第8話 死んだはず
「今日はわがままにつき合ってくれてありがとね」
「とんでもないです。ぼくなんかを映画に誘ってもらって感謝してます」
午後五時過ぎ。中野にある早瀬菜々美の自宅マンションのエントランス前。冬の弱々しい西日がほぼ真横から早瀬菜々美の顔を照らしている。頬の産毛が金色に光り、形のよい鼻梁の上には睫毛の影が伸びている。
きれいだ。
加藤耕平はまぶしさに目を細めながら、この美しい女性と半日をともに過ごせた幸せを噛みしめていた。
「あのさ」
「はい」
「前から気になってたんだけどね、その『ぼくなんか』っていうのやめたほうがいいよ」
「あ、はい。すいません」
「そうやって、すぐあやまるのもNGかな」
「すいません。――あっ、これがだめなんですね」
早瀬菜々美はあははと声を出して笑い、じゃあまたねと手を振ると、コートの裾をふわりと膨らませて回れ右をした。
加藤耕平はその後ろ姿に向かってぺこりとお辞儀をする。そのまま、いち、にい、さんと数えて顔を上げると、早瀬菜々美を飲み込んだばかりの自動ドアが冴えない自分の姿を映していた。目尻を下げ、なんだか泣き笑いのような表情で突っ立っているのが我ながら情けなかったが、今はそれ以上に、全身を満たす幸せな気分が心地よかった。
「おい、加藤」
真横からいきなり声をかけられた。
左を向くと、目玉をぎょろつかせた濃い顔がこちらを見上げていた。
加藤耕平の緩んでいた顔の筋肉が一気にひきつれ、ひっ、という小さな悲鳴が漏れた。
「なんや、その化けもん見るみたいな目ぇは」
なんで堀井が――
加藤耕平の全身が瞬時に固まり石像と化した。
「ふん、まあええわ。それより今、仲よさそうにしゃべっとった女は誰やねん。えらい可愛いらしいやんけ。まさか彼女やないわな。彼女にお辞儀なんかせんもんな。ほんなら大学の先輩かなんかってとこか。ははあ、わかったで。お前がこんなとこに住んでるわけがよ」
堀井はほとんど体を触れ合わんばかりにまで距離を詰めて、生臭い息を吐きかけてくる。
幽霊なんかじゃない。生身の堀井だ。では早瀬菜々美が言っていた、山手線の死亡事故とは何だったのか。もしかしたら、あのときのこととは関係のない、まったく別な出来事だったのだろうか。
だとすれば、ぼくは人を殺さなかったということになるじゃないか。
加藤耕平の胸にほのかな希望の光が灯った。
「おい、そんなことよりお前、えらいことやったなあ」
「な、なん――」
「なんのことやないわい。今朝の山手線の事故や。K大の受験生が死んだやろが。たしか山本浩一いう名前や。テレビでもネットでも大騒ぎになっとるやろが。それ見た受験生の親が心配して電話して来よるから、昼休みの学食なんてそこらじゅうでスマホが鳴りっぱなしや。しかもお前、その死んだ男の知り合いっちゅうのが、オレの前の席やんけ。そいつが変や変やこれはただの人身事故やない言うて大騒ぎしよるから、こっちはえらい迷惑やったわ」
ただの事故じゃない?
「そいつが言うにはやな、死んだヤツ、オレらとおんなじ新宿から乗って来ることになっとったらしいわ。そやのに新宿のホームに着いた電車から、死んだまま押し出されて来よったやろ。ちゅうことはやな、田町の手前のどっかで死んで、そのまま山手線一周したことになるやんけ。なんぼ電車が混んどるからいうてそれはないやろ、っちゅう話や」
新宿から一緒に乗った?
だから――間違えたのか。
そのとき二人のすぐ脇をレジ袋満載の自転車が走り抜けた。加藤耕平はとっさに身をよじってハンドルの先をやり過ごした。
「ん? おい、加藤、ちょっあっち向いてみい」
それまでの話の流れを突然断ち切って、堀井が妙なことを指示してきた。加藤耕平はわけもわからないままに、言われたとおり堀井に背を向けた。そのとたん、背後で堀井がはっと息を呑むのがわかった。
「加藤、お前――」
声が震えている。加藤耕平は思わず振り向いた。斜め前からの夕日に照らされた堀井の顔は縦にひきつっていた。
「お前、朝からずっとそのスタジャン着たまんまやろ。もしかして気づいてへんのちゃうか?」
「なに? なんのこと?」
「スタジャンの背中の真ん中に、なんか人の顔みたいな形した気持ちの悪い染みがあるやんけ。それなんや? オレが朝見たときにはそんなもんなかったど。それ、まさか」
堀井は怯えた顔のまま一歩後ずさった。
「それ、やっぱり顔の痕とちゃうんか。おい、加藤。お前、ほんまに気づかんかったんか? たぶんお前、その顔は、朝の事故の――」
加藤耕平の背中で硬く丸いものがぐりぐりと動き回りはじめた。
右へ左へ、苦しそうに。
「ん? そういやお前、なんで田町で降りひんかったんや?」
「それは、無茶苦茶混んでて――」
「うそこけ。あんときの周りのヤツはほとんど全員が降りたやんけ。オレなんか立ってるだけでホームに押し出されたわ。おい、なんでそんなうそつくねん。お前、なんか変やぞ」
堀井の顔から徐々におびえの表情が消えていく。代わりにいつものゆがんだ笑みが戻りはじめた。
「そうか、お前、自分の背中で人を押し潰したこと気づいとったんやな。ほんで降りるに降りられへんかったちゅうことか。いや、まてよ。あんだけひどいラッシュなんやから、だれか一人の責任ちゅうことにはならへんよな。もしかしたら加藤が被害者になってる可能性かてあるわな。ほんなら加藤がびくびくして隠す必要ないやんけ」
ここで加藤耕平は観念した。堀井という男は、必ず、加藤耕平にとって最悪の状況をつくり出すのだ。今の場合それは、真相にたどり着くということである。
「お前、さっきオレを見たとき、顔引きつっとったよな。ははあ、そうか。そういうことかい」
堀井の口調が低く重いものに変わった。
「お前、オレやと思たな。ほんでラッシュのどさくさに紛れて押し潰したれ、ちゅうことにしたんやろ。あほやのう。せっかく現役でK大入って、可愛らしい先輩とも知り合いになったちゅうのに、勘違いで人殺してどうすんね。お前の人生終わりやんけ。ほんま、加藤らしいわ。なんや、その目ぇは。言い逃れしてもあかんど。そのスタジャン、警察が調べたら一発でアウトじゃ」
堀井のせいでぼくは、ぼくは人を――
「逆にそのスタジャンさえ始末したら、やっぱりただの事故ちゅうことになるわけや。あ、そうそう、オレも黙っとかなあかんわな」
どうして、いつもいつもこいつは、この堀井は――
「さあ、どうしよか。お前がオレのことどう思とったんか、ようわかったしな。これでオレがK大に受かったら、なかなかおもろいことになりそうやの」
堀井はにやりと口の端を歪めた。
だが加藤耕平には、もうその顔は見えていなかった。
死んだはず @fkt11
ギフトを贈って最初のサポーターになりませんか?
ギフトを贈ると限定コンテンツを閲覧できます。作家の創作活動を支援しましょう。
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます