沈める。

西奈 りゆ

水の音がする。

ここに、1冊の本がある。

この本を誰がくれたか、私は今、思い出せない。


主人公の男の子は、農場の息子。

自分で育てた愛しい豚を、殺めて1人前になる。

それが、生きるということだから。


1ページごとに深まる苦悩と、

名前のある豚の死の予感。


怖くて読めないと、幼い私は泣いた。


私たちは、命を奪って生きている。

私は子どものときから、そう教わった。


命に感謝したのは母であり、

その命を踏みにじったのは父だった。


暗い浴槽から、水が滴る音がする。

溢れてしまう。溢れてしまえ。

あぁ早く、思い出さないと。


私にこの本をくれたのは、どちらだろう。

記憶の中の声と手は、淡いのように霞んでいる。

あの頃。母も父も、笑っていた。


浴槽から、くぐもった音がする。

声にならない音は、私の名前を呼ぼうとしている。豚が死ぬ、豚が死ぬ、豚が死ぬ……。


飛べないカラスに明日は来ない。

そうね。それとて、きっと同じこと……。


その答えの輪郭を携えて、

私はそっと扉を開ける。


「ねぇ、思い出したよ」

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沈める。 西奈 りゆ @mizukase_riyu

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