだ。思い出した。ここは、初めて妻と会った、故郷の喫茶店だ。俺はここであなたに惚れ込んだのだ。一番に視界に入った美しいその姿と、透き通って凛としたその声に。やはり、記憶から抜け落ちていたのだ。何にも替えられないほど、大切な記憶であったはずなのに。

 耐えきれずに、ぱらぱらと雫が頬から流れ落ちる感覚がした。あなたの顔がぼやけている。スーツの袖で拭ったが、そんな程度では止まってはくれはしなかった。柄にもなく、えぐえぐとしゃくりを上げる。声も出せなかった。愛しいあなたがそこにいるのかと思うと、止まるはずなどなかった。

 初対面で泣き始める俺にあなたは随分慌てていた。どうされたのですか、嫌だったのですか、そうでしたらごめんなさい。困惑する彼女をよそに、俺はその声に嗚咽がひどくなっていく。鼓膜を震わせるその音に、一体どれだけ恋い焦がれていたのだろう。一体、どれだけ。あなたがいなくなってから、俺はどれだけ悲しかったか。どれほど泣きたかったか。

 耐えられなくなって、がたりと立ち上がった。一歩一歩踏みしめるように近づいて、手を伸ばす。指が温かいものに触れた。余計に涙が止まらなかった。距離はほんの数センチメートル。ぐっと、引き寄せて、抱え込むように抱きしめる。腕が痛くなるほど、強く。

 え、あの、えと、なんて久しぶりに聞いた声は、羞恥と、少しだけ若さの張りを含んだ、変わらぬ、優しい声であった。

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