【第三夜】

 数年ぶりに、俺は青い世界の中に立っていた。そう、水族館である。昨晩夢で見たのもそうだが、妻がイルカが好きだったことを思い出して、ふと、行きたくなった。きっと妻がいないとイルカたちは寄ってきてくれないであろうが、まぁ、それが目的ではない。ただ、記憶に浸れればいいのだ。あなたとの、想い出に。

 交際を始めてから、初めての逢瀬は水族館だった。どこに行こうかという話になったときに、行きたいと言い出したのだ。唐突に耳に入った単語に、不思議に思ったところで、イルカが好きなのだと、教えてくれた。そうなのか、くらいで俺の中では終わっていた。ただまさか、あんなにイルカという生き物と通じ合っていとは思っていなかったが。

 彼女の好きの程度感を思い知ったのは、さぁ、同じ場所で暮らそうと、荷物を運び込んで荷解きをしたときだった。彼女の名前が入ったダンボールの中には、イルカを含め鯨類の関連書籍がどっさりと。それはもう、すごい量であった。これを全部読んだのか、と疑いたくなるほど。その後にまだまだ増えていくことになるとは、誰も予想できるはずがないであろう。

 多少生物学への知識はあったので、偶にイルカについて話すこともあった、が。彼女の知識量には敵わなかった。本当に。とんでもない量の知識があの頭に詰まっていたのだ。何を言っても正解と一緒にその事柄に関係する研究資料や本が返ってくる。勝ち負けなどないはずであるが、こちらが疲弊しきって白旗を上げるのが常だった。そしてあなたは、流石に、専門分野で負けるわけには行きませんからね。と普段とは違う鼻息を荒げた得意げな顔で言う。ついでに、そういうことに興味があるのならこちらはどうでしょう、なんて一冊の本を差し出してくるのであった。

 俺は律儀にその本を読んだものだ。大抵のことはわからないまま終わったが、話題が増えるのは有難かったし、なにより、妻の人生の一端を垣間見ることができてる気がして、少しだけ、嬉しかった。

 ここはどういうことなんだ、と尋ねることも多々あった。そのときも、問いの答えと同時に関係することや、似た話など、それこそ倍以上のものが降ってくる。無理だと理解しながらも、とりあえず付いていこうと試みるのだが、やはり途中で脱落してしまう。わけがわからなくなって目を回すのが俺の仕事だった。そんな俺を見ながら、妻は笑って、それでも、根気よく、わかるまで噛み砕いて説明してくれた。心底楽しそうに。その表情は、それ以上がないくらい、嬉々としていた。普段のお淑やかで落ち着いた彼女ではなく、目が怖いくらいにキラキラと輝いて、言葉は流れの速い渓流のように流れ出ていく。それを見ているのが俺は好きだった。俺が見てきた彼女の中で、一番、幸せそうな顔であったから。あんなに顔を輝かせるあなたを、あの時間以外で俺は見たことがない。

 あぁ、いや。その嬉しさは、顔以外にも滲み出ていたか。流れるように飛び出す言葉に。説明のために動く、手と、指の一本一本の動きの速さに。

 イルカの話題を話す度に、本当に好きなんだな、と笑って、そうですよ、舐めてもらっちゃ困ります、と真顔で言われる。それがルーティーンだった。

 夢の中で見た景色と全く同じ場所に立つ。見上げた世界は何も変わらないままであった。あの日のように圧倒されたのか、はたまた妻がいないことへの防衛反応なのか、動く気になれぬままぼんやりと突っ立っていると、一頭のイルカと目が合った。どこか懐かしさを覚える顔。妻が一番良く戯れていた個体だろうか。すぃ、とその体がこちらを向いた。そのまま吸い寄せられるように近づいてくる。夢の中と同じように、俺の目の前で止まった。違うことは、あなたがいないということだけ。

 一頭と一人、見つめ合っている。まるでそれは、共通の大切な人がいなくなったことを、慰め合うようであった。耳に、聞きなれない音が入ってくる。

 目の前の動物が、ないている。


ぴゅう

なんだい。

きゅう

もういないんだよ、ごめんな。

ぴゅうぴゅう

あぁ、そうだな。

ぴゅい

あんたも悲しいか、そうか。


 一瞬、本当に悲しそうに見えたのは、俺の妄想だろうか。まだ人間以外の生き物に感情があるかの確証は取れていない。科学の世界では。でも妻は笑って言っていた。あの子達には確実にそういうものがあると思うの、だって表情があるもの、と。


なぁ。

ぴゅう

あの人は幸せだったのだろうか。


 先程よりも強く、少し優しさが混じったような、視線。じっとりと見つめ合う。なぁ、と、もう一度問いかける。その答えが返ってくることは、一度も無かった。

______.。*。._____

 ガサゴソとあまり耳障りの良くない音が聞こえる。厚手の紙が擦れるような身が縮む音。少しばかりの不快感を覚えて顔を上げると、そこはいつもの我が家の景色。ただ、今のように装飾や家具はカスタマイズされる前の姿で、各所にはダンボールが積み上げられている。

 どうやら引っ越した直後の時期であるようだった。少し遠い左斜め前辺りに、妻が蓋の開いたダンボールと向き合っている。箱に詰まった本を次から次へと出しては横に積み上げている。懐かしいからなのか、偶に、適当に本を開いては中身を眺めている。

 俺の手元にも、蓋が空いているダンボールが一つ。そんなことをした日もあったなと、頭の片隅を探りながら、縁に手をかける。中に入っていたのは、大量のCD、本、そして生活用品。一枚、CDを取り出してみて、蓋を開ける。懐かしい代物であった。今ではもう、どこにあるのかすらわからないそれは、記憶の中にあるものより綺麗な状態で、あぁ、と思う。まだまだ、俺の人生が始まったばかりの頃の話なのだと。あなたとの生活が、楽しみで嬉しくて仕方なかった頃の。

 そういえば、妻の趣味の水族館に付き合うだけではなくて、俺の趣味であるライブに連れて行ったことも何度もあったなと思い出す。俺の想像以上に箱入り娘だったらしい妻は、夜に外出することすら許されなかったそうで、それだけで、静かにはしゃいでいた。もちろんライブなんて行ったことはあるはずもなく、初めて耳にする音たちに目を輝かせていた。夜遅くに家に帰り着いて、二人で語りながら夜を明かしたのをよく覚えている。

 あの、と声がかかった。どうした、と聞き返せば、本を棚の上の方に置いてくれないかという話であった。手が届かないらしい。ああ、やっておくよ、と返して立ち上がる。妻のそばまで寄っていって、一冊づつ手にとって持ち上げる。一冊一冊が重たく、全て持てば男の俺でも運ぶのに一苦労の重さ。表紙を見ると、それは、分厚い学術書たちだった。それも随分使い古された様子の。これは、と尋ねる前に妻が口を開く。これまでの人生で読んできた本たちですよ、と。思わず、言葉に詰まった。当時の俺はそこまでだとは思っていなかったのだ。ようやく気づいた、この人の本気度合いに。ただの“好きだろう”なんて舐めてかかっていた。

 本当に好きなんだな、と溢せば、ええ、もちろん、なんて真面目と笑いが絡まった声が飛んでくる。疑って申し訳なく思いながら、俺は本棚に本を収めていた。

 そんなあなたが俺は愛しいと、口にしそうになって、噤む。代わりに、収め終えて手持ち無沙汰だった両手を妻に向ける。躊躇いなく腕を掴んだ。疑問符を浮かべる彼女をよそに、そのまま引き寄せる。夢の中で初めて会ったあの日より、ずっと優しく、俺は妻を腕に閉じ込めた。

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