【第五夜】

 壁にかけてあるラバーバンドを見やる。色違いの、隣に並ぶ二つのもの。まるで、俺達の絆を表しているような、そうでないような。

 橙が、俺のもの。水色が、妻のもの。おもむろに、片方の、橙色のものを手に取る。男のごつい手にはなかなか入れづらいが、伸びるゴムの素材をしているので、少し時間はかかったが手にはめることができた。光に翳して、観察する。随分年季が入ったものではあるが、その懐かしさと愛しさは、変わらぬままであった。

 このラバーバンドをつけて、よくライブに行ったものだ。あまり好きそうではないよな、と思いながらも、俺の好きなものに興味を持ってくれたのが嬉しくて、思わず連れて行ってしまった。なんですか、これ、と眉を顰められることを予想していたのだが、ありがたいことにもその予想は外れた。その日を境に、妻はそのバンドに猛烈に耽溺してしまったのだ。翌日にはCDを貸してくれと部屋に押しかけられ、いくつか渡してみれば、ほくほくと、嬉しそうな顔で去っていった。それから少しすると、もう一度戻ってきて、恥ずかしそうにこちらを見ながらプレイヤーの使い方を訪ねてきたのだが。

 説明する中で、ふと、思いついて、ああ、そうだ、一緒に聴こうか、と提案すれば、妻は顔を輝かせた。是非に、と。その後は、そのバンドのCDを二人で制覇した。全て聴いて一周したのだ。何十枚とあったCDたちを。

 妻がここまで好きになるとは正直思っていなかったので、かなり驚いてしまった。それと同時に、とても、嬉しかったのを覚えている。

 またライブも行こうとその日にも約束をして、その日は語り合いながら眠りについた。ライブの帰り道に語り合ったように。本当に、その時間は楽しくて仕方がなかった。まさか、妻とこの話をできるようになるだなんて、一つも想像していなかったから。それに、好きな曲も、大体同じだったのが、言葉では言い表せぬほどの感動と喜びに詰まっていて、どうしようもなかった。毎晩毎晩、どこのどれが好きだとか、これとこれが繋がっていて、切ないだとか、そんな話ばかりしていた。

 流石に結婚してからは落ち着いていたが、それでも、二人でコンポの前に座って、よく聴いていたものだ。別れの歌ばかりであったはずだったが、俺達はそういうものを好んで選んでいた。別れを知らないはずの、俺達が、だ。

 あの頃理解し得なかった感情を、俺は漸く理解した気分になる。大切な人がいなくなる苦しみと、その記憶を忘れていく恐怖を。指の間から空気のように滑り抜けてゆく、というような話があった記憶があるが、まさにその通りなのだ。

 掴めないまま、両手から溢れて、指の隙間からすり抜けてゆく記憶たちは、一度漏れればもう二度と帰ってこない。どれだけ悲しくて、辛くて、苦しくても、だ。覚えていたとしても、記憶なんて言うのは不確かで、いとも簡単に改変されていく。それが、どうしても、俺は嫌だった。

 だから、骨を呑むのだ。あなたのことを、思い出せるように。新鮮な記憶のまま、持ってい続けられるように。

______.。*。._____

 重厚な何かの金属音がそこら中に響いていた。頭に響くその音に顔を上げれば、そこにいたのは、真っ白い姿の、妻。それも、美しいドレスを身に纏っている。下を向けば、これまた真っ白なタキシードが目に入った。もう一度、前を向く。ふんわりと、たっぷり広がるプリンセスドレスを着た、その姿が目に入った。あまりにも美しく、そして愛らしいその姿に、ついに俺は記憶を捏造し始めたのかと、自身を疑った。

 何をぼんやりとしているのですか、と軽く睨まれ、ようやく気づく。

 これは、俺達の結婚式だ。

 あの頃の結婚式といえば、和風が主流であったが、妻がどうしてもドレスが着たいと言うので、なんの躊躇いもなく了承したのだ。俺としては、確実にドレスが似合うと確信していたので、むしろ大賛成であった。親からも反対はなかったし、金は俺が全て出していたので、誰も文句は言ってこなかったはずだ。

 もう一度、あの姿が見れるとは到底思っていなかったので、嬉しさで世界が滲む。誓いますか、と今では定形になったそれが読み上げ終わる前に、ええ、誓います、だから、あなたも、いなくならないで、なんて口走る。目を丸くするあなたがおかしくって仕方がなくて、ぷっと俺は噴き出した。それを見たあなたは余計目を丸くしたあと、同じように、笑い始めた。そのまあるい目を、半月形に歪めて。ええ、もちろん、私だって誓いますよ、あなたこそ、ずっと側にいてくださいね、そう言われて、ああ、ずっと側にいるさ、なんて囁いて、にこやかに笑う。だって俺は、あなたを愛しているから。この世で一番、愛しているから。

 ヴェールを上げて、顔を近づけた。柔らかい感触と、温かい感覚に、ぽたりと雫が落ちる。こんなこと、もう二度とないと思っていた。こうしてあなたに触れることなど、もうできないと思っていた。嬉しくて仕方がなくて、微かに緊張で震えている手を取る。ぎゅう、と握れば、ぴくり、手が跳ねる。すりすりと指の腹で撫でて遊んでいたら、握った力よりも強く、握り返されてしまった。広角が緩む。お互いに、ふ、と息を吐き出すように笑う。角度を変えてもう一度。押し付けておでこをこつりと当てる。その感覚に浸っていると、不意に、妻の手が俺の手から離れた。追うように手を伸ばせば、とん、と胸を押されて唇ごと離される。何だ、嫌だったのか、と顔を見れば、周りを見ろと、目で訴えられる。妙な違和感のある空気感に客席側を見れば、皆、苦笑いをしている。あぁ、すみません、そう心の中で思いながら向き直れば、また後にしましょうね、と微妙な笑顔で囁かれた。

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