第4話


「あなたが望月鞘音さまでございましたか。そうとは気づかず、ご無礼をいたしました」

 佐倉虎峰は慇懃に頭を下げた。言葉とは裏腹に、あまり悪いとは思っていないように見える。

「あらためて紹介するよ。女医者の佐倉虎峰先生だ。俺たちがガキの頃によく叱られてたジ……虎峰先生の娘さんだ」

 虎峰というのは代々襲名するらしい。目の前にいる佐倉虎峰は、三代目ということであった。なお、「女医者」とはいわゆる産婦人科を専門とする医者を指すことが多いが、虎峰のような女の医者を指すこともある。

「鞘音さまのお作りになったサヤネ紙、あれを拝見したときは目の覚めるような心地がいたしました。あのように素晴らしい物をお作りになった御方に投げ技を仕掛けるとは、重ね重ねお詫び申し上げます」

 医者は骨接ぎの修業の一環として、柔術を心得ている者が多い。

「謝らんでいい」

 謝られると、かえって情けなくなる。背後からの不意打ちとはいえ、女に投げられてしまうとは何たる不覚。

 今、鞘音を真ん中に挟んで、虎峰と壮介も上がり框に腰掛けていた。

 鞘音はどうにか心を落ち着けた。今の状況を整理してみる。

 サヤネ紙を考え、作ったのは自身、望月鞘音。

 サヤネ紙を商品として売り出したのは、紙問屋の我孫子屋壮介。

 サヤネ紙を「月役紙」などとして女の下の用に使わせているのは、女医の佐倉虎峰。

 整理できた。鞘音は立ち上がり、女医を睨みつけた。

「佐倉虎峰どの、そなたのところで話がおかしくなっておるようだ」

 他の客がいる手前、大声は出せない。努めて声を抑えている。

「私が何をしたとおっしゃるのです?」

 虎峰は冷ややかに鞘音を見返している。

「いやいやゲンさん、先生に悪気はねえ。医者として、患者のことを考えたまでだ」

「おぬしは黙っておれ。そもそも、おぬしも何だ。この女の言うなりになって、私にサヤネ紙の手直しをせよとは」

「いや、それにはわけがあって……」

 佐倉虎峰は、鞘音の抗議など知らぬ顔である。

「若旦那、ちょうどよかった。この行李のサヤネ紙を丸ごとくださいな」

「そなた、人の話を聞いておったのか。よくも私の目の前で買えるものだな」

「これはもう我孫子屋さんが買い取られたものでしょう? ならば、私と我孫子屋さんとの取引です。貴方様が口を出す筋ではありません」

「う、む……」

 鞘音はたじろいだ。佐倉虎峰、弁が立つ。そして、一歩も引かぬこの態度。旦那は尻に敷かれているに違いない。

 佐倉虎峰はわざとらしくため息をつき、鞘音を上目遣いに見た。

「よろしいですか、望月鞘音さま。率直に申し上げて、丸めた紙をまた紙に包む程度のもの、私でも作れます」

「何を申す。あれでも細かい工夫がしてあるのだ」

「私も私で工夫するまでのこと。そういえば牛額草の黒焼きを混ぜているようですが、たいした効き目はないと思いますよ」

 いきなり商品にケチをつけ始めた。

「牛額草の黒焼きは打ち身や切り傷に効くと聞いたぞ」

「多摩の薬売りが扱っている散薬のことですか? あれは飲み薬ですよ。生の茎や葉なら、すり潰して傷に塗ることもありますけれどね。わざわざ牛額草を採って黒焼きにする手間をお取りになるぐらいなら、そのぶん安くしていただきたいものです」

 鞘音は絶句した。じつに恥ずかしい勘違いをしていたらしい。

「私が医者として、患者に適切な月役の処置をさせることにどれほど苦心してきたか。それなのに、これほど単純なものを思いつかなかったとは口惜しいかぎり。それでも、これを作った望月鞘音さまに敬意を表して、あえて売れ残りの山を崩して差し上げているのですよ」

 虎峰は一気にまくしたてるのではなく、滔々と論を述べている。それがまた面憎い。

 おのれ佐倉虎峰。だが、憤る鞘音の脳裏に、引っかかる言葉があった。

「売れ残りの山……?」

「若旦那に聞いてごらんなさい」

 壮介は目を逸らしていたが、やがて観念したように鞘音に頭を下げた。

「ゲンさん、じつはサヤネ紙が売れたのは最初のひと月だけだ。あれはたしかに大怪我をしたときには便利だが、大怪我なんかそう滅多にするもんじゃねえ。やっぱり、みんなそこまでそそっかしくはなかった」

「雑巾にも……」

「それは雑巾でいいし、使い捨てるなら浅草紙で十分だ。サヤネ紙は結構高いしな」

 あえて強気の値をつけたのは壮介自身である。だが、己の目算の誤りを反省するでもなく、何やら開き直ってすらいる。

「近頃は納める数も減らしていたではないか」

「あれでも多すぎたんだ。虎峰先生の言うとおり、売れ残りが山になってた」

「それならば、なぜもっと早く作るのをやめるよう言わなかった」

 壮介が口ごもっているので、虎峰がかわりに答えた。

「若旦那は昔馴染のよしみで、無理をしてサヤネ紙を買い取っていらしたのですよ。貴方様と娘さんの暮らし向きのために」

 虎峰の瞳が店の外に向けられた。そこには、大人同士の話が終わるのを行儀よく待っている若葉がいる。

 鞘音は血の気が引く思いがした。

「私と若葉の暮らし向きのために、だと……。壮介、おぬしは私を憐れんだのか」

「そんなんじゃねえって。俺も自分で取り扱いを決めたもんだから、意地になってたんだよ。何としても売らなきゃいけねえってな」

 また、虎峰の淡々とした声。

「ははあ、それでうちの診療所にサヤネ紙を売り込みに来られたわけですか。失礼、ただの昔馴染のよしみではなかったということで、そこは私の心得違いでした」

 虎峰は行李のサヤネ紙を自分の風呂敷に移し、手際よく包んだ。慣れた様子からして、常連のようだ。

「さて、望月鞘音さま。若旦那からお話があったと思いますが、サヤネ紙の手直しをなさらぬならば、それでよし。これからは私が自分で作るだけのこと。憐れみを受けるのはお嫌なようですから、それでよろしいでしょう」

 立ち尽くす鞘音をよそに、虎峰は風呂敷を抱えて戸口に向かった。

「……虎峰どの、待たれよ」

 虎峰は風呂敷ごと振り返った。

「やっていただけるんですか?」

「そうは言うておらぬ。だが……」

「申し訳ないですが、これから往診なのです。ゆっくりお話を聞いている暇はないんですよ」

 虎峰はふたたび背を向けたが、ふと何かに気づいたようだ。

「ああ、そうでした」

 戸口の逆光が虎峰の顔の輪郭を不吉に浮かび上がらせる。

「いずれお耳に入るでしょうから、先に申し上げておきましょう。近頃、御城下の女たちの間では、月役のことを『サヤネ』と言うのが流行っているそうですよ。それだけサヤネ紙が月役の処置に適しているという証ですね」

 鞘音の視界が闇に包まれた。先刻聞いた女たちの会話が蘇る。

「サヤネに、斬られる──」

「ああ、月役が始まることをそう言うそうです。血が出るからでしょうね」

 ──なるほど、そういう意味だったのか。

 理解すると同時に、音が聞こえた。これまで守り、築き上げてきた武士としての体面が、一気に瓦解する音が。

「申し上げておきますが、私はこれを月役紙という名で処方しております。月役をサヤネと呼び始めたのは患者たちです。私を恨まれても困りますよ」

 この女、あくまで自分に責はないと言い張る気か。鞘音はついに怒声をあげた。

「待て、虎峰……!」

「待てません。往診があると申したではありませんか」

 逆上する鞘音を、壮介が後ろから羽交い締めにした。

「やめろって、ゲンさん」

「武士がこうまで名を穢されて、黙っておれるか!」

 壮介は店の者に声を掛けた。

「おいみんな、出合え。殿中にござるぞ!」

 壮介のふざけた呼びかけに、店の者がほとんど総出で鞘音にしがみついた。

「では、ごめんくださいまし」

 虎峰が涼しい顔で一礼し、店を出ていく。鞘音は若旦那と店の者たちを引きずりながら追いかけた。往来の人々が何事かと振り返る。

 往来にはちょうど、二本差しの集団がいた。

「どこの誰が騒いでおるのかと思えば、おぬしか。剣鬼と名高い望月鞘音どの」

「どの」に嫌みが込められている。声の主は二本差しの集団を率いる男だった。質素だが趣味の良い袴姿の侍である。

「むう、おぬしは眞家蓮次郎」

 鞘音は我知らず表情を引き締めた。

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