第7話 現実逃避

「加藤くん? わあ、やっぱり加藤くんじゃない」


 名前を呼ばれた瞬間、ヒマワリのような笑顔が加藤耕平の頭の中にぱっと咲いた。読みかけの雑誌から目を離し、あわてて周囲を見渡す。雑誌コーナーの、着ぶくれした大小の背中と背中が作る狭い通路のすぐ先に、文芸サークルの先輩――早瀬菜々美が立っていた。

 まだ店内に入ってきたばかりなのだろう。まるで田舎の小学生のように両頬が赤い。首をすくめた立ち姿は冷えた外気をまとっていて、もし口を開けば、白い息がふわりと漏れ出そうだった。


「あ、先輩――」

 中途半端な加藤耕平の声は人のごった返す店内の熱気に飲み込まれて消える。

 早瀬菜々美は胸の高さで小さく手を振ると、左肩を先にしてむさ苦しい通路をぐいぐいと進み、加藤耕平のすぐ横に立った。羽織ったコートのフェイクファーの真ん中から、わずかに傾けられた小さな顔が見上げくる。

「ここ、よく来るの?」

「めったに来ません。今日はたまたまです」

 それは本当だった。一時間前、山手線のホームから逃げるように立ち去り、南口コンコースを歩き始めたときには、すぐにでも中野のマンションに帰ろうと考えていたのだが、途中でふと背中に、あの感触がよみがえったのだ。それからずっと、今も、背中の真ん中であの丸みを帯びた固いモノが、苦痛から逃れようと右へ左へとうごめいているのだ。

 もちろん気のせいである。だけど背中にこんな違和感が残っているうちは、誰もいない部屋で一人きりになるなんて絶対無理だと思った。とにかく人の大勢いる場所に居たかった。だからといって駅構内にとどまる気にはとてもなれない。しばらく悩んだ末、駅から少し離れた大型書店で時間をつぶすことにしたのだった。


「わたしもよ。じゃあ、すごい偶然なんだね」

「ほんとに、偶然ですね」

「もしかして加藤くんも、あの事故で予定が狂っちゃった?」

「事故?」

「あ、知らないんだ。一時間ほど前にね、山手線で人が死んじゃったの。圧迫死らしいよ。わたしもよくラッシュがひどくて死ぬかと思うことがあるけど、本当に人が死ぬなんてびっくり」


 やっぱり死んだのか。

 他人の口からあらためて発せられる「死」という言葉はずしりと心に重く、圧迫死という響きはなんとも生々しかった。

 そして堀井の苦悶の表情がありありと浮かんで――

 すうっと頭から血が引いていくのがわかった。視界が周辺から薄暗く翳りはじめ、靴の底から伝わる床の感触ががふわふわと頼りなくなる。同時に激しい吐き気が込み上げてきた。

「どうしたの? 顔、真っ青よ」

 早瀬菜々美の心配そうな声が、きりきりに冷えた清水のように全身に染み渡る。床が固さを取り戻す。

「すいません、ちょっと立ちくらみがして」

「ここ、暑いからのぼせたのかも。上の階に移ってちょっと休憩した方がいいよ」

「あ、いや、もう大丈夫です」

「だめだめ、ほら、行こう」

 ひやりとした細い指が加藤耕平の左手首に巻きついた。えっ、という驚きとともに、甘い痛みが胸の芯を貫く。

 それからあとはもう完全に早瀬菜々美の言いなりで、手を引かれるままに混み合う雑誌コーナーを抜け、気がつけば上りのエスカレータに乗せられていた。


「うん、ここはずいぶんましだね。どう? 楽になった?」

 連れてこられた五階は心理学や思想、宗教書などのフロアで、空調の音が聞こえそうなほどの静寂と程良い緊張感に満たされていた。ここは良い場所だ。一つ呼吸をするたびに気持ちが落ち着いていくのがわかる。

「ありがとうございます。おかげで頭がすっきりしました」

「ならよかった。あのまま倒れちゃうんじゃないかと思ってどきどきしたよ」

「すいません」

「で、何の話してたんだっけ?」

「なんでしたっけ」

 話の続きなどどうでもよかった。加藤耕平は今なお手首に残る繊細な指の感触にとらわれていた。このまま手首だけの存在になりたいとひそかに願った。

「あ、そうだ、山手線の事故のことだったよね」

 山手線と聞いて再び胸がぎゅっと絞られたが、一方で、先に感じたほどの衝撃はもうなかった。

 そうだ、あれは事故なんだ。

 加藤耕平は耳ざとく聞き分けた「事故」という言葉の響きに逃げ道を見つけだした。

 確かに今朝の山手線のラッシュはひときわひどかった。押しに押されて人が死んでもおかしくないほどだった。むしろこれまで死人が出なかったというのが不思議なぐらいなのだ。そんな状況で、たまたまぼくが運悪くあの位置に立っていたというだけなんだ。押したのはぼく一人じゃない。むしろぼくは踏ん張って、堀井を守ってやったじゃないか。事故の責任っていうことになればあの車両に乗っていた人間全員に責任があるし、誰もわざとやったわけじゃない。つまり起こるべくして起きた事故だったということだ。そうなんだ、あれは誰が考えたって仕方のない出来事なんだ。

 この理屈には、加藤耕平自身が激情に任せて加えた駄目押しの突っ張りは含まれていない。そもそも事故とするなら異変を知った時点で人命救助の義務があったという観点も抜け落ちている。だがこのすり替えは意図的なものではなく、本人も自覚しないままに行われた現実逃避であった。

 さらに加藤耕平は、昨日から今朝にかけての自分のとった行動を思い返してみた。幸い堀井とは電話番号の交換をしなかった。今朝だって、駅でも電車の中でも、ひと言も堀井と会話を交わしていない。山手線で乗り合わせた乗客は加藤耕平と堀井の関係など知らない人間ばかりである。どう考えてみても、自分から名乗り出ない限り、今回の事故と加藤耕平を結びつける要素はないと思われた。

 だったら――

 なにもなかったことにすればいいじゃないか。

 この瞬間、加藤耕平の背中にあった違和感は嘘のように消え失せた。


「朝の山手線の混み方は普通じゃないですもんね」

「ほんとにそう。だからね、加藤くんにはあらためて感謝してるってことを言いたかったんだ」

「え?」

「ほら、朝、電車で一緒になったとき、いつもわたしのことかばってくれてるでしょう。壁とか窓枠とか両手で突っ張ってさ。加藤くんに会わない日は結構大変な目に遭ってるんだ。だから今回の事故でさ、ほんと、命の恩人って思っちゃった」

 気づかれていた。

 息どころか心臓が止まりそうになった。顔が熱い。かっかと燃えるストーブがすぐ目の前にあればこんな感じだろうか。

「いや、あの」

「また四月からボディーガードよろしくね」

 本当にそう思っているのか?

 加藤耕平はとっさに足元に逃がしていた視線を、びくびくしながら上げていく。

「あ、ごめん」

 早瀬菜々美のあごの先が視界に入ったタイミングで突然謝られ、限界近くまで張り詰めていた神経が焼き切れそうになった。

 どうやら電話がかかってきたらしい。早瀬菜々美はおもちゃみたいに小さなバッグからスマートフォンを取り出し耳に当てると、すっと体の向きを変えて背中を見せた。顔の前にあった見えない壁のような圧迫感が消え、加藤耕平は、ほう、と細く長い息を吐いた。さらに深呼吸を二、三回繰り返して少し落ち着くと、スマートフォンを持つ早瀬菜々美の白く小さな左手を見ながら考えた。

 先輩は好き嫌いがはっきりした性格だ。それに相手が誰であれ、嫌なものは嫌だとズバリ言う。だから、感謝してるだの、四月からもよろしくだのは決してお愛想ではないはずだ。もちろん恋愛感情なんてものではないのはわかっているけど、悪くは思われてないって考えてもいいんじゃないだろうか。ということはつまり、四月からは堂々と先輩を守ることができる、ってことだ。

「……なにそれ? じゃあわざわざ出てきたわたしはどうなるのよ。……はあ? ……いいよ、もう……わ・か・り・ま・し・た……過保護な彼氏にヨロシク。……うん? 冗談だって。そのかわり次のランチはおごれよ。じゃあね」

 スマートフォンを手早くポーチにしまうと、早瀬菜々美はくるんと音がしそうな動きで振り返った。さっきまでの笑顔はない。額のあたりに不機嫌そうな気配が漂っている。


「聞こえてた?」

 あわてて首を横に振る。それといっしょに頬の肉が揺れる感じが情けない。

「玲奈のやつ、自分から誘っておいてだよ、今日は事故があったばかりでサトシくんが心配するから新宿に出るのはやめとく、だってさ。ひどいでしょう。その心配な状況の中をわざわざ出てきたわたしは、なんだってのよ」

 口で言うほどには腹を立てていないのは見ればわかる。こんなときに気の利いた一言があればいいのだろうが、それができれば苦労はしない。

「さて、予定が空いちゃった。どうしようか?」

「はあ」

「映画、行く?」

「え?」

「ほら、春休み前の最後の定例会でさ、うちの部長が面白いって勧めてたホラー小説あったでしょう。あれが映画化されたやつをさ、玲奈と見る約束だったんだ」

「あの、えっと」

「あ、加藤くんはホラーは苦手か」

「大丈夫です!」

「じゃあ決まり。玲奈の代役っていうのが気にくわないと思うけど、今日のためにわざわざバイトの日程調整したもんだからさ。もちろん映画代はこっちで持つから、いや、玲奈に持たせるか」

「いいです。自分で払います。ぼくも見たかった映画なんで」

「無理しなくていいよ」

「無理してません。払いますっ」

「しっ、声が大きいってば。じゃあ映画代はいいとして、ランチはおごらせてもらうね。おっと、これは断るなよ。後輩ならときには先輩の顔を立てるってことも大事だよ」

 先輩と二人で映画を見た上に、昼食も一緒に?

 信じられない展開に、加藤耕平はくらくらと目が回る思いだった。

「そうと決まれば早く行こう。急げば予定してたのより一本早いのが見られるよ」

「でも、いいんですか? ぼくなんかと――」

「何言ってんの。さあ、行くよ」

 さっと背を向けて歩き出した早瀬菜々美は、当然のことながら、もう手を引いてはくれなかった。だがあとに続く加藤耕平の足取りは、天上の雲を踏んでいるかのように軽やかだった。山手線での出来事も、背中の違和感も、頭の中に広がっていく甘い綿菓子のような喜びに埋もれてしまい、加藤耕平の意識から完全に消え去っていた。

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