第5話
六
眞家蓮次郎。菜澄の領主たる高山家お抱えの剣術指南役である。年齢は鞘音や壮介らと同じく、数えでちょうど三十歳であるはずだ。美男で品の良い男ぶりでも評判であり、現に今、町の女たちの視線が蓮次郎に集まっている。
蓮次郎の両脇から、二人の侍が進み出た。
「蓮次郎様との勝負が怖くて逃げ出した腰抜けめ」
「よう恥ずかしげもなく御城下に顔を出せるものよ」
蓮次郎が二人の肩を叩く。
「太郎右衛門、次郎右衛門、やめるがよい」
鞘音は舌打ちして詰った。
「皆まで言わせる前に止めぬか」
蓮次郎は鼻で笑った。
「まだ田舎に引き籠もっておるようだな、望月鞘音。刀よりも鍬のほうが手に馴染むと見える」
「畑仕事は足腰の鍛錬となり、紙漉きは手首の鍛錬となる。おぬしもやってみるがよかろう」
「あいにく、農夫の真似事をする趣味はないのでな」
「そうであった。おぬしは江戸でも、いつもそのようにお高くとまっておったな」
もう十年も昔、二人は江戸の剣術道場でともに修行を積んだ仲であった。鞘音は武者修行、蓮次郎は参勤で江戸詰めの折である。当時から蓮次郎は、譜代高山家の剣術指南役の御曹司として、下へも置かれぬ扱いを受けていた。
「相も変わらず、そうして供を引き連れて歩くのが好きなようだな」
「なんの、おぬしのように気軽に出歩ける身分がつくづく羨ましいと思うておるよ」
嫌みでは勝てそうにない。
蓮次郎はわざとらしく咳払いした。
「時に望月鞘音、何やらそなたのことで穢らわしい噂を聞いたのだが」
二人の弟子がふたたび前に飛び出した。
「女の下の用で口に糊するとは、剣鬼も落ちたものよのう」
「しかもその名が女の下そのものになるとはのう」
蓮次郎がふたたび二人の肩を叩いた。
「太郎右衛門、次郎右衛門、やめよ」
「だから、皆まで言わす前に止めぬか!」
蓮次郎の顔から嘲笑が消えた。声が凄みを帯びる。
「望月鞘音、そなたは何をしておるのだ。近々に殿が参勤からお帰りになるというのに、剣鬼の名を女の下で穢したままお迎えするつもりか」
鞘音にしてみれば理不尽な言われようである。自分から剣鬼と名乗ったわけでもなく、好んで女の下に名を使われたわけでもない。自分の与り知らぬところで勝手に名を上げられたり下げられたり、たまったものではなかった。
さらに正直なところでは、二年前から菜澄の領主となった高山家の殿様に、さほどの忠義を感じてもいない。知行地を安堵されているので形の上では君臣関係にあるが、それだけである。名君と噂される高山重久公に人並みの期待と興味はあったが、特に目通りしてみたいとも思っていなかった。
それよりも鞘音にとって衝撃だったのは、蓮次郎が噂を知っていたことである。武家地にまで広まっているのであれば、「サヤネ」の名はすでに城下すべての笑い草になっているのではないか。
かくなるうえは、命を賭して名を保つべし。鞘音はひそかに刀の鯉口に親指を添えた。一歩前に出ようとしたとき、両者の間にひとつの影が躍りでた。
「聞き捨てなりませんね」
力強い声。佐倉虎峰であった。その眼は太郎右衛門と次郎右衛門ではなく、まっすぐ蓮次郎に据えられている。
「望月鞘音さまのお仕事で、どれほどの女子が救われているか。それを虚仮になさるとは、いかなる了見でしょう」
「私は何も言うておらぬぞ」
「弟子が勝手に言ったとおっしゃいますか。言い逃れは卑怯ですよ」
蓮次郎の表情が変わった。かすかな剣気がその目に宿ったことに、鞘音は気付いた。
──まずい。
無礼討ち。
恥をかかされてそのままにしておくことは、武士にとって単なる体面の問題では済まない。罪悪であった。町人に笑いものにされた武士が、恥を雪がず捨て置いたとして御公儀から罰せられることもある。蓮次郎が刀を抜くとすれば、怒りだけでなく、武士としての義務感からでもあろう。武士とはそういうものだった。
鞘音はすでに刀の鯉口に指をかけている。さらに今、柄に右手を添えた。あえて所作を大きくしたのは、蓮次郎を牽制するためである。
蓮次郎の目が、鞘音のその動きをとらえた。
「……そうか、そなたが巷で噂の三代目佐倉虎峰か」
蓮次郎はことさらに胸を張ると、呵々大笑した。
「これはこれは、威勢のよい女子がいたものだ。その胆力に免じて、ここは私が譲るとしよう」
芝居がかっているが、武士としての面目を保ったことを、往来の民に示しているのである。
蓮次郎の目から剣気が消えたので、鞘音も柄から手を離した。
「鞘音どの、失礼いたした。弟子の失言を許してもらいたい」
失言で済ませる気か。鞘音は不満足であったが、周囲に見物人の輪ができている。事を荒立てると厄介だ。地位のある蓮次郎のほうがよりそう思っているはずで、だからこそ詫びを入れたのであろう。
「──うむ」
短く、謝罪を受け入れる。
蓮次郎たちは尊大な足取りで城のほうへ去っていった。
虎峰に礼を言うべきなのだろうか。鞘音が迷っていると、虎峰は「それでは」と一礼し、そっけなく背を向けた。サヤネ紙の風呂敷を手にぶらさげて。
虎峰の髻が、馬の尻尾のように揺れながら遠ざかっていく。
鞘音の袖を小さな手がつかんだ。若葉である。義父とともに女医の背中を見つめる少女の瞳は、秋の澄んだ陽射しを映し、黄金色に輝いていた。
(この続きは単行本でお楽しみください)
月花美人 滝沢志郎/小説 野性時代 @yasei-jidai
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