東大行きたきゃ柔道をやれ【第3回 MF文庫J evo参加作品】

逆井 卓馬/MF文庫J編集部

東大行きたきゃ柔道をやれ

 相手は女だ。勝てると思った。


 難易度としては激辛ラーメン一杯を平らげる程度だろう。つまり、楽ではないが達成可能。

 だからこそ俺は勝負を受けたのだ。

 条件は、本当に何をしても構わないというものだった。殴る、蹴る、目を潰す、髪を引っ張る、首を指で絞める、関節をきめる――俺のような素人からも反則だとわかる行為ですら、この女は許容するという。一方で向こうは、あくまで中学柔道のルールで戦うそうだ。


「金的もありとしようか」


 冗談なんだかわからない淡々とした口調で、彼女はそう言った。

 しようげんはる。俺と同じ中学三年生。小柄で細身だが、体に馴染んだ白い道着に少し色褪せた黒帯が、明らかに戦い慣れたオーラを放っている。細やかな黒髪は女にしては短く、耳から首筋にかかる程度。結んでいるところは、中学校生活二年ちょっとの間、見かけたことがない。柔道で邪魔になるから結べる長さまで伸ばしたことがないのだろう。切り揃えた前髪の奥、濃くまっすぐな眉の下から、武闘家らしく鋭い視線がこちらを見定めていた。


「……生源寺には狙う『金』がないだろ」


「女だって、股間は蹴られると激痛だ。うちまたが下手くそな奴に何度かやられたことがある」


 内股とは技の名前なのだろう。俺はそれすらよく知らない、初心者だった。

 へにゃりと垂れ下がる白帯を改めて少し締める。貸し出されたよれよれの道着は心許ない。

 畳の上、一対一の勝負。柔道のルールはよく知らないが、今回は難しいことを考えず、相手の背中を畳につければ勝ちとなっている。小学生が砂浜でやる相撲のようなものだ。


「あらかじめ断っておくけど、俺にだって分別はある。卑怯な真似はせずに勝つつもりだ」


「ほう、言うな」


 経験の差は歴然とはいえ、こちらは男で向こうは女。体格差がある。生源寺はどんなに多く見積もっても四〇キロ台前半で、こちらは五〇キロ手前。小学生のときに体操を習わされていたから筋力だって並くらいはある。つまりほとんどの女子には勝っている。体操で身につけたバランス感覚があるから、簡単に転ばされるつもりもない。勝たなければならない戦いだ。


「そろそろ始めよう」


 生源寺はそう言うと、自分の太腿をぱしんと派手に叩いた。女の体からそんな音が出ていいのかという、乾いた鋭い破裂音が反響する。


「条件はいい? もりが勝ったら、私は森居の言うことを一つ聞く。私が勝ったら、森居は夏休みが終わるまで柔道部に入る」


「いいだろう」


 俺たち二人だけの柔道場。古い建物のにおいが漂う。木のフローリングに囲まれて、塩化ビニル製の畳が正方形に敷き詰められている。淡い緑色の畳の中には赤い畳で正方形の枠が示されており、その枠内が試合を行う場所となるようだ。


「私が仕掛けた勝負だ。始めの合図のタイミングは森居に任せよう」


「いや、生源寺が言ってくれ」


 これは単純に、「始め!」と声を張る役割は性に合わないと思ったからだった。

 赤畳の中に入り、畳二枚の距離を置いて対面。生源寺がこちらをまっすぐに見る。初めて受ける種類の視線に心臓が脈動を止めるような感覚があった。当然、恋に落ちたわけではない。

 それはまるで肉食獣の目。あるいは猛禽の目――不思議と吸い込まれる瞳だった。


 止まっていた呼吸を意識的に再開させると、口の中が潤いを失い、きなこ餅でも食べたときのように唾液がねっとり乾いているのに気づく。思えばどんな形であれ、体と体でぶつかる勝負に挑んだことはない。闘争を前にすると動物はこうなるのかと余計な考えが脳裏をよぎる。

 向こうが頭を下げたので、俺も同時に頭を下げた。向かい合って、一拍――


「始め!」


 俺は慎重に距離を詰めた。一方生源寺は慣れた様子のすり足で横に回り込む。

 突然、生源寺が一瞬で距離を縮めてきた。柔道にはどことなく緩慢な動作のイメージがあったが、それはボクシングにも近い俊敏なジャブだった。気づけば生源寺が俺の左袖を握っている。手を引いて振り払おうとするが、彼女の手は穴に指でも通したかのように離れない。


「っ……!」


「どうした?」


 向こうは肩を脱力させた様子で、話しかけてくる余裕さえある。


「小指と薬指と中指で巻き込むように握るんだ。これがフックになって、簡単には外れない」


「教官気取りか」


 外れないものは仕方がない。筋力の差があるのだから素直に組んでしまえばいいだろう。

 生源寺を睨むと、至近距離で、磁石と磁石が合わさるようにぴたりと目が合う。これほど近くで女子と見つめ合ったのは初めてかもしれない。ふわりと浮かぶ感覚。


 ――浮かぶ?


 次の瞬間、俺は畳の上で仰向けに倒れていた。


「たあぁぁぁ!」


 生源寺の掛け声の残響が遅れて耳に届く。

 痛みは全くない。布団に寝かされるような優しさで、俺は生源寺の足元に転がされていた。


「早かったな。勝負ありだ」


 上下逆さの顔がこちらを見下ろしてきた。俺は呆然としたまま立ち上がる。


「これは……どういう……」


いっぽんおい。柔道では、そんなにひょろひょろ重心を高くしていたら投げられてしまう」


 狐につままれたような気持ちで最初の位置に戻り、頭を下げる。

 同学年の女子に負けた。見事なほどの完封で。これはおそらく一本負けというやつだろう。

 信じられないが、賭けは賭けだ。俺は柔道部に入らなければならないらしい。


「本当に、こんな俺に柔道部に入ってほしいのか」


「初めからそう言っている」


 汗一つかかずに涼しい顔をして、生源寺は俺にタオルを差し出してくる。そこでようやく自分が汗だくになっているのに気づいた。悔しさに歯を食いしばりつつ、小さく頭を下げて受け取る。頬から畳に滴りそうな汗を拭うと、生源寺の道着と同じ洗剤のにおいがした。

 あまりにも強いその刺激に、この先に待ち受けている茨の道を悲観する。


 この学校の柔道部には女子しかいないのだ。





 きっかけは、文芸部の顧問に文字どおり肩を叩かれたことだった。

 もともとやる気のない文芸部員だった。入学と同時に本が好きだという理由だけでなんとなく入部し、他の部員もそんな感じで、じゃあ一人でやればいいかと考えるようになり、中三へ上がるころには幽霊部員になっていた。勉強に趣味に、自分の時間は足りないくらいだった。

 毎日、放課後になればすぐ帰途に就く――そんな生活を繰り返していた中三の四月、文芸部の顧問である国語科教師のつく先生に校門で肩を叩かれる。


「森居。柔道部の、体験に来ないか」


 上弦の参でさえこれほど唐突な勧誘はしないだろう。俺が眉をひそめたのは当然だ。


「なんですか、いきなり」


「実は俺、柔道部の顧問も、やってるんだよな」


 初耳だった。佃田先生は三〇前後の、眼鏡をかけた若い男性だ。きかんしゃトーマスのナレーションで知られるもりもとレオのごとき穏やかな語りで絶望的な眠気を誘う授業が評判の彼に、柔道はあまり似合わない。いや、それ以前に――


「どうして僕を? そんな体格に見えないでしょう」


 身長はまだ一六〇センチに届かない。早生まれであることを加味しても、学年の男子の中ではかなり成長が遅い方だと言える。体重もBMIとやらに従えば適正体重よりはいくらか少ない。明らかに、柔道向きの体ではないはずだった。


「いいや。だからこそ、なんだ」


 f分の一ゆらぎを含むとされる声で、佃田先生は説明する。


「俺は二年前の、洟垂れ小僧の時代から森居を知っている。森居は今、成長期のさなかだ。鍛えれば鍛えた分だけ、森居の体は進化できる。まだ運動部に所属していない中三で、ガリ勉ばかりのこの学校で戦力になりそうな中三、となると、俺には、森居しか浮かばなかった」


「中三にこだわらなければいいじゃないですか。新中一や新高一がいいと思います」


 ここは都立の中高一貫校。高校からの募集はない完全エスカレーター式だが、高校になると制服がなくなるし、校則も緩くなるし、部活の選択肢も増えるし、難関大受験を見据えて予備校に通い始める人もいて、中高で割と雰囲気が違う。言ってみれば動物園とふれあい牧場くらいには異なっている。ふれあい牧場へ進学する機会に部活を変える生徒もいると聞いていた。


「中三の部員が男の同期を欲しがってるんだ。今、中三は一人しかいないからな」


 一人しかいない――柔道部、中三。その条件から、自然と顔が浮かんだ。誰が何部に所属しているかなどには全く興味がない俺でも知っているくらいの、有名人。


「一度だけでいいんだ。来てくれるよな、森居」


 そのときの俺はいかにも嫌そうな顔をしていたことだと思う。しかし意志薄弱な俺は、一応世話になっていた先生の誘いを断れず、頷いてしまったのだ。

 まあ入部届を出さなければ大丈夫だろう。一度だけ、覗いてみるくらいなら――


 しかし薬物乱用防止のポスターにも書いてあるように、一度だけというのは絶対に信用してはならない類の言葉なのだった。





 生源寺治佳に贈られる讃辞を総括すれば、それは「超人」という一語にまとめられる。


 成績は中一の春からずっと学年一位。得意科目は数学。小学校時代にホームステイした経験があるとかで、英語もペラペラだ。英語の授業の総括として開催されたスピーチコンテストでは、見事なまでにブリティッシュなイギリス英語で満場一致のグランプリを勝ち取った。


 それに飽き足らず、柔道の黒帯までもっているときた。黒帯が具体的にどうすごいのかよくわかっていない我ら中学生でも、黒帯と聞けばなんだかすごそうなことはわかる。「あいつ黒帯なんだってよ」「マジすげーよな」といった具合に生源寺はよく噂されていた。

 そうした期待を裏切らず、体力テストのスコアは女子の中で一番だったそうだ。体育祭でもリレーから騎馬戦から大活躍して、男からは感嘆の雄叫びを、女からは黄色い声援を浴びた。


 これらの実績と、飾らないが整った容姿に、大人びた口調がマッチして、生源寺治佳といえばクールでハイスペックなスーパーウーマンという評価が確立している。

 ちなみに彼氏はいないらしい。投げられるのが怖くて、男どもが寄りつかないそうだ。


 佃田先生に言われたとおり格技棟へ行くと、そんな彼女が道着姿で柔道場から出てきた。

 片手に帯で縛られた道着を持っていて、それをいきなり俺に手渡してくる。


「サイズが合うかわからない。とりあえず着てみてくれないか」


 真っ先にかけられた言葉がそれだった。というか、きっと人生で初めて生源寺が俺に向けた言葉が、それだった。同じクラスになったこともないし、話したこともない間柄だ。認識すらされていないだろうからまずは自己紹介をしなければと思っていたが、生源寺は俺の顔を見て柔道部の体験に来た森居りんろうだと識別できたらしい。


 こちらが一方的に認識して――目の敵にしているのだと思っていたから、意外だった。


「内側に体操着か何か着た方がいいのか」


 リズムを崩された俺は、生源寺が道着の中に白いシャツを着ているのを見て聞いた。


「いや、着なくていい。動くと暑苦しくて不快だから、着ないことをおすすめする」


 じゃあなんで生源寺は着ているんだ、という愚かな疑問が俺の脳内にふと浮かんだのを察知したのか、生源寺は面白くなさそうに両手で道着の襟を緩めてみせる。


「お望みなら下着だけでやってみてもいい。でも、おそらく森居が目のやり場に困ると思う。男は着なくていいんだ」


 ずっと同じ調子でしゃべるものだから冗談とそうでないところの違いもわからない。俺は曖昧に頷いて、汗臭い男子更衣室へと引っ込むことしかできなかった。


 スマホで着方を調べながらなんとか道着を装着し終え、柔道場に入る。畳が敷かれたがらんどうの空間に、ぽつりと、かつどっしりと、生源寺が一人で待ち構えていた。


「……佃田先生は?」


「いつか来る。先に始めていよう」


 生源寺はそう言いながら近寄ってくると、突然、俺の帯をほどき始めた。


「え? おい、何するんだよ」


「結び方が間違っている。内側の帯を巻き込むところは正しいけど、途中でねじれているし、本結びではなく女結びになっていた。女結びはほどけやすく、みっともない。かつて船乗りたちからはgranny knot――すなわちおばあちゃん結びとにされた結び方らしい」


 そんなうんちくを垂れながら慣れた様子で白帯をほどいた生源寺は、背中側に回り込むと、俺の腰を抱き込むようにして手早く帯を結んだ。同年代の女にこれほど接近された経験がなかった俺は固まるしかなく、ベルトよりずっときつく締めてくる感覚でようやく目を覚ました。


「さあ、これでよし。準備運動を始めようか」


「他の部員は?」


「いつか来る。先に始めていよう」


 そのセリフは少し前に聞いた気がする。


 何かがおかしいことには気づいていた。だが生源寺が「いーち、にっ、さん、し」と掛け声を発しながら準備運動を始めたため、体がなんとなくそれに続いてしまった。体育の授業というのは大変な刷り込み教育であるから、いつか是正されなければならないと思う。


「そうだ、一つ簡単な賭けをしてみないか」


 屈伸、伸脚、アキレス腱――ごく普通の準備体操を終えると、生源寺は京都旅行でも思い立ったかのような唐突さでそう提言した。


「賭け……?」


「うん。悪い話じゃない。森居にとっては分のいい勝負のはずだ」


「勝負って何だ。まさかいきなり試合をするわけじゃないよな」


 生源寺はその質問に答えなかった。代わりに、見たこともない種類の視線を向けてくる。


「森居は私に負けるのが怖いか?」


 突き刺すような、見極めるような。喩えるならそれは、的を見据える弓道家の目。


 それから上手いこと口車に乗せられ、プライドを挑発的にくすぐられて――

 あっさり肉食獣に食われてしまった俺は、柔道部への入部を余儀なくされたのだった。





 授業は一五時四五分に終わり、最終下校は一八時。部活動にはおよそ二時間が費やされる。


 柔道部の活動は、月・水・金・土の週四回。土曜は一三時半から一七時までの三時間半に延びるため、週に九時間半。隔週の職員会議で水曜の活動がなくなることを加味しても、なんと週に八時間半という時間的資源が俺から奪われることになった。

 いったい何のためにこんなことを――それが俺の一番の気持ちだった。


「ひと夏、一緒に頑張ってみよう。この経験はきっと、森居のためになるから」


 と佃田先生は丸亀製麺のCMのような声で言い、


「約束だろう。夏休みが終わるまで付き合ってくれればいいんだ」


 と生源寺はただ淡々とそればかり言う。二人とも、全然説明になっていない。


 かんこうれいを敷かれた未来人からピー音だらけの抽象的な指示を受けている気分だった。来たる夏、俺が柔道をやっていれば救える命があったりするのだろうか――なんて思うほどに。

 当然この物語にそんな展開はない。


 賭けに負けたから入ったと言えばそれまでだが、俺が柔道部にいる意義がわからなかった。佃田先生が期待するほど柔道部が俺に資するところはないように思えるし、逆に、生源寺がなぜか期待しているほど、俺が柔道部に資するところもないように思えた。

 それでも約束は約束なので、俺は五月から柔道部の活動に参加するようになった。


「黙想! ………………やめっ!」


 道場の正面に向かい一列になって正座をし、目を閉じて精神を集中させるところから稽古は始まる。正座のために膝を折る順番まで決まっているところはどこか宗教めいており、スポーツというよりやはり武道、人間形成のための修行なのだと実感した。


「実を言うと、この決まりは刀を抜きやすくするためだ」


 宗教みたいだと漏らしたところ、生源寺は言った。


「かつて、太刀をくときは腰の左側に吊るした。左の膝から折って正座し、右の膝から立てて起きるようにすれば、動作の最中でもすぐに抜けるんだ」


 右膝だけ立てた姿勢で、生源寺は左の腰から見えない太刀を抜き、その切っ先を俺の首元に向けてきた。居合でも習っていたのか、本当に刃が見えるような動きだった。


「……でも柔道は刀を使わないだろ」


「柔道はもともと、太刀や槍を失った身でいかに攻撃し、いかに防御するかという柔術から発展したもの。命を懸けた何でもありの殺し合いの場で勝ち抜き生き残るすべが起源だ。道場では刀を使わないからといって、刀をなかったことにしていいという話にはならない」


 部活で殺し合いという言葉を耳にするとは思わず、形のない刃を向けられたまま俺は呆然とした。横で他の部員たちがアップのために距離をとり始める。生源寺はようやく刀を納めた。


 ところで、柔道部員は俺を含めて全部で四人しかいない。

 俺以外には、生源寺治佳、彼女の妹で中一のせい、そして高一のふくしまかね先輩。

 ここで新規に名前が登場した二人については、のちほど説明しようと思う。というのも、俺が入部して間もなく、一学期中間考査の試験期間に入ってしまったからである。もともとコミュ障の俺が女子たちの部に馴染めるはずもなく、彼女たちとはまともに会話ができなかった。


 それを差し引いても、滑り出しは苦痛としか言いようがないものだった。


 まずトレーニングが意味不明だ。前転、後転、開脚前転、開脚後転、倒立前転、倒立後転といったマット運動に始まり、畳の上で得体の知れない動きをひたすら行う。

 足蹴り、足回し、足交差、ブリッジ、前ブリッジ、肩ブリッジ、脇締め、えび、逆えび、横えび……名前だけではいまいち動作が想像できないし、動作を見せられたところでいまいちやり方がわからないような修練によって、全身の筋肉を余すことなくいじめ倒すのだ。

 得体の知れないトレーニングにより普段は使わない箇所が筋肉痛になるため、日常生活に支障が出た。椅子に座るのも一苦労、ノートパソコンのキーボードを打つだけで肩が痛くなる。


 そこまでしているのに、試験までは基礎を固めることに専念すべしとのことで、俺はまともに技を教えてもらえなかった。準備運動とトレーニングを他の三人と一緒にして汗だくになったあと、彼女たちが「打ち込み」と呼ばれる技の型の練習をしたり「乱取り」と呼ばれる試合形式の練習をしている間、ひたすら隅の方で受け身の反復練習をさせられた。


 受け身とは要するに、上手く転ぶ方法である。後ろに倒れる「後ろ受け身」、横に倒れる「横受け身」、前に倒れる「前受け身」、前方に体を投げ出す「前回り受け身」。


 頭を保護するため首を地面とは反対方向に縮める癖をつけること、地面に手をついて腕や手首を痛めることがないよう畳を腕全体で叩く癖をつけること――いざ本番となったとき不意に全力で投げられても怪我をしないよう、反復によって体に覚えさせるのだ。


「最初はつまらないだろうけど我慢してほしい。ここで怪我をされたら部の存続が危うい」


 初日に俺をぶん投げた身で、生源寺はそんなことを抜かしていた。ちなみに顧問の佃田先生がいない場合、相手に技をかけて投げる対戦形式は禁じられているらしい。それならば、あの二人きりの勝負など許可されるはずがない。よほど言ってやろうかと思ったが、あの恥ずかしい敗北のことには触れたくないという気持ちが勝ってしまった。


 柔道部に勉強時間を奪われたせいだろう、中間試験の結果は過去最悪だった。

 内輪で「なんちゃって進学校」と呼ばれる校風なだけあり、我が校では主要五教科の合計点で学年一六〇人中、上位一〇名の氏名と点数が掲示される。

 俺、森居林太朗の名前は、その中に存在しなかった。初めてリストから脱落してしまった。


 入学後すぐの中間は学年二位、その次の期末も同じく二位だったのに、この二年間で着実に順位を落としていき、今や欄外だ。勉強くらいしか取り柄がないという自負のあった俺だが、才能は枯れ努力は実らず、塾へ行く余裕のある奴らにどんどん追い抜かれてしまった。


 ちなみに生源寺の名前は相変わらず一番上にある。俺との点差は五〇〇点中、五二点。

 文武両道とはよく言うが、俺は文も武も到底生源寺に及ばないらしい。


 畳の上で意図せず仰向けになったときの光景が、嫌でもフラッシュバックする。リストを見ているだけで頭が痛くなってきて、俺は鞄に常備しているバファリンを二錠飲み下した。





「そろそろお望みの、技の練習に入ろう」


 試験明け、部活動解禁となった土曜午後、生源寺は鳩に豆でも与えるような口調で言った。


「別に俺は望んでなかったけど」


「そうか。それなら、夏休みが明けるまで毎回ずっと受け身の練習をしていてもいいんだ。車に撥ねられたときの生存率がいくらか上がるだろう」


「技を教えてください」


「よしその意気だ」


 顧問の佃田先生も大学時代に初段をとっており、すなわち黒帯なのだが、生源寺の方が型もしっかりしていて体格も俺に近いということで、生源寺が俺に技を教えることとなった。


 ちなみに、生源寺の妹、盛佳は、まだ年齢が足りず白帯。身長は生源寺とさほど変わらないが、やたら細くて、柔道をやって大丈夫なのかと心配になるほどだった。生源寺曰く反抗期ということで、俺には心も口も全く開かない。内心「このチー牛きっしょ」と思っているのが俺を見る目つきから伝わってくるので、こちらからもあまり構わないようにしていた。

 高一の福島先輩は逆に大きい方だった。身長は一七〇に迫っており、柔道家と言われて想像するような、女性にしては骨太で筋肉質の体格。黒帯だ。先輩はキモオタにも優しく、割とよく話しかけてくれた。だがむしろこちらが萎縮してしまって、会話が続かない。

 生源寺が俺の相手をしている間は、この体格差しかない二人が互いに技をかけて練習する。


「よそ見をするな、私じゃ不満か」


「悪い」


 デート中の彼女みたいなことを言うな、とツッコミを入れることもできたが、そういった文脈が生源寺に通じるか不安なところもあったので、俺は素直に謝った。


「まずは基本を覚えてもらう。おいなげはらいごしたいおとしおおそとがりおおうちがりうちがりひざぐるまささえつりこみあしおくりあしばらい。夏休みまでにこれくらいできるようになれば上々だ」


「そんなに? 多くないか」


「ばらばらに覚えるより、セットで覚えた方が楽なはずだ。だけど今日は初回だから、理屈も型も明確な大外刈に専念しよう」


 生源寺はいきなり手を伸ばし、半グレも驚く気安さで俺の襟をぐいと掴んできた。


「森居は右利きだな。まずは右組みでやってみるのがいいだろう。右手で相手の左襟を取り、左手で相手の右袖を取る。これは森居も知ってるな」


「そのくらいなら、まあわかる」


「よし。襟を持つ釣り手は固い部分を巻き込んで握る。袖を持つ引き手は縫い目の部分に引っ掛けて握る。この二つの手で相手の動きを制御するんだ。実際にやってみよう」


 言われるがままに組み合うと、互いの距離が嫌でも近くなる。今はあの捕食者の目ではなく普段どおりの生源寺の目だ。どうしても相手が女であることを意識してしまう。生源寺の首の横を掴んだ右手の親指に、生々しく湿った体温が伝わってくる。


「どうした。そう固くなるな。これは試合ではない。むしろ社交ダンスの練習だ」


 しかし社交ダンスなどよりも、試合の方がよほど自然体でいられる気がした。


「……わかった」


「握力以外の力は抜いていい。脚も楽にして、肩幅くらいに開く。右組みは右肩が前に出る姿勢だから、右足が少し前だ。互いに若干半身になる。これが自然な形だ」


 相手が右足を出してくるので俺は左足を引く。なるほど確かに社交ダンスだ。身長もさほど差がないから顔が近い。昼に変なものを食べなかったよな、などと場違いにも考えてしまう。


「こうすると私たちは点対称だ。まずは私がゆっくり説明しながら技をかけてみるから、次に自分が点対称の動きをすると想像しながら受けてくれ」


 柔道の説明に点対称という言葉が出てくるあたり、やはり頭脳派だ。俺は頷いた。


「大外刈は、自分の右胸と相手の右胸を合わせ、自分の右脚で相手の右脚を刈る技。技がかかるまでは点対称に近いから、やられそうになった側がその姿勢からやり返す『おおそとがえし』というものもあるくらいだ」


 言いながら、生源寺は両手で俺を引っ張り上げ、一歩踏み込み、胸と胸を合わせてきた。俺の体は生源寺の側に傾かざるを得ない。互いの右耳が触れ合うほどの距離感。

 ロマンチックな場面ではないはずだが、男女の距離感として健全なものではない。


「次は?」


「そう急かすな。一つ目のポイントとして、こうして胸を合わせなければ技は成功しない。なぜかと言えば、脚を刈るのと同時に、上半身を折り曲げて、相手を大きくのけ反らさなければいけないからだ。脚を使う技でも、脚だけ使えばいいというものではない」


 生源寺は一歩下がって最初の姿勢に戻ると、また素早く胸を合わせてくる。というかぶつけてくる。何度も反復した動作なのだろう。手際よく干される掛け布団の気分だった。


「胸を合わせるのと同時に、右脚を大きく前に振り上げる。そして――」


 膝の裏に生源寺の脚が入ってくるのを感じる。胸と胸がぶつかった勢いのまま、生源寺が覆い被さるようにして俺の上半身を押す。脚が掬い上げられ、俺の頭は瞬く間に落下した。

 体に染みついていた受け身の動作で顎を引き、地面を叩く。畳を打った腕がじんじんと疼いたが、他に痛みはなかった。生源寺が俺の襟と袖を掴んだままだから、上半身は無事なのだ。


「いい受け身だ。試合ではままならないこともあるけど、柔道では基本的に相手に怪我をさせないことを優先している。投げ終わるまで相手のことを放してはいけない」


 説明を受けながら立ち上がると、生源寺はまたすぐ組み直した。


「よし。次は森居がかける番だ」


「……いいのか?」


「何をためらっている」


「いや、生源寺がいいならいいんだけど」


 俺は言われたとおり、先ほど自分が受けた技と点対称の動きをする。つまり、生源寺の袖と襟を引き上げ、相手の上体を引き寄せることで、自分の右胸と生源寺の右胸を軽く合わせる。


「何だそれは。本当にShall we danceするつもりか?」


 見事なイギリス英語の発音だったが、それはいったいどんな言い回しなんだ。


「Will be大外刈をするつもりだ」


「それじゃCould be大外刈が関の山だろう。相手が爪先立ちになるくらいまで吊り上げ、自分の方に引き寄せながら、しっかり胸を合わせるんだ。まずそこまで繰り返そう」


 当意即妙っぽく返されて腹が立った。一歩戻って、指示どおりまた胸を合わせてみる。


「これでいいか?」


「まだ足りない。相手の姿勢をちゃんと崩せ」


 さらに戻ってもう一回。すると、生源寺がすぐ横で首を振るのが揺れで伝わってくる。


「何を遠慮している。これが全力だというなら、来週からトレーニングを倍にするか」


 本当にわかっていない様子なので、俺はやむなく指摘する。


「思い切りぶつかって、その……なんだ、胸は痛くならないのか」


 生源寺は少しきょとんとした様子で俺を見て、それからようやく俺の言わんとしていることに気づいたらしく、ああ、と呟いた。アニメならここで頬でも赤らめるところなのだろうが、生源寺は心底つまらなそうにため息をつく。


「余計な心配は無用だ。生憎、私の胸は潰れるほどもない。脂肪より筋肉の方が多いんじゃないかと言われるくらいだ。森居の心にいやらしいものがなければどんなことをしたって許す。むしろ潰してやるくらいのつもりで、全力でかかってきてほしい」


 心頭滅却すれば胸もまた脂肪とは確か禅の言葉だ。俺は心を無にして大外刈の打ち込みに取り組んだ。生源寺は、何のメリットもないだろうにとことん付き合ってくれた。


 技をかけ合う練習が始まり、稽古の運動強度はそれまでの比にならないほど上がった。同じ動作ばかり反復するものだから特定の筋肉がるほど痛くなる。痛みは筋肉痛だけではない。同じ技を受け続けるのは一か所に何度も打撃を食らうのに近かった。


「痛みには耐性がつく。試験で間が空くとリセットされるけど、またすぐ慣れるはずだ」


 生源寺はゲームの攻略法でも説明するような調子でけろりと言っていたが、試験期間のたかだか二週間で耐性がなくなってしまう痛みと付き合い続けると思うと気が遠くなった。


 他に変化と言えば、腹がやたらと減るようになった。

 男の中では、小柄な体躯を裏切らず、割と小食な方だったと自覚している。間食もなく、米をお代わりすることもなく、大盛無料でも普通盛を頼むタイプだった。

 そのはずだったが、今や稽古が終わって帰宅するころには腹が減って仕方がない。依存症のごとく、飢えや渇きに近い欲求が胃から食道のあたりを疼かせるようになった。本を買うか、そうでなければ貯金に回していたなけなしの小遣いは、買い食いに費やされ始める。


「タンパク質をとるといい。飲み物も、パックの低脂肪乳にしてみなさい」


 佃田先生の指示に従って最初はサラダチキンや魚肉ソーセージを買ってみたものの、どうも値段に対して満足感がない。俺は金には困っていないことになっているが、その実、頑張って困っていないことにしているだけだった。節約しようにも野獣のごとき暴力的な食欲には抗えず、腹が膨れる調理パンやコスパのいいインスタントラーメンに手を出すようになった。母親が常に冷凍保存している米を夕食前からチンして食べることもあった。冷蔵庫に卵があれば卵かけごはんにし、なければ醤油だけかけて掻き込む。


 朝七時に起き、授業を受けて、稽古をして、たらふく食って、勉強をして、パソコンと向き合い、二三時ごろスイッチが切れるように眠る。そうしたサイクルが確立されていった。





「土曜の夜、家に来ないか」


 中間試験からおよそ一か月が経った六月の中旬、生源寺がいきなり誘ってきた。

 その土曜は、生源寺が地区の大会に出るため、稽古は休みだった。見学してみるかと佃田先生に誘われたが、俺は遠慮しておいた。柔道以外にもやりたいことはたくさんある。せっかくの休みを無駄にはしたくない。だから生源寺の誘いにもあまり気が乗らなかった。


「どうしていきなり、そんな誘いを」


「父が森居に会いたいと言っているんだ。娘と最近つるんでいる男の顔が見てみたいと」


「多分ひどい誤解をされてるから、きちんと説明した方がいい」


「やると言ったら聞かない男なんだ。断り続けても、そのうち学校へ直接誘いに来ると思う」


「カタギの人なんだよな?」


「かろうじてね。まあ損はさせない。そこそこ美味い飯が食えるはずだ」


 美味い飯に釣られたわけでは決してないのだが、結局俺はお呼ばれすることになった。


 生源寺の家の最寄り駅は、学校の最寄りから二駅のところにある。夕方、そこで生源寺と待ち合わせて、徒歩で家に向かう。大会は午前中で終わったらしい。一度帰宅してから迎えにきたようで、生源寺は手ぶらで、シンプルな私服姿だ。


「大会はどうだったんだ」


「優勝した」


 生源寺は前を向いたまま、健康診断の結果でも打ち明けるような無感動さで言った。


「マジか? すごいな」


「別にそこまですごくはない。女子柔道は競技人口が少ないし、地区大会ならなおさらだ。私の階級には八人しかいなかった。団体戦は不参加で、つまり今日は三回しか戦っていない」


 そう言われると確かに歓喜するほどの出来事には聞こえなかったが、それでももう少し喜んでもいいのではないかと思った。


 生源寺家は駅から歩いてすぐの場所にあり、その割にやたらと大きな築浅の戸建てだった。薄いベージュの壁。直線と直角を組み合わせた、洗練されたデザインの輪郭。大きな窓には赤外線を反射する加工がしてあるらしく、夕日を跳ね返して暖色系のオパール色に輝いている。


「立派な家だな」


「外側だけだ。中に住んでいる生き物はそうでもない」


 その言い草に思わず笑ってしまったが、彼女自身はあまり面白く思っていないようだった。

 生源寺の父親は成功した経営者だと小耳に挟んだことがある。きっとそうなのだろう。でなければこんな家には住めないし、娘をイギリスに行かせることもできないはずだ。

 答え合わせが、玄関の扉を開けて俺たちを出迎える。


「おういらっしゃい! ええときに来たなあ、ちょうどシャンペン開けよ思ってたんや」


 じんさくさんというらしい。日に焼けて、目も口も笑うのに慣れた形だった。身長は低い方で、骨格も細身だが、サッカー選手のように筋肉がついている。白いポロシャツの上からでもその上半身がしっかり鍛えられているのがわかった。放つオーラはサメ、あるいはシャチ。


 玄関には、つま先のやたらと尖った底の厚い革靴がたくさん並んでいた。

 仁作さんは俺たちをダイニングに招き入れると、さっそく席を勧めた。四人掛けの大きな大理石のテーブルだ。生源寺の妹の盛佳がすでに仏頂面で座っている。彼女の向かいに生源寺が座ったので、俺は少し考えてから生源寺の隣に座った。


「いやめでたい、これで男子も半数なったわ。我が家も男女平等達成ってとこやな」


 そんなことを言いながら、仁作さんはステンレスのバケツから黒っぽいボトルを取り出す。


「ヴーヴ・クリコ、ラ・グランダムの二〇一五年。夜の輩のせいですっかり陳腐な響きになってもうたけど、偉大なる女性経営者の名を冠するこのシャンパーニュはなお随一や」


 冗談かと思っていたが、仁作さんは本当にシャンパンを開けようとしていたらしい。


「飲む?」


 見れば、シャンパン用と見受けられる細長いグラスは四人分置かれていた。


「あの、まだ中学生ですが……」


「冗談やって、なあ。関西人の言うこといちいち真に受けんといてや」


 あなたは関西人の代表者か何かですか、という言葉は、心の中に留めておく。仁作さんは律義にもテーブルの下に隠してあったジンジャーエールを俺たちのグラスに注いだ。

 生源寺は楽しそうな父になす術がないと思っている様子で、ただ苦笑いをするばかりだ。


 そんな感じで、挨拶もそこそこに夕食会が始まった。仁作さんはオープンキッチンから大皿にきれいに並べられた白身魚の刺身を持ってきた。茶色のソースと赤色の粒と緑色の草がかかっている。真鯛のカルパッチョとかいうものらしい。一口食べて、驚く。


「……おいしい、手作りなんですか?」


「もちろん。最近、料理に凝っててな、鯛もさっき釣ってきたやつやで」


「さっき釣ったというのは嘘だ。デパートかどこかで買ってきたんだろう」


 生源寺が補足してくれる。なんとなくそんな気はしていた。カルパッチョがなくなりそうになると仁作さんはまたキッチンへ移動し、パスタを茹でたり何か炒めたりし始めた。


「よくこうやって料理をする人なのか」


 小声で訊くと、生源寺はジンジャーエールを飲みながら頷く。


「うん。忙しいときは宅配や外食も多いけど。三人家族だから料理はほぼ父がしてる」


 盛佳は全然口を開かない。しばらく気まずい沈黙が流れた。


 パスタはパプリカのマリナーラとかいうものだった。要するにトマトソーススパゲッティのようだったが、具のパプリカは信じられない柔らかさで、野菜とは思えないほど甘かった。どうも一度グリルしてから皮を剥いているらしい。パプリカに皮があるとは知らなかった。

 そして、今まで食べたパスタの中で一番おいしいと思った。


 パスタを食べ終わるころにはローストビーフが完成した。仁作さんは「森居くんは普通の量じゃ足りんと思って」と海賊が大口開けてかじりつきそうな大きさの牛もも肉を用意していた。

 料理のため頻繁に立っては座ってを繰り返していた仁作さんもようやく落ち着いた。高そうなシャンパンをあっという間に一人で飲み干し、新しくボルドーだかの赤ワインを開けて、山盛りの牛肉越しに楽しげな眼差しで俺を見てくる。酒を飲んでも全く様子が変わらない。


「森居くん、成績ええんやってなあ。行きたい大学はもう決めてる?」


 そう言われたときには一瞬どんな嫌味かと思ったが、ただ配慮がないだけだと納得する。


「一応……東大です」


「入る前から『一応』言う人、初めて会ったわ。普通に『東大です』でええねん。じゃあ八月の見学会には行く? うちの治佳しか行かんのちゃうか思って心配しとってん」


「行きます」


 見学会が何かも知らなかったが、俺は反射的にそう答えていた。


「よかった、仲良くしたってや。志望は文系? 科類は決めてる?」


「文科三類を考えています」


「せやったら文学部に行きたいんか。そうせきあくたがわざいも東大やしな」


「いえ、一番間口が広く、入りやすいと聞いたので」


 俺の答えに仁作さんはなぜか少しだけ首を傾げる。


「ほんまにそれだけ? やりたいこと、決まってないんか」


「あまり深く考えていません」


「ふうん、そっか。なら文二にしとき。難易度やったら今の文系はどこも変わらんで。俺は文二から経済やってん。文二は『文ニート』いわれるほど暇なとこでな、忙しい順に並べたら『文三、文一、猫、文二』いうくらいや。女の子多い方がええなら文三もありやけど」


 仁作さんは、オタクが趣味について語るくらい早口になっていた。よほど東大のことがしゃべりたかったと見受けられる。どこまで本当かわからないが、俺は適当に頷いておいた。


「でもなあ森居くん、余計なお世話かもしれへんけど、今の学校のレベルじゃ、上位三人に入っとかんと、文三にしろ文二にしろ、現役はちょいと厳しいかもしれんな」


「ちょっと父さん」


 顔には出ないがやはり酔っているのかもしれない。生源寺を無視し、仁作さんは続ける。


「治佳から毎度見せてもらってんねんけどな。あのいやらしいランキング。森居くん、成績落ちとんのやろ。中一のころはいずれこの文豪みたいな名前の奴がうちの治佳と競い合うことになる思って期待しとったんやけど。どうした? やる気、なくしちゃったんか」


「違います」


 即座にそう言ってから、追加で何も言えない自分に気づいた。俺はやる気を失くしたわけじゃなくて――どうして、こうなっているんだっけ。


「すまん。ちと言い方きつかったな。俺はこう見えて、森居くんのこと森居くんが思ってるよりよう知ってるんや。君の中には今な、熱量がない。炎が全部、体の外に逃げてる」


 今日会ったばかりで俺の何を知っているというのか。どんな炎が燃えているのか知りもしないくせに。言葉をマイルドにして言い返そうと思ったが、仁作さんは俺を手で制止した。


「勉強は今も頑張ってんのやろ。精一杯やって、それで行き詰まってるんやろ。どうすればいいのか、とっておきの方法を教えよか」


「では教えてください」


 そんなものがあるなら言ってみろという意味だった。仁作さんはこなれた笑顔で頷く。


「もっと頑張るんや。ズルせずやるんやったら、それしか道はない」


 絶句した。音に向かってマッハ一を超えろと言っているようなものじゃないか。


「……それは、努力が足りないということですか」


「せやなあ。悪く言えばそういうことや。でももうちょいと優しく言えば、森居くんはほんとの努力の仕方を知らんのやと思う」


「ではその努力の仕方というのを教えてください」


「すぐには教えられん。森居くんは自分の左手に文字の書き方を教えられるんか?」


 仁作さんと俺の隣、女子二人は助け船も出さず黙々とローストビーフを食べている。


「でもな、一つアドバイスできるとしたら――」


 仁作さんは赤ワインをぐいっと呷ってから、言う。


「柔道、続けてみなさい」


 は?――とまではさすがに言えなかったが、猫ミームみたいな反応になっていたと思う。


「柔道と勉強と、どういう関係があるんですか」


「大アリや。知ってるか、柔道の創始者、のうろうは東大卒や。嘉納は毎年東大に一〇〇人近く合格してるなだ高校の設立にも関わっててな、その流れから灘では柔道が必修。中一から四年間、週一で柔道の授業がある。灘は聞いたことあるやろ。兵庫にある俺の母校や」


 灘――当然知っている。中学受験をしたことがある者なら誰でも見覚えがある最難関校だ。


「柔道の思想の基本には『精力善用』いうもんがある。精神と肉体を無駄なく極限まで有効活用して目的を達成する考え方や。精力の最善活用は自己完成のようけつなり。心技体、すべてを駆使して生き残る術の修練を通じて、受験なり立身なり治世なりの目的達成に活かすわけや」


「受験勉強に精神や肉体の修練も必要だという意味ですか」


「必要とは言わんが、有効やろ。嘉納治五郎もそうやったらしいけどな、俺はもともと、体が小さくて虚弱体質やった。柔道いうんは、そういう者こそ修めるべき、非力な者でも大力に勝つ方法を全力で模索し続ける道なんや」


 生源寺に投げられたときのことを思い出す。男の俺を、女の生源寺が容易に圧倒したのだ。


「文武両道という言葉があるだろう」


 隣の生源寺がローストビーフを食べるのをやめ、俺に言ってきた。


「私が思うに、文武両道とは本当のところ、勉強とスポーツどちらもできる人を褒めるためにある言葉ではないんだ。単に、頭を使うことと体を動かすこと、その両輪を揃えて走った方が実は楽だし効率がいいという教えなんだと思う」


 まさに文武両道と称えられる生源寺が言うと、なかなかの説得力があった。


「森居くん、資本主義社会にはメリトクラシーいうもんがはびこってる。簡単に言えば能力主義や。甲子園行けるんは県大会で優勝した高校だけ。東大行けるんは同年代一〇〇万人のうち〇・三%の枠に入る学力の者だけ。弱肉強食の原理はこの先しばらく変わることはない」


 肉を切るのに使ったナイフを指揮棒のように振って仁作さんは言う。


「結局マッチョな世界なんや。世の中動かしてる勝ち組は大抵、徹夜してもけろっとしてる化け物インテリの連中か、鋼のメンタルと肉体をもつツーブロックゴリラの連中。熱量があればあるだけ強い。こつこつお勉強だけ頑張ってれば報われるなんて思ったらいかん」


 嵐のように言葉を叩き込まれ、俺は最後に言われた言葉を持ち帰るので精一杯だった。


「騙されたと思って、ひと夏、本気で柔道をやってみるとええ」


 生源寺がそろそろお開きにしようと提案し、四人で黙々と「嫌なこった」的な名前のデザートを食べた後、俺は生源寺家を後にした。断ったのだが、生源寺が駅まで送ってくれた。


「申し訳なかった。莫迦なことをあれこれ言われて、気分が悪かっただろう」


 父に代わって謝る生源寺に、俺は緩く首を振る。


「別に気にしない。社会的に成功した人がどんなふうに考えるかのいい勉強になった」


 若干嫌味っぽさが滲んでしまったが、生源寺は「ならよかった」とほっとした様子だった。


「普段はあれほどじゃないんだ。むしろあんなに楽しそうな父は久しぶりに見た。ワインは飲むけど、記念日でもないとシャンパンなんて開けない。森居のことを気に入ってるんだろう」


 俺は生源寺の彼氏かよ、という軽口は、通じるかわからなかったので控えておいた。


「俺に気に入られる要素なんてあるか……?」


「才能があるだろう、森居には。莫迦なことに対して、莫迦以外の言葉を突きつける才能が」


「なんだそれ」


 生源寺も仁作さんも、俺について何か勘違いをしているのではないかと思った。


「いや、すまない。父は佃田先生と親しいんだ。私が柔道部に入ってから、先生を半強制的に飲み友達にしてしまったらしい。森居のこともきっと先生から聞いたんじゃないかな」


 なるほど、佃田先生はアスパルテームくらい甘口なところがある。文芸部時代に見てきた俺のことを何やら吹聴し、それが仁作さんのアンテナに引っかかったというところだろうか。


「しかし生源寺も大変だな。ああいう、なんというか、刺激的な人のもとで暮らすとなると」


 俺の言葉に生源寺は力なく笑う。


「森居はわかってくれるんだな。確かにそうだ。大変だ。父はきっと息子が欲しかったんだろう。何につけても優劣、強弱。お前は強い、男に負けるな、俺の娘だ、数字で殴れ。結果、長女はこんなふうに育ってしまった」


「俺は……別に、今の生源寺が『こんなふう』と言われるべき人だとは思わないけど」


「優しいんだな」


 そこからしばらく無言で歩いて、駅前の人混みに掻き消されそうな声で生源寺は言う。


「父のことは嫌っても、私のことは、できれば嫌いにならないでくれると嬉しい」


 帰り道、俺は一昔前のアイドルが逆立ちしたようなその発言についてずっと考えていた。


 嫌な風が吹いていたのでなんとなく予感はしていたが、帰宅するころには片頭痛がひどくなっていた。アパートの階段を駆け上がり、建てつけの悪い玄関の扉を乱暴に開くと、俺は真っ先にキッチンへ向かい、水道水でバファリンを四錠流し込んだ。母はまだ帰っていない。

 がらがらと窓を開けてぬるい夜風を呼び込み、薬が効くことを祈りながら俺は勉強机に向かった。椅子が軋んでお化け屋敷のような音を出す。音が耳に入るたび頭痛がうねる。


 この痛みとは物心ついたときから付き合ってきた。額の裏、頭蓋骨の内側をごりごり削ってしまいたくなるような鈍痛が脳を締めつける。まるで特大のかき氷を掻き込み続けているかのよう。祭りに行くと懐に優しいかき氷ばかり食べていたが、冷たさで頭がつんと痛むたび、どうして楽しいはずの時間まで頭痛に蝕まれなければならないのかと思ったものだ。


 参考書を開いて、みっちり詰まった数式と向き合う。ノートを開いてシャーペンを握る。

 頭が痛い。脳の血管の一本一本が感じられそうなくらいに疼く。


 笑われるだろうから誰にも言っていないが、俺が東大を目指すのは、勝ち組になって、稼げるようになりたいからだ。唯一の取り柄である頭脳を武器に、誰もが疑わない立派な道を歩んで、女手一つで俺を育てた母を安心させたい――そしてそれ以上に、自分が安心したい。


 だからこそ本当は、仁作さんのやけに見透かしたような言葉は俺に刺さっていた。

 弱い自分が嫌いだった。何かで勝って自信をつけたかった。でも勝てない。ほんの少し、頭の痛みに邪魔されるだけで諦めそうになる。そんななか、自分なりにもがき続けてきた。何を目指せばいいのかわからないまま、得意なはずの勉強をひたすらにこなしていた。


 頑張り続けるための方法があるのなら、それが畳の上の苦行でも、すがりつきたいくらいだ。


 全くペンが進まないまま、母の帰ってくる音がした。襖越しにそろそろ寝たらと言われ、勉強中、と返す。時計を確認するといつの間にか日付が変わっていた。

 そして、バファリンの包装シートのごみをキッチンに置き忘れていたことに気づく。きっと母はそれを見つけたのだろう。蓋つきのごみ箱に何か軽く固いものを捨てる音が聞こえた。


「体が強くないんだから、そんな無理して頑張らなくたっていいんだよ」


 優しいはずの母の言葉に力が抜け、ペンがするりと手から落ちる。





「なかなかよくなってきた。そろそろ乱取りをやってみよう」


 基本的な型を打ち込みで一通りやってから、生源寺はそう提案してきた。


「乱取りって、要するに試合形式ってことだろ。まだ俺には早くないか」


「試合形式といっても、乱取りは勝ち負けを競うためではない。PDCAサイクルで喩えるなら、打ち込みはPlan、乱取りがDo――すなわち実行だ。自分の型を嫌がる相手にかけてみることでテストし、それを評価して、どうすればかかるようになるか考えて改善する」


「つまり、技がかからなくてもいいってことか」


「もちろんだ。私も本気は出さないけど、わざと投げられてやるつもりはない」


 勝敗に一喜一憂するためではなく、上達するために競ってみる。俺にはあまりなかった発想だが、なんだか柔道に限らず応用できる考え方のように思えた。


 もしかすると、これが仁作さんの言う「柔道をやってみろ」ということなのだろうか。


 乱取りは、三分ごとに相手を変えて何度も繰り返す。生源寺だけでなく福島先輩と佃田先生も相手をしてくれることになった。生源寺の妹の盛佳は俺よりずっと軽く怪我のリスクがあるということで、初心者の俺とはマッチングしないようになっていたが、明らかに俺を嫌がっている様子だったのでむしろ助かった。


 基本的に、生半可で付け焼刃な俺の技は実戦レベルからほど遠かった。

 佃田先生はずっと受け身で、俺のかけた技に倒れることもあったが、きっとわざと転んでくれているんだろうな、となんとなくわかった。


「転んであげようとは思ってるが、自分から倒れにいっているわけでは決してない」

 とのこと。おかげで、打ち込みで覚えた型を実戦に持ち込む感覚が養えた。


 福島先輩は、女性相手にこう言うのは失礼にあたるかもしれないが、岩のように重く感じられ、いかなる技にも全く動じなかった。そして、こんな目を向けるのは絶対に失礼にあたるのだが、胸がとても大きくて、どこに視線を遣ればいいのかわからなかった。


「投げちゃいますよー」


 持ち前の穏やかな丁寧語で言うと、数秒後には鬼のような怪力で俺を宙に舞わせてしまう。それをどうやって捌くかという練習だと考え、俺は座布団のごとくただ投げられ続けた。


 生源寺は二人の中間だった。俺の技が上手く入れば、場合によっては投げられてくれる。俺が何もできないでいると、ばね仕掛けのような機敏さで俺を投げ飛ばす。使うのはどれも俺に教えた技だ。手加減してくれているとはいえ、生源寺が相手のときが一番手応えを感じた。


 生源寺との乱取りは、俺が慣れてくるにつれてお互い本気に近くなっていった。俺の得意技は大外刈だった。明快な動作は初心者向きで、確実に存在する筋力差を活かせる技。生源寺の方も、大外刈だけは全力で回避しようとしてくる。それだけこちらの対応も磨かれていく。


 七月も後半になるころには、生源寺が相手の場合、俺もそう簡単には投げられないようになってきた。柔道で技をかけるときには、必ず相手を「崩す」。大外刈をかけるときは相手の体が後方へのけ反るように、背負投をかけるときは相手の体が前方へ浮くように、足運びや手の力を使って相手をコントロールする。投げられたくなければ、まずそれに逆らえばいいのだ。俺は福島先輩の技を回避できたときの経験からその感覚を学んだ。


 すると、生源寺の側も技をかけるときは本気になる。それで軽い事故が起こった。


 互いに組み合った状態で、生源寺が俺の真正面に飛び込んでくる。股の内側から脚を刈る、大内刈や小内刈の予備動作だ。生源寺はしばしばこの動きをフェイントにしてから背負投に入る。俺はどちらにも対応できるよう軸をずらして攻撃を捌いた――つもりだった。


 直後、俺の下腹部から原因のはっきりした激痛が脳髄まで駆け上がり、意識が飛びかけた。

 生源寺の大内刈は見事に決まって、俺はかろうじて受け身を取る。そして、動けず、声も出せずに、畳の上で芋虫のように体をくねらせた。


「森居、大丈夫か」


 佃田先生がすぐに乱取りを中断して駆けつけたが、原因を悟ると苦笑いして戻っていく。

 生源寺は俺の近くに立ち尽くして、きょとんとこちらを見下ろしている。


「どうした、立てないのか」


「……少し待て」


 それだけ喉の奥から絞り出した。股間を押さえるわけにもいかず、体を丸める。


「もしかすると、あれか」


「それだ」


「すまない、膝が当たってしまったみたいだ。そんなに痛いのか?」


 目に涙が滲む。他人の痛みに鈍感なのだろうか。痛いかどうかは見て察してほしかった。


「想像より脆いんだな。男の体は、なんというかもっと頑丈にできていると思っていた」


 下位存在との違いを自覚した異星人のような言い草だった。

 少し休んでから立ち上がると、生源寺は彼女なりに悩んだ様子で、小声で提案してくる。


「本当に、お詫びのしようがない。悪かった。一度だけ私の股間を蹴っていい」


「……は?」


「いやらしい蹴り方は、できればやめてくれると助かる」


「しないって。普通に蹴ることもしない」


「そうか……本当に申し訳なかった。いつの間にか、本気で技をかけにいっていた」


「それだけ俺も上達したってことだろ」


「まあ、そういう言い方もできるけど……もう大丈夫なのか?」


「何とかな。続けよう」


 生源寺との初めての対戦を思い返す。見事な一本背負で仰向けにされた屈辱の瞬間。真剣勝負のつもりで挑んでいたが、今なら断言できる。生源寺はあのとき本気を出していなかった。きれいな型で、俺が受け身を取る必要がないようにケアをしながら俺を投げたのだ。

 今さらそんなことに気づいて、胸の内で胃液が沸騰するような熱さを覚える。


 俺は次第に、本気で生源寺を倒す方法を模索し始めていた。

 稽古を重ねるうちに気づいたのは、勝利の鍵になるのが、どうやら背負投でも大外刈でもなく、寝技らしいということだった。


 寝技とは簡単に言えば、投げ技などによって姿勢が崩れた状態から、畳の上で相手を無力化する技だ。抑え込む技の他に、肘をきめる関節技や、頸動脈を圧迫する絞技もあるが、中学柔道でその二つは禁止されている。抑え込みでは、相手の背中を畳に押しつけた状態で一〇秒が経過すると技あり、二〇秒が経過すると一本となる。試合では背負投などで技をかけてもきれいに決まらないことが多く、寝技に入って勝利を狙うことも多い。


「実を言うと、私たちのように体格に恵まれない者こそ、寝技を重点的に研究するべきだ。相撲を見ればわかるように、立ち技というのはお互いある程度熟練してくると、基本的に力が強く質量の大きい者が有利になる。しかし寝技に関してはそうとも限らない」


 生源寺は俺を畳の上で仰向けに寝転ばせると、右脇で俺の首を固定し左手で俺の右手を封じるがための姿勢になった。逃げてみろと言われて暴れてみるも、俺の肩を中心にしてぐるぐると向きが変わるだけで優劣は覆せない。生源寺の片脚を俺が脚で絡め取れば「解けた」扱いになるが、生源寺は上手く脚を捌いて逃げてしまう。一方俺が生源寺を抑え込んでみると、生源寺は魔法のように俺を体の上で転がし、瞬く間に逆転する。


「アップの中にえびとか逆えびとか肩ブリッジとか、わけのわからない動作があるだろう。ああいった動きを応用することで、相手から逃げ、守りから攻めへと転じることができる」


「そういう意味があったのか、あれ」


 ラジオ体操のごとく言われるがままにやっていたが、ここで効いてくるとは思わなかった。


「寝技の攻防は、普段使わない筋肉を含め、全身を駆使した頭脳戦。寝技メインのブラジリアン柔術が『体を使ったチェス』と呼ばれているのは有名な話だ。森居も頭脳戦は得意だろう」


「そう言われると負けられないな」


 というわけで、俺は寝技も本格的に練習することになった。

 これまで佃田先生にばかり相手してもらっていた寝技乱取りを、生源寺や福島先輩も相手取って行う。問題は、案の定というか、俺が先生とばかり組んでいた理由でもあったのだが、女子との寝技がかなり気まずいことだった。


 脇に挟まれる形の袈裟固から逃げようとするとき、うっかりすると相手の胸を掌でぐいと押してしまう。胸と胸を合わせるように抑えるよこほうがためかみほうがためは言うに及ばず、相手を真正面から抱き締めるような形になるたてほうがためは論外だ。向こうはあまり気にしていないようだったが、俺はどうしても罪悪感を覚えてしまう。だから俺は、比較的ましな袈裟固を重点的に練習した。得意の大外刈から自然な流れで入っていけるのも袈裟固のいいところだった。


 寝技を習いながら、俺は一つの作戦を立てる。


 大外刈から袈裟固という連係を、生源寺相手には極力使わないようにするのだ。相変わらず受け身の佃田先生、全然手加減してくれない福島先輩を相手に経験を積み、生源寺が相手のときは大外刈と袈裟固を個別で練習。こうすることで、得意の連係攻撃を奥の手として生源寺に学習させない作戦である。我ながらあまりに小物っぽいが、体の経験で覚えることの多い柔道においては確かに有効な方法のはずだった。


 生源寺を倒すときにはこの流れを使おうと決め、俺は練習に励んだ。





 柔道を始めて二か月が経ち、部活禁止の試験期間に入った。稽古がないからか体力があり余って仕方がなく、俺はそのすべてを試験に向けた追い込みに使った。


 一六時ごろ帰宅してから勉強を始め、空が暗くなった二〇時ごろにいったん腹を満たし、少し休憩してから勉強を再開。気づけば深夜一時を過ぎている。七時に起きなければならないために睡眠時間は六時間しか取れなかったが、授業中の居眠りや帰宅後一五分ほどの仮眠で誤魔化した。時間効率を上げるため仮眠後や深夜のような集中できる時間帯を選んで苦手な数学の問題に取り組み、理科や社会などのいつでもできる暗記作業は隙間時間に詰めていく。


 精力善用。


 精神と肉体をできる限り有効に使って目的を達成する。そのために、何をどうすれば有効になるか考える。考えるために、打ち込みと乱取りのような試行錯誤を繰り返す。そうしているうちに精神も肉体も洗練されていく。体力がつき、集中力も増える。できることが広がる。


 単純な理屈だ。しかしそう思うのと、実際に体験するのとでは天と地の差がある。

 ふらふらぎこちなく乗っていた自転車を少しずつ乗りこなして、やがて両手を離し、空を飛ぶかのごとく自由に漕いでいく感覚。勉強していてこんなに気持ちがいいのは初めてだった。


 ただ、どうしようもないのは片頭痛だ。運悪く数学の試験の日にそれが来てしまった。朝食後にバファリンを二錠。数学の試験開始前、inゼリーと一緒にもう二錠。帰宅後、翌日に備える勉強のため和風ツナパンと一緒にさらに二錠。胃粘膜とLIONに怒られそうな摂り方をしながらなんとか乗り切ったが、本調子とは言えなかった。


 それでも俺は、驚くほど簡単に、学年二位の成績へと返り咲いた。

 だが喜ぶには早い。生源寺との点差は少し縮まったものの、まだ五〇〇点中二三点も負けている。特大かき氷一杯分の差では説明できない、それは明らかな実力の違いだと思った。


「二学期が楽しみだな」


 生源寺は貼り出された点数を見て俺にそう言った。嫌味は感じない。

 俺たちはもう、同じ赤畳の中に立っている。





 試験が明けて夏休み。七月末、生源寺姉妹は都の中学生の大会に出た。場所は東京武道館。武道館ライブをしない武道館である。経験の浅い俺には出場資格がなかったが、今回は俺もついていきたいとお願いした。他校の生徒がどんな柔道をするのか見てみたかったのだ。


 当日は灰色の雲が低く垂れ込める曇り空。会場に着いたところで俺はバファリンを飲んだ。ぱちりぱちりと耳慣れた音に振り返ると、生源寺も錠剤を飲もうとしていた。包装シートの形には嫌というほど見覚えがある。バファリンだ。


「そっか、今日……」


 俺の隣で盛佳が呟いた。


「お姉さんも片頭痛なのか。今日は気圧、結構下がりそうだよな」


「うざ。しばくで」


 姉は普段標準語だが、妹は関西弁らしい。思い切って話しかけてみたところ露骨に恫喝されたので怖くなった。もう金輪際、盛佳には話しかけないことに決めた。


 東京武道館は学校の柔道場よりはるかに広く、濃い緑色の畳の中に、黄色の畳で組まれた正方形の試合場が六つも並んでいた。単純計算でも六倍の面積。そこで試合が並行して進む。


 道着すら持ってきていない俺は気楽なもので、観客席で荷物番をしつつ試合を眺めた。


 会場のあちこちから異様な雰囲気を纏った音が聞こえてくる。技をかける際の鋭い掛け声。人が畳を打つ、どすん、ばん、という重い響き。びいいと耳障りなブザー。

 稽古とは違い、みな勝つために来ていた。試合はほとんどルールのある喧嘩といった様相を呈している。互いを威圧する声。殴るような組み手の奪い合い。ローキックに見紛う足払い。全身全霊の技が連続する。道着はすぐに崩れて、きつく締められているはずの帯は容易に解ける。一部の選手は手足を白いテーピングで巻いた状態で戦っている。

 学校での稽古だけで別世界を体験したつもりになっていた自分が途端に莫迦らしくなった。


 大会は体重別のトーナメント戦。学年や帯の色は関係なく行われる。生源寺は四四キロ級、盛佳は最軽量の四〇キロ級。つまり生源寺の現在の体重は四〇キロを超え四四キロ以下、盛佳の現在の体重は最大で四〇キロということだ。盛佳が四〇キロに届かないことは予想がついていたが、生源寺の具体的な体重を知ってしまい少し罪悪感があった。


 佃田先生は生源寺姉妹が試合する番になると席を立ち、激励の言葉をかけながら会場まで連れていく。福島先輩は高校生なので出場しないが、アップで打ち込みを受けるため道着姿だ。


 俺は、姉妹の試合中は応援をして、その合間は他の選手の試合を観戦した。福島先輩は俺の隣に座り「あれがそとたいおとしともえ」と夏の大三角でも指差すように教えてくれる。上位の試合になるほど技が決まりにくくなり、寝技や優勢で勝負の決する割合が高くなっていく。


 試合はテンポよく進んでいく。盛佳は年齢のハンデもあり、二回戦で三年生に投げられて一本負けしてしまった。だが生源寺は順調に勝ち上がった。一回戦と二回戦はいずれも背負投で一本勝ち。三回戦は少し苦戦していたが、足技で相手もろとも倒れてからの抑え込みで一本を取った。これでベスト4が確定。最後はその四人で順位を争う決勝リーグ戦となる。


 リーグ戦一巡目の戦いで、生源寺は自らと同じ黒帯の三年生に当たった。福島先輩曰く、彼女が今回の優勝候補と目される一番の実力者とのことだ。


 試合の様子は全く違った。これまでの三戦では積極的に相手へと向かっていた生源寺が防戦一方になっている。主審が試合を止め、両手を動かすジェスチャーののち生源寺を指差した。


「指導とられちゃいましたね」


 福島先輩が隣で呟いた。俺がわかっていないのを察したのか、先輩は説明してくれる。


「きちんと組み合って戦いにいく姿勢を見せないと、消極的だと見られて『指導』がつくんです。指導三つで反則負けになります」


 先輩がそう言っている間に、生源寺は二つ目の指導をもらってしまった。もう後がない。次は生源寺も全力で組み合いにいったと見えたが、その瞬間、相手の選手が大きく動く。


「あっ――」


 先輩と俺の声が重なる。生源寺の体が、まるで地面から勢いよく引っこ抜かれたかのように上下反転し、きれいに伸びた両脚が空中でV字に開く。相手の脚がその間から突き出ている。


 説明されなくてもわかる。鮮やかな内股だった。


 生源寺の背中が畳へと強烈に叩きつけられ、相手選手の体が追撃のごとくその上に落ちる。

 武道館全体を揺らすかと思うほどの音。審判が右手をまっすぐ上げる。一本。


 数秒の間、生源寺は横たわったまま動かなかった。あれだけの勢いで地面に打ちつけられたのだから無事ではないだろうと思っていたが、やがて緩慢な動作で立ち上がる。


 一巡目、負け。


 インターバルを経て、先生に背中を軽く叩かれてから、生源寺は二巡目の戦いに挑んだ。

 次の相手も三年生。ただし白帯だ。これなら少し有利なのでは――と考えていたが、そう甘くはなかった。足技の上手い選手だと見え、生源寺は何度も姿勢を崩され、膝をつきながら耐えていた。試合時間の三分間、生源寺はいいように翻弄され続け、全く反撃ができない。終了を告げるブザーが鳴り、技ありを取っていた相手が優勢で勝利した。


 二巡目、負け。


 最後の組み合わせ。相手はまたしても白帯の三年生。生源寺が負けた二人に、この選手も両方負けていた。福島先輩によれば、最上位の一名が全国大会への出場権を手にし、上位二名が関東大会への出場権を手にするという。この戦いは実質の三位決定戦だから、生源寺も相手もすでに全国と関東いずれへの切符も失っていることになる。


 それでも相手は三位への情熱を失っていなかった。力任せにも見える相手の猛攻に、生源寺はどういうわけかされるがまま。揺さぶられ、振り回される。正直見ていられなかった。三分が経とうかというころ、生源寺は大外刈で技ありを取られ、続いて袈裟固で抑え込まれる。ひっくり返ったカブトムシのごとく脚をばたばた動かす様子に俺は思わず目を伏せた。


 三巡目、負け。


 あの生源寺治佳が無残に負かされる様子を目の当たりにして、俺は形容しがたい悔しさに襲われた。彼女は柔道だけやっていたわけじゃない、学年一の秀才なんだぞ――そう意味もなく主張したい気分になる。どうしてそう莫迦なことを思ったのかは俺にもわからなかった。


 生源寺は決勝リーグ戦全敗で、四位となった。表彰式では四四キロ級のベスト8が横並びになって表彰される。生源寺はその真ん中。それでも十分にすごいことだと思ったが、彼女はもらった賞状を参加賞のティッシュでも扱うような無感情さで鞄に押し込んだ。


「森居、ちょっとラーメンでも食っていかないか」


 帰りの電車の中、生源寺は黙々と読んでいた文庫本をぱたんと閉じて俺を誘ってきた。


「うちは帰るから」


 盛佳は俺と一緒に飯を食うのがよほど嫌なようで、姉に向かってそれだけ告げた。


 生源寺が俺を連れ込んだ店はもうタンメンなかもとだった。激辛のラーメンで有名な店である。生源寺はその中でも辛さのランクが高い北極ラーメンの食券を迷わず購入した。


「それ、食えるのか?」


「食えるか食えないかで言えば、食える。森居もどうだ」


 俺も辛さには強い方だ。いきなり高ランクのものを頼むのは気が引けたが、意地で頷いた。


「今日は私のおごりにしよう。わざわざ来てくれたお礼だ」


 生源寺は俺が断る隙を与えず北極ラーメンを追加購入してしまった。

 出てきたラーメンは、血のように赤い油でスープがすっかり覆われていた。カウンターで横並びになって黙々と食べる。噎せながら食べるほど辛かったが、濃い味噌のスープがマッチしてなかなかいけた。それにしても顔から噴き出る汗が止まらない。隣を見ると、生源寺もしかめっ面で、ティッシュを何枚も使って顔を拭きながら麺を啜っていた。


 泣いている。


 俺はどう反応すべきかわからなかった。涙には言及せずに、俺も一緒に汗を流した。


「明日は腹が痛くなりそうだな」


 そんなことしか言えなかった俺に、食べ終わって涼しい顔になった生源寺は苦笑いする。


「腹なんか、もうとっくに痛いんだ」


 翌朝、俺は案の定、カプサイシンによる腸粘膜への攻撃によって、トイレに籠もったまま激痛でのたうち回る羽目になった。





 中学三年生の夏休みはこれまでの人生で最も暑苦しいものになった。稽古、勉強、稽古、勉強。その繰り返し。趣味の時間だけは死守したが、特に出掛けたりということもない。


 唯一の例外が、八月中旬の東大見学会だった。正式名称は「上級学校訪問」。東京大学に在籍する我が校の卒業生が中三の希望者を連れて東大の本郷キャンパスを案内するイベントだ。

 東大を上級学校などと称するのはちょっと笑えるが、生源寺と俺は担任団に勧められたこともあり参加することになった。他に参加者がいないのではという仁作さんの想定は杞憂で、俺たち含め男三人、女三人の計六名が参加した。なんちゃって進学校にしては奮った方だろう。


「遠足をするくらいなら勉強か稽古をしたいと思ってたけど、これはこれで悪くないな」


 気持ちいいほどに晴れたほんごうキャンパスを歩きながら、生源寺は俺に耳打ちした。


 ディズニーランドにありそうなレンガ造りの建物、ホグワーツみたいな図書館、秋には猛烈な悪臭を放つだろう堂々たる銀杏並木――東大のキャンパスは異世界のようだった。日本中から知と資本が集まる場所なのだと嫌でも思い知らされる。


 案内してくれたのは法学部の男子学生と工学部の女子学生。最後に質疑応答があった。


「同じ知的レベルの人が集まっているからとてもやりやすいし、何より刺激になる。みんな静かな熱を秘めているんだ。切磋琢磨して高みを目指すには最高の環境だよ」


 眼鏡をかけていかにもインテリゲンチャといった面持ちの男子学生は、俺の「東大はどんなところだと思っていますか」というざっくりとした質問にそう答えた。


「女子の少なさが気になることはありますか?」


 そう聞いたのは生源寺だ。東大は男女の区別なく入試を実施しており、女子の割合が二割程度となっている。この質問には、緊張気味なのかむしろやけに溌溂とした女子学生が答える。


「それは人によるかな! 極端なとこだとクラスや学科に女子が二人しかいないこともあるらしくて、それはかわいそうだなって思うけど、実を言うと私は全然気にならなくて! みんな女の子で群れてるから、いい仲間を見つければ全体の割合はあんまり関係ないと思う!」


 女子学生は「女子の少ない環境だから、彼氏欲しいって思えばほぼ確で捕まるよ」とオフレコ気味に付け加える。生源寺は「彼氏はいらないかもしれません」と真顔で返していた。


 解散後、生源寺と俺は少し寄り道しながら帰ることにした。本郷キャンパスの裏手を下りるとすぐ不忍しのばずのいけがある。その向こうは東京国立博物館や国立科学博物館のあるうえおんこうえんだ。

 上野駅から帰ることにして、不忍池の畔を進む。青々と茂る蓮の葉の間から薄紅色の蓮の花がぽんぽん頭を出している。蓮の下の日陰を、カルガモたちがのんびりと泳いでいく。


「一つ、夏休みが――約束の期間が終わる前に、打ち明けておきたいことがある」


 夏の日差しに目を細めながら、生源寺は言った。


「森居はもしかすると、不思議に思っていたかもしれない。私がどうして、あんな理不尽な賭けをもちかけて森居を柔道部に引き込んだのか」


 今さら何だ、と感じながらも、確かにその話は気になった。


「たまたま佃田先生の手近なところにいた中三だったからじゃないのか」


「それはきっかけの一つに過ぎない。森居に話していなかったことがある」


 少し考えてみたが全く想像がつかない。いつもずばずば言う生源寺が言わなかったこと。


「去年の秋、文芸部が文化祭で配布していた部誌があっただろう。青い表紙の」


「……読んだのか? あんな数十部しかないやつを」


「うん。私はこう見えて小説が好きなんだ。佃田先生にもらった部誌を読んで、成績上位者によく名前を見かける森居林太朗という男が不気味なほどの才能を秘めていることを知った」


「おかしいな、ペンネームで寄稿したはずだったけど」


「まさか森居は『しんりんいち』に匿名性があると思っていたのか?」


 確かにちょっと本名が滲み出ていたかもしれない。


「私は感服したんだ。明らかに他の部員と質が違った。プロに匹敵する文章だと思った。たくさんの本を読み、長く書き続けてきたんだろう。それが如実に出ている作品だった」


「ありがとう……と言えばいいのか」


「素直な賛辞と受け取ってほしい。私はあの物語について森居と話してみたかったんだ」


 俺が書いた短編のタイトルは『ありひめ』。蟻とは書いたが、登場するキャラクターはすべてシロアリ――ゴキブリなどに近縁の、カーストのある大きなコロニーをつくる社会性昆虫だ。


「主人公の名前はモルグだったな。働きアリ、すなわちワーカーの雄で、同じくワーカーである雌のリンデと恋仲にあった。モルグは片方の触角を欠いていたが、頑張り屋のリンデとともに、巣の維持管理から餌の補給、そして育児まで、多くのワーカーたちとともに働いていた」


 自分の書いた小説のあらすじを事細かに語られるのはあまりに恥ずかしいことだった。俺は先走るようにして『蟻姫』のストーリーを思い返す。


 モルグたちのコロニーはある日、やんちゃな少年が蟻塚にハッピーターンの粉を振りかけてしまったことによって変貌する。魔法の粉末が混じった餌を食べ、すべての個体が知性に目覚めてしまったのだ。女王の出産とフェロモンによる制御で機械的に成立していたコロニー統治は、成績によって選ばれた一〇個体による議会制に変わる。


「十蟻議会」がまず着手したのは、カースト間における格差の是正、平等の追求だった。


 全体のわずか三%だったマイノリティーである兵隊アリ、すなわちソルジャーの待遇改善が喫緊の課題として進められる。ソルジャーの割合はコロニーの三割になるよう調整された。さらに是正措置として、十蟻議会の半数をソルジャーが担う決まりとなった。


 触角が片方しかなく動き回る労働に不向きなモルグは、ワーカーの中で「片落ち」と呼ばれ無能扱いされてきた。そこで知恵働きを頑張り議員を目指したが、強者であるワーカーの枠がないことを理由に不採用となった。彼の不遇を理解してくれるのはリンデだけだった。


「さらなるカースト平等を達成するため、議会はソルジャーたちに巣内で仕事をさせ始めた。もともと巣の外で天敵を攻撃する役割のソルジャーは、敵に毒液を吹きかけるためボラギノールA注入軟膏のような形の頭をしていて、巣内の仕事に向いていないのにかかわらずだ」


「よくそんな、細かい比喩まで覚えてるな」


「森居の喩えは独特で、頭に残りやすいんだ。固有名詞を大胆に使うところにも味がある」


 これは素直な賛辞ではない気がした。生源寺は俺の反応を待たずに続ける。


「ソルジャーが巣の防衛そっちのけで巣内の仕事に順応しようと苦労させられる裏で、人口比が減ったワーカーの負担も増加していく。適材適所を守らなければ巣は崩壊するとモルグが議会に訴えるも、一切聞き入れられず、遂に頑張り屋のリンデが過労死してしまった」


 議員にもなれず、過酷な労働にさらされ、挙句の果てに最愛の女性を喪ったモルグ。彼は巣を抜け出して、天敵であるグンタイアリを呼び寄せる。モルグのいたコロニーは機能不全のまま全滅し、モルグ自身もまた首を噛み切られて命を散らす。物語はそこで終幕だ。


「言葉を選ばずに言えば、私は森居の小説を読んで、全く楽しい気分にはならなかった。森居だってきっと楽しくてあんな話を書いたわけじゃないと思う。父はあの小説を心から愉快に思ってたようだけど、私は生々しく描かれた理不尽に心を抉られる気分だった」


「そうか……」


 紙の上ではいくらでもじょうぜつになれるが、現実世界の俺はあまりにも口下手だった。


「それで生源寺は、作者を思い切り投げ飛ばしてみたい気分になったのか」


「どうだろう。少しは近い気持ちもあったかもしれない。でも、それ以上に――」

 生源寺はそれから、小説の一節、議会に弾かれ仲間に見下されたモルグの悲嘆を諳んじる。


「『どうして強いと決めつける。どうして弱いと決めつける。俺は俺であって、お前たちの色で塗り潰した属性の切れ端なんかじゃないのに』――私がいつも叫びたかったことを、モルグが代わりに叫んでくれたんだ。私はずっと一人だと思っていた。あんなことは初めてだった」


 俺は驚いた。モルグの言葉は一〇〇%、俺自身のために書いたものだったからだ。


 男の子なんだからびいびい泣くんじゃないよ。


 体も弱いんだし、そんなに無理しなくたっていいのに。


 審査の結果、所得が下記の制限額を超えているため補助申請は却下となりました。


 ――どうしてなんだ、といつも思っていた。


 社会は「弱者」を枠で囲って担ぎたがる。その「弱者」を優遇するため、「強者」と決めつけられた者は疎かにされる。逆に「弱者」扱いされれば、それだけで軽んじられ見下される。


 性別から何もかも異なる生源寺だって、方向は違えど、同様の思いをしてきたのだろうか。


「俺たちが莫迦みたいに頑張る羽目になってるのは、案外、同じような動機があるからなのかもな。他人のジャッジから自由になるためには、疎かにされても平気なくらい優秀になって、見下してこようとする連中がその気をなくすほどの実力をつけるしかない」


 生源寺は俺をまっすぐに見てきた。そしてゆっくりと頷く。


「『蟻姫』の作者なら、きっとそれをわかってくれると思った。会ってみたかった。話してみたかった。できれば一緒に戦ってみたかった――それが、森居を柔道部に引き込んだ理由だ」


 その日、生源寺と俺は一つの約束を交わした。





 八月も終わる夏休み最後の稽古の日、生源寺、盛佳、俺の三人は練習後に居残りをした。


「ほんまに今日でいいん?」


 小声でそう確認する妹に向かって、生源寺は迷わずに頷く。


「最後の日に実行すると約束したんだ」


 そう、最後の日――最初の日に賭けたのは「夏休みが明けるまで柔道部に入部する」という条件だった。次の稽古から俺はもう来なくてもいいことになっている。

 だからこその約束。今日もう一度、今度こそ真剣に柔道の勝負をする。賭けるのは前回と同じものだ。俺は負けたら今年いっぱい柔道部に残り、生源寺は負けたら俺の要求を一つ聞く。


 正直言って勝つ自信はなかった。だが今ならそれでもいいと思える。生源寺に勝てる力がなければ、今年いっぱい練習をしてまた挑めばいいだけの話なのだ。


「大きくなったな」


 赤畳の外で生源寺は俺のすぐ目の前に立ち、こちらを見上げてきた。


「そうか……?」


「うん。自覚はないかもしれないけど、あれからざっと、目測で五センチは伸びている。たったの四か月で、だ。体つきもよくなった。六つに割れた腹筋が羨ましい。こうして森居を前にすると、どうしてもそこに男を感じざるを得ない」


 俺は慌てて道着を直し、緩んでいた襟を正した。別に上裸を披露しているわけではないのだが、中に何も着ていない俺は、練習のたびに胸や腹を晒すことになるのだ。


「生源寺だって少しは成長したんじゃないか」


「さあ。体重は増えたけど、筋肉はどうだか。毎月血液を失うようになってから、身長はさっぱり伸びなくなった。ぶくぶくといらん脂肪ばかりつく」


 気まずくなって俺は思わず視線を逸らした。


「相手が女だからといって、俺は手加減するつもりはない。戦う相手は『女』じゃなくて生源寺だ。四か月前、俺を完膚なきまでに叩きのめして、それからここまで育ててくれた師匠だ」


「嬉しいことを言ってくれるな。望むところだ」


 俺たちは互いに背を向けて別れ、赤畳の中で再び向かい合う。そこで交わし合う視線は、さきほどとは全く違う種類のもの。勝つために全力を注ぐ。それだけのことを考えていた。


「始め!」


 タイマーの横に立つ審判役の盛佳が声を上げて、ブザーとともに勝負が始まる。


 四か月前から確実に強くなっている自信があった。生源寺とは幾度となく乱取りをし、互いの力量がわかっている。生源寺の方が強い。それは確かだ。だが俺が必ず負けるかというと、そうとは限らないだろうと思えた。俺の技は少しずつ生源寺を揺さぶるようになっている。しっかりと抑え込みの形に入った状態からなら、生源寺の猛反撃を二〇秒間耐え続けられたこともあった。そして俺には、大外刈からの袈裟固という、この勝負のため生源寺相手には使わないようにしてきた奥の手もある。勝つチャンスはあった。


 組み手争いは呆気なく、いくらかの応酬を経て、互いにデフォルトの右組で掴み合った。

 先手を打ったのは生源寺。いつものように鋭く体を丸め、背負投に入ってきた。俺は反射的に腰を捻って軸をずらす。背負投は不発に終わった。生源寺は素早く元の姿勢に戻る。互いに組み合ったままだが、少しずつ道着が崩れ、乱れた状態になっていた。


 生源寺の戦略は単純だ。背負投をかけ続けて成功させること。再び背負投が来る。揺さぶられていた俺はうっかり投げられそうになったが、膝をついてなんとか回避した。


 仕切り直しだ。柔道場は夏の暑さ。生源寺も俺もすぐに息が上がり、たちまち汗が溢れてくる。スタミナ勝負だ。生源寺は再度背負投を繰り出してくる。回避。背負投。回避。

 生源寺の技を避け続けているうちに、俺は遂に腰を畳へと打ちつけてしまった。


「技あり!」


 盛佳の判定が響く。寝技には不利な姿勢だったので、俺は素早く生源寺から離れた。


 背が伸びたこともあり、重心が高いのは俺の方だ。背負投はそういう相手に特に有効な技。受ける側としては、股間くらいまでしか高さがない橋の欄干が殺意をもって迫ってくるイメージに近い。何度か耐えることはできるが、いつか頭から川に落とされてしまう。


 だが、体の大きさには当然メリットもあった。力は俺の方が強い。そして、脚をかけて体で威圧し相手を押し倒す大外刈のような技は、足が長く背の高い側が有利になるのだ。熊と相撲をして勝てるのは金太郎くらいだ、という自然の摂理に基づくシンプルかつ強力な技。


 互いにかなり体力が削られてきた状態で、俺は力勝負に出る。


「やあああぁぁぁ!」


 腹から掛け声を出しながら、全力を込めた大外刈。だが、刈り取ろうとした生源寺の右脚がひょいと抜け、不発に終わった。胸と胸が合っておらず、力が伝わらなかったのだ。


 二回目の大外刈はさらなる力押しでいく。組み合ったところから相手を全力で揺さぶり、襟を握った手でぐりぐりと鎖骨のあたりを押さえつける。福島先輩がよく仕掛けてくる腕力勝負だ。当然生源寺も受け慣れており、こちらの手をずらそうとしてくる。道着どころかシャツまで乱れ、互いに汗を振りかけ合うほどの駆け引きが始まる。


 キムタクも真っ青になるくらいの全力で生源寺を引き寄せ、抱き寄せる。互いの上半身がぶつかるのを感じた瞬間、俺は大木をへし折るつもりで渾身の大外刈に入った。


 生源寺が崩れた。もろとも畳へと倒れていく。入り乱れて横になる。技としてきれいに決まったわけではないから、判定はない。だがこれこそ、俺の目指していたルートだった。

 上半身でがっちり固めた大外刈の姿勢はそのままに、生源寺を脇腹で押し潰すようにして袈裟固へと移行する。佃田先生や福島先輩を相手に何度も練習した連係。


「抑え込み!」


 試合時間とは別にタイマーが秒数を刻み始める。決まった。生源寺に乗り上げるような不安定な体勢ではあったが、少なくとも狙いどおりの形で寝技に入ることができた。


「……だろうな」


 耳元で生源寺の声がした。コソ練はバレていたらしい。生源寺には使わないよう気をつけていたところで、先生や先輩相手に何度もかけている連係などお見通しだったに違いない。


 猛烈な抵抗が始まる。帯を掴まれ、背中側に引っ張られた。このままではすぐにひっくり返されそうだ。生源寺は俺が袈裟固に入ることを見越して、対応できるよう準備していたのだ。


 タイマーが一〇秒を指す。技あり。同点だ。だが、このままでは形勢を逆転され、上下反転しそのまま抑え込まれる可能性が高い。俺は袈裟固を諦めざるを得なかった。

 これまで控えていたが、勝つためには手段など選んでいられない。


 素早く寝返りを打つようにして生源寺の上に覆い被さり、横四方固めへと移行する。胸に胸を真正面から押しつける、ある種の抱擁のような体勢。道着でなければ女子相手にこんなことは決してしないしできないだろうが、俺はとにかく必死だった。


 絶えず抵抗してくる生源寺。時間は飴のように伸び、勝利までの一〇秒があまりに長い。悪いと思いながらも、いつかの金的の貸しがあると自分に言い聞かせて、俺は容赦なく生源寺の股ぐらを鷲掴みにし畳へと押さえつけた。下半身の動きが封じられ、抵抗が弱まる。


 それでも生源寺は止まらない。俺の下から何が何でも抜け出そうとする。ウナギの化け物を素手で捕まえている気分だ。化け物が聞いたこともないような唸り声を出す。

 手が俺の背中をがっしりと握った。あの小さな体のどこにそんな力があるのかという怪力が俺の上半身を浮かせる。生源寺はその隙間から逃げようとする。だめだ、まだ――


 びいい。


 耳障りなブザーが鳴り響いた。途端に抵抗が収まる。俺も畳と髪の毛しか見えていなかった視界を捨て、顔を上げる。抑え込みのタイマーは二〇秒で止まっていた。


 一本。盛佳の右手がまっすぐ上がっている。驚くべきことに、俺は生源寺治佳を倒した。





 気持ちのいい夕方だ。空はよく晴れて、千切れた雲が赤紫に染まっている。

 盛佳は相変わらず先に帰ってしまい、生源寺と俺は二人で駅まで歩くことになった。喉が渇いていた俺たちは、途中の自販機で飲み物を買い、道中の小さな公園に立ち寄って飲む。隣からぱちりぱちりと耳慣れた音がしたので振り返れば、生源寺が白い錠剤を口に放り込みアクエリアスで流し込んでいた。頭痛だろうか。ペットボトルを豪快に飲み干すと、生源寺は言う。


「森居、約束は約束だ。要求を言ってほしい」


「まさか勝つとは思ってなかったから、まだ考えてなかったけど、そうだな……」


 夕闇迫る学校近くの公園で、男が女にお願いすることなんて一つしかない。


「今年いっぱい、俺に柔道を教えてくれ」


 生源寺は腹を抱えて笑った。そんなに笑っている姿を見たことがないほどの大笑いだった。


 帰宅した俺は自分が疲れ果てていることに気づいた。勉強どころか小説の執筆もままならない。体だけでなく脳も動かず、放心状態というかとにかく抜け殻のような気分だ。

 こんなに全力を出して勝負をしたのは生まれて初めてかもしれなかった。


 精力善用。


 体と体、頭脳と頭脳がぶつかり合う格闘技に、俺は本当の勝負の世界を垣間見た。決められたルールの中で、できることはすべてする。持てるものを無駄なく使い切るために技術を磨き続ける。この世界で自由に羽ばたいていくため、精神の限り、肉体の限りを尽くして戦う。


 柔道が――生源寺が俺に教えてくれたことだった。


 疲れが和らいでくると、自分の腹が食い物を要求していることを自覚する。買いにいく気力があるはずもなく、俺はキッチンをあさった結果、インスタントラーメンを作ることにした。暑いが仕方ない。サッポロ一番のみそラーメンに刻んだネギだけのせ、七味を用意する。


 こうしてラーメンを前にすると、一か月前のことが思い出される。カウンターで並んで啜った北極ラーメン。止まらない汗。泣いていた生源寺。翌朝に俺を襲った悶えるほどの腹痛。


 特大かき氷の冷たさとは一八〇度違った、あれは炎に焼かれるような熱さだった。


 ふと、一つの無視できない考えが浮かんでくる。

 俺ははたして、生源寺に勝ったことを素直に喜んでいてよいのだろうか?

 バファリン。晴れた夕空。盛佳の不安そうな顔――思い出しながら七味の蓋を開ける。

 激辛ラーメン一杯分の想像力が俺には足りていなかったようだ。


 中蓋も開け瓶を上下逆さまにし、香りの飛んだ七味の残りをすべてラーメンの上にかけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

東大行きたきゃ柔道をやれ【第3回 MF文庫J evo参加作品】 逆井 卓馬/MF文庫J編集部 @mfbunkoj

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ