【第四夜】

 夕方の買い物から家に帰った、夜も半ばの時間、俺は家の中の至る所をひっくり返して、とある物を探していた。閉まり切った戸棚の奥、机の引き出しの中、CDラックの隅の方。目標は夢で見たあのCDだ。いつの間にか記憶の隅にも追いやられて、しまった場所すら忘れていた。いや、存在ごと記憶から抜け落ちていた、が正しいのかもしれない。いっとう大事であった在りし日の思い出は、やはり、永遠ではないのだ。必要のない、再確認を強いられる。いないものを思い続けることは、想像以上に苦しみを伴う。苦しくてもいい、覚えていたい、そう願った俺は、いつの間にやら逃れる為に大切なそれを削除した。それは俺の意思でも、理性でもない。生き物として生きねばならない、本能ゆえの行動。頭では理解していた。妻であれば、それを話しても笑って許してくれるであろう。多かれ少なかれ、生物に精通した人間だ。生きてゆくことを大前提としていることは、十二分に理解している。それは仕方のないことだと、ちゃんと、わかっているのだ。あの人は、生き物とは何か、心の底から考え続け、答えを出していたから。きっと、“人間のように特定のパートナーを持つことのほうが珍しいのよ”と笑うのだ。

 ただ。

 俺は許せなかった。俺の中から、あなたがいなくなることが。あなたを忘れることが。あなたより、生きることを選んだ俺が。俺は信じたかった。なにものよりも、あなたが大事だということを。あなたがいなければ生きてはゆけぬということを。俺があなたを忘れて生きていけば、あなたは必要なかったということになりかねないような気がして仕方がなかった。俺自身が、あなたへの愛を、否定しているような、そんな気分であった。葬式のときも、涙ひと粒でないまま、気がつけばここまで日が進んでいる。俺は、本当に、あなたを、あいして、いた、のか。その感覚は日を追うごとに濃くなってゆく。俺はあなたともっといたかった。逝くなら、せめて連れて行ってほしかった。俺はあなたのことを、忘れたくなど、ないのに。

 見覚えのある背表紙を見つける。あ、と思って手を伸ばした。探し物だ。CDラックの奥の奥に仕舞い込まれていたらしい。指を引っ掛けてゆっくりと引き抜く。妻と初めて行ったライブの日に買った物。何度も二人で寄り添って聴いた、懐かしい思い出の詰まった一枚。

 ケースから取り出して、プレイヤーにセットする。吸い込まれていく円盤を眺め終わって、再生ボタンを押せば、今とは少し音質の悪い、ギターを掻き鳴らすロックバンドの音が響いた。

 誰かがいなくなった生活を歌う歌。いなくなった誰かを探し回る歌詞。突き刺さるギターの音。痛々しい、叫ぶよう歌声。さよならだけでは足りないと、もう一度でいいから会いたいと、ただ純粋に願うように聴こえるその音たちは、あの頃より、アイロニーの色と苦痛が肥大化しているように思えた。俺を取り巻く境遇が変わったからだろうか。

 あの頃は、あなたがいた。側に、最愛の人がいた。無情にも、永遠の別れを告げられることになるなんて、これっぽっちも考えていなかった。ただ、こうやってずっと、隣合う場所にいるものだと思い込んでいた。あなたと生きて、あなたと死ぬのだと、そう思っていた。

 俺より先にあなたがいなくなるなど、人生の設計図には書かれていなかった。予想などできるはずがなかった。あなたがいない未来など考えたくは無かったから。

 わすれたく、ない。おれの、なかから、きえて、くれるな。たのむから。ゆっくりと意識が滲む。久しぶりに外に出たからだろうか、予想以上に体は疲れているらしい。

 あぁ、ほねは、のまねば。たとえゆめのなかであっても、あえないのは、こまる。

 無理矢理に瞼を持ち上げて、あなたの眠る箱の中に手を入れる。適当に手にとって、口の中に運んだ。それを呑んだ瞬間、俺は意識をどこかに、落としてしまった。

______.。*。._____

 街頭だけが頼りの、真っ暗な道を歩いている。確か、ここは駅から家までの通り道であったはず。こんな夜更けに一体何があったろだろうかと思ったが、自分の服装でその疑問は難なく解消された。これは、お気に入りのロックバンドのライブの帰りだ。それも、妻と初めて行った日の。

 隣では、るんるん、と楽しそうに今日聴いた音楽を口ずさみながら、歩いている妻が見える。繋いでいるお互いの手の奥の手首には、ひと揃いにしたラバーバンドが着いている。その日に買った、バンドグッズだ。

 どうも久しぶりにその音を聴いたからなのか、そのバンドの話がしたくてたまらなくなり、どの曲が好きだったか問うてみる。あの、さよならだけじゃ足りない、のやつが好きです。音が、すごく、刺さるような気がして、苦しくなるんですけど、でも、その感覚がすごく、言葉に言い表せないほど、好きです、なんて長ったらしいものが返ってきて、この人は楽しかったのだな、と思う。ああ、俺もそれが好きだよ、と熱を込めて返して、ここがどう良かっただとか、ここのこれがどう苦しいだとか、二人で語り合う。

 この人の、好きなものへの熱量はとんでもないのだ。一度好きになれば、も二度と離さないと叫ぶように抱え込んで、そのことの話をすれば、熱い言葉が吐き出される。そんな性格が、俺はやっぱり、愛おしかった。そしてなにより、俺が好きなものを好きになってくれるのが、嬉しかった。

 夜に出かけるの、こんなに楽しいんですね、そう振り向いてあなたは笑う。ああ、そうだよ、知らなかったのか、そう言えば、ええ、なんてどことなく不満げな声がした。地雷だったか、と少し反省をして、下を向く。

 また、連れて行ってくれますか、と今度は不安げな声が聞こえて、思わず噴き出した。なんで笑うんですか、何がおかしいのですか、と怒られてしまったが、仕方ないだろう。そんなに心配しなくなって、何度でも連れていくに決まっているではないか。そんなに、楽しんでくれるのなら、連れて行かない理由などない。一緒に楽しめるのだから、無理矢理にでも連れて行ってやるではないか。

 ああ、もちろんだ。また行こう。ライブでも。夜の散歩でも。

 あなたが、笑った。心底ほっとして、何かを期待するような、笑顔。心なしかぶんぶんと腕を振られているような気がする。

 楽しみだな、そう俺も笑った。ええ、楽しみですね、とあなたも、笑っていた。

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