渦と納涼

亥之子餅。

渦と納涼

 夜もけているというのに、私は何をやっているんだろう。

 八月、空気がよどんだ部屋。

 紗理奈さりなはゴウンゴウンと渦を巻く洗濯機にもたれて座り、時計の針が進むのをぼんやりと眺めていた。


 昼間に回し忘れたのを、布団に入る直前になって思い出したのだった。

 だが考えもせず慌ててスイッチを入れたことを酷く後悔していた。別に取り立てて急ぐ理由も無いのだから、また明日回せば良かったのに。


 電気代が厳しくクーラーをつけていないせいで、湿気を含んだ空気が身体にまとわりついて離れない。今から冷やすのも億劫おっくうで、彼女は膝の間に顔を埋めた。

 


 こういう虚無の時間は、悶々と不安が渦巻いて無性に世界が遠く感じてしまうから苦手だ。いつもテレビをつけたり音楽を聞いたりして、なるべく沈黙が流れないようにしている。

 だが今はそんな気持ちにもなれなかった。背中伝いに、洗濯機の規則的な振動が身体の芯を重たく揺らし続ける。

 

「私って、何のために――――」


 不意に口をいて出かけた言葉が、益々ますます心を沈ませる。

 会社と自宅を往復する毎日、私に心落ち着ける居場所なんてない。家に帰ったってこの有様――まともな私生活とは言えないし、まして「充実」なんて遥か彼方。

 こんな惰性の毎日、いったい何の意味があるのだろう。

 脱水を始めた白い箱は、ガタガタとうるさく声を荒げる。


 暑苦しい部屋、汗ばんだ肌は空気に溶け出していく。

 次第に、なんだか自分の輪郭がぼやけていくような感覚に襲われる。曖昧になっていく自分の存在があまりにも惨めで、紗理奈は何度も浅い呼吸を繰り返した。


 もういっそ、このまま――――。

 仄暗ほのぐらい感情が心を犯そうとしたとき、



 ピー、ピー、ピー。



 洗濯機が仕事終わりを告げる音。

 はっとして顔を上げる。


 おもむろに立ち上がり、かごの中に濡れた衣類を放り込む。


 重たくなったそれを抱え、紗理奈は部屋を歩く。

 ベランダの扉の前まで来ると、かごを床に置き、固い取っ手に指を掛けゆっくりと押し開けた。



 その刹那せつな、ひんやりとした風が部屋に吹き込んだ。


 汗で湿った肌を、藍色の夜風が撫でる。

 八月の熱帯夜とは思えないほど、冷たく心地好かった。

 徐々に、失った境界を取り戻していく。


 

 差し込んだ月灯りが、彼女の身体を夜闇に優しく映し出す。

 紗理奈はひとつ、大きく深呼吸をして呟いた。

 


「…………理由なんて、なくてもいいか」


 パタパタと軽やかな音で、シャツのしわを伸ばす。



 短い宵涼よいすずみを終えると、彼女はようやく明日を迎えに行った。

 


 <了>

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