第3話


 鞘音と若葉は畦道を歩いている。稲刈りが終わり、そろそろ田に菜種を蒔く季節であろうか。田植えの季節には菜澄の空を映す水田も、今は乾いていた。

 土手を越えると、眼下に光る菜澄湖があった。薄の穂が波打つ湖岸を通り過ぎ、渡し場に出る。

 船頭が桟橋に腰掛けて、退屈そうに煙管を吸っていた。

「やってくれるか」

 鞘音と若葉は、向村と城下町を頻繁に往復する。さすがに船頭とはそれなりに気安い関係であった。

 船頭は煙管を叩いて灰を落とした。

「あと二、三人は乗せたいんですがね」

「村を通ってきたが、誰も来る様子はないぞ」

 船頭はやれやれといった態で腰を上げた。

「乗っておくんなさい」

 二人が乗り込むと、葦を押しのけるように舟が動き出した。湖水からは川骨や菱の葉も顔を出している。若葉が手を伸ばして葉をつついた。

 帆が上がり、舟は湖面を静かに波立てて進んでいく。この渡し舟のほかにも、湖には大小の帆掛け舟の姿があった。鯉や鮒を捕っているのだろう。朝の陽を受ける水面には、鴨の群れも泳いでいる。若葉に鴨鍋でも食わせてやりたいものだと、鞘音は思った。

 舟は湖を横断し、菜澄川に入った。菜澄川は菜澄湖に流れ込む川で、御城の外堀を兼ねている。天守閣を左に見て回り込む。城も城下町も、馬の胴体のように細長い台地の上にある。天守閣を頭として、城下町は背中にあたる。鞘音たちは尻尾の位置から上陸した。

 鞘音と若葉は坂をのぼり、馬の背骨にあたる通りに出た。菜澄城下を貫く大通りである。

 間口の狭い店が軒を連ねる中を、鞘音と若葉はひたすら歩いた。

「しんどくなったら、すぐに言いなさい」

 村に比べると、やはり街の空気は埃っぽい。風が吹けば土埃が舞いあがる。亡き兄夫婦は、哮喘(喘息)持ちの若葉のために、城下から空気の良い向村に移住したのである。

「わかっております。お気遣いは無用です」

 うるさがられてしまったようだ。表情にこそ出さないが、口調にかすかな苛立ちを感じる。こうして観察されることも、おそらく煩わしいのだろう。

 若い娘の一群が対面から歩いてきた。広い道なので、譲り合う必要もなくすれ違う。そのとき、鞘音の耳に奇妙な言葉が飛び込んできた。

「サヤネに斬られた」

 ──なんと?

 鞘音は思わず立ち止まった。若葉も無言で娘たちを振り返っている。

 サヤネ。鞘音。同名の何者かがいるのだろうか。いささか気取った名乗りだが、これまで同名の人物に会ったことは一度もない。ひとつ言えるのは、この菜澄で人を斬ったことなど一度もないということである。

 気がつくと、若葉が真面目な顔で鞘音を見上げていた。

「……私のことではない」

「若葉もそう思います」

 二人は再び歩き出した。



 大通りの店の間口がことごとく狭いのは、菜澄では間口の広さによって運上(税金)が課されているためである。そのかわり奥行きの長い店が多く、見本のような鰻の寝床が道沿いに連なっている。

 二人は一軒の店に向かった。「よろすかみ」と大書された看板が二人を迎える。「萬紙」。紙問屋である。屋号は我孫子屋であった。

「御免」

 雛芥子の家紋を染めた暖簾をくぐると、紙の匂いが鼻をつく。今日は湿気を吸っているようだ。上がり框に腰掛けると、天井まで積まれた紙の束が奥に見えた。

「やあ、源吾……いや失礼、鞘音どの」

 初老の男が気安く声をかけてきた。我孫子屋の当主、五代目壮右衛門である。源吾というのは鞘音の昔の名乗りである。子供の頃から鞘音を知っている人であった。

「あら、鞘音さま」

 こちらは壮右衛門の後妻の梅。後妻といっても、鞘音が物心ついたときには我孫子屋のおかみさんだったので、もう三十年近く連れ添っているはずである。宗月と弟の壮介は亡き前妻の子なので、お梅とは血がつながっていない。商家のおかみさんらしく、おおらかで気っ風のよい人であった。

 番頭の与三が茶を出してくれた。菓子まで付けてくれたのは、若葉のためであろう。若葉の父、鞘音にとっては兄の信右衛門の代から、この店とは付き合いがある。両親を亡くしたばかりの子に、この問屋の人々は優しかった。

「若旦那様をお呼びしましょう」

「いや、いい。奴に会うと話が長くなる」

 淡々と拒絶したが、店の奥から声が飛んできた。

「おいおいゲンさん、そいつはつれねえぜ。俺の顔も見ねえで帰るつもりだったのかい?」

 粋な着流し姿の男が姿を現した。我孫子屋の若旦那、壮介だった。鞘音と同い年で、かつては同じ剣術道場で修行したこともある幼馴染である。

「よう若葉ちゃん、会うたびに別品になるねえ」

「人の娘を物みたいに言うな」

「江戸では美人のことを別品て言うんだよ。ゲンさん、あちこち武者修行してた割には世事に疎いな」

「余計なお世話だ。それに、ゲンさんなどと気安く呼ぶな。今は望月鞘音と名乗っておる」

「そんな格好つけた名前、体がかゆくならねえか? 源吾って昔の名前のほうが似合ってると思うぜ?」

 壮介はどっかと上がり框に腰を下ろした。

「若葉ちゃん、奥で色紙を見せてもらいなよ。珍しいのが入ったんだ」

「はい、かたじけのうござります」

 大人同士の話の邪魔になると察したのか、若葉は素直に座を外した。

「さてゲンさん、いつものやつかな?」

「うむ、このとおりだ」

 鞘音は行李を叩いた。

「それじゃ、検めさせてもらうよ」

 鞘音は行李の蓋を開けた。中にはくすんだ色の紙が積まれている。古紙を漉き返した、浅草紙と呼ばれるものである。我孫子屋では新しく漉いた紙だけでなく、このような古紙も取り扱っていた。

「うん、悪くねえな」

 壮介は紙を大づかみにし、膝の上で端を整えた。慣れた手つきで紙の束を流しめくり、数枚を拾いだして光に透かしてみる。ごみの混入具合を確かめているのである。

「ほとんどごみが入ってねえや。丁寧な仕事するねえ」

「ごみ取りは若葉も手伝うておる」

 古紙を釜で煮て溶かし、水槽にあけて冷ます。それからは、若葉と二人でひたすら地道なごみ取りである。その間に若葉と話でもできればよいのだが、二人ともごみ取りに夢中になってしまい、作業中はほとんど無言であった。

「ゲンさんは紙漉きを始めてまだ一年だよな。これだけ漉ければ立派なもんだよ」

 紙漉きの道具は、我孫子屋から借りている。問屋は道具を職人に貸し出し、職人は漉いた紙を問屋に納める。そういう仕組みであった。

「兄上には及ばぬが」

「信右衛門さんも良い腕だった。浅草紙ばっかりじゃなくて、そろそろ楮を漉いてみないかって言ってたところだったんだ」

 楮は上質の紙の原料である。

「兄は断ったのか」

「ああ、紙漉きは武士の本分ではないからってな」

 鞘音は兄の心情を思った。武士たる身で、職人の手業を讃えられることに忸怩たるものがあったのだろう。兄は城下から農村に移り住んでも、武士たる矜持を保ち、剣術の鍛錬を怠らなかったという。

「ゲンさんはどうだい。浅草紙で小遣い稼ぎするより、よっぽどまとまった稼ぎになるぜ?」

「うむ、やろう」

「え、やんの?」

 自分から誘っておいて驚いている。鞘音があっさり即答したのが意外だったようだ。

「面白そうではないか」

 鞘音としては、特にこだわりはなかった。手先の器用さにはひそかに自信があり、それはむしろ、武士としても誇ってよいことではないかと思っている。かの宮本武蔵は剣のみならず画業にも秀でていたというが、畏れ多くも、どこか通じるものがあるようにすら感じていた。

「それじゃ、ゲンさんにも楮の根を分けるから、育ててみなよ」

 楮は根挿しで殖やすのだそうである。壮介が言うには、望月家のある小高い丘は楮を育てるのに適しているはずだという。

「南の斜面に根を挿しておけば、勝手に育つよ」

「紙を作れるほど育つまでに、どれほどかかる?」

「三年だな」

「長いな」

「今年の楮が穫れたら、紙の里から幹を何本か譲ってもらうよ。それでやり方を覚えたらいい。もちろん、上手くできたら買い取るぜ」

 鞘音としては、ありがたい提案であった。紙の里とは、菜澄の南部の丘陵地帯にある、紙漉きが盛んな集落である。

「よかろう、やってみせようではないか」

「手間はかかるし、冬場の水仕事だから、楽じゃねえぜ?」

「望むところよ」

 壮介は嬉しそうに笑った。

「ゲンさんのそういうところ、嫌いじゃねえよ。同じ兄弟でも、信右衛門さんとはちょっと違うよな。信右衛門さんはいかにも武士って感じの人だったが」

「私が武士らしくないような言い方をするな」

 そこで鞘音はふと思い出した。兄弟云々の話が出たせいであろう。

「来る途中、宗月方丈に会うたぞ」

 壮介の両親に聞こえないよう、一応声はひそめた。

「そうか」

 笑っていた顔が、途端に冷淡になった。元気だったか、とも聞かない。昔は仲の良い兄弟だったはずだが、宗月が出家するとき、家族の間で大喧嘩があったそうである。宗月は我孫子屋を勘当となり、両者の関係はまだ修復されていないようだった。

「それじゃ、浅草紙はたしかに受け取ったよ。報酬はいつもどおり、後で与三さんから受け取ってくれ」

 壮介はいつも番頭を通じて報酬を渡す。鞘音としても、旧友の手から内職の報酬を直接受け取ることには、いささか抵抗があった。つまらない意地とわかってはいるが、壮介もそんな鞘音の心情を 慮 ってくれているようであった。

「お志津」壮介は奉公人を呼んだ。「ゲンさんの紙を向こうに持っていってくれ」

 お志津と呼ばれた女は、二十五歳ほどであろう。もう十年も我孫子屋に奉公しているという。きびきびとよく働く、愛嬌のある女であった。

「あら、浅草紙にしてはずいぶん綺麗ですね」

「へへへ、そうだろ?」

「べつに若旦那をほめたわけじゃありませんよ」

「わかってるよ、そんなこと」

「じゃあ何で若旦那がえらそうにしてるんですか」

「してねえだろ、うるせえな」

 やはり長年奉公しているだけあって、お志津は壮介とずいぶん息が合うようだった。鞘音の目には、何年も連れ添った夫婦のように見えることもある。壮介はいまだ独り身なので、いっそ本当に嫁にすればよかろうにと思うのだが、そうもいかないのだろうか。我孫子屋のような大店では、跡継ぎの結婚にはいろいろと思惑が絡むのかもしれない。当主の壮右衛門は息子をどうするつもりなのだろう。余計なお世話と思いつつ、店でどこか浮いているような幼馴染の身の上を、鞘音は案じてしまうのだった。

「さて、もうひとつのほうも持ってきてくれたのかい?」

「うむ、むろんだ」

 鞘音はもうひとつの行李を開けた。その中にびっしりと詰め込まれているのは、長方形の紙包みである。ひとつひとつの大きさと厚みは、ちょうど大人の掌ほど。この包みは浅草紙ではなく、楮の無垢な紙だった。

「そう、これだ。サヤネ紙」

 それは鞘音が追い剥ぎに襲われて腕を負傷したとき、治療の過程で「発明」したものであった。

 医者に縫ってもらった傷には晒布を巻いていたが、すぐに血で汚れてしまう。旅の道中で洗って取り替えるのは大変なので、重ねた懐紙をあててから晒布を巻いてみることにした。しかし、懐紙もすぐに汚れる上、着け心地も悪かった。菜澄に帰るまでの間に試行錯誤を重ね、できあがったのが、このサヤネ紙であった。

 作り方はいたって単純である。


一、紙を数枚よく揉みほぐし、綿のように柔らかくする。

二、柔らかくした紙のかたまりを清潔な紙で包む。

三、長方形の型に入れて押しつぶす。

四、適当に糊づけして形を整える。


 以上である。

 これを傷口にあてると着け心地が非常に柔らかく、血もよく吸う。出血が多いときでもほとんど晒布を汚すことはない。うっかりぶつけても衝撃を和らげてくれるので、傷も痛まない。あらゆる点で優れものだった。

「剣鬼・望月鞘音の命を救ったサヤネ紙だ。ご利益がありそうな気がするよな」

 そう、こんなものが売り物として成り立ったのは、ひとえに鞘音の剣名の賜物である。恥ずかしながら、不肖・望月鞘音は、この菜澄で「剣鬼」の異名を取っている。鞘音自身も帰郷するまで知らなかったが、壮介が言うには、二年ほど前からその異名を聞くようになったという。ちょうど菜澄で領地替えがあり、新たに高山家が領主となった時期であった。

 ともかく、その「剣鬼」が発明し愛用している医療品という点に目をつけて、壮介はこの品物の販売を買って出たのである。要は、単なる実用品に縁起物という価値を付けて売っているのだった。

 ちなみに、「商品化」にあたって鞘音は多少の工夫を加えた。

 まず、中身の紙は材料費を抑えるために浅草紙を使う。むろん清潔が第一なので、道端で拾ってきたような紙を漉き返すわけにはいかない。壮介に頼み、寺子屋や私塾で手習いに使われた身元の明らかな紙だけを回してもらった。それをさらに灰汁で煮て、毒消しをしてから漉き返している。ついでに、家の裏山に自生している牛額草を黒焼きにして、粉末にして混ぜた。牛額草の黒焼きは打ち身や切り傷に効くと、かつて多摩の薬売りに教わった。

「そちらも持っていきましょうか?」

 戻ってきたお志津が尋ねる。

「いや、これはいい。こいつのことで、これからゲンさんに話があるんだ」

「ああ、先生の御用ですか」

「なんだお前、知ってんのか」

「私は先生のところへよくお使いに行きますからね。あらかた聞いてますよ」

「そうか、なら席を外してくれ。こいつは男同士の話だ」

「女の話なのに?」

「馬鹿、余計なこと言うな。いいから向こうへ行ってろ」

 やれやれといった様子で、お志津は自分の仕事に戻っていった。

「壮介、女の話とはどういうことだ?」

「それは後で話す。ものには順序ってもんがある」

 壮介はサヤネ紙を鞘音の目の前に突きつけた。

「じつはふた月ほど前から、サヤネ紙をまとめて買ってくれてる人がいる」

「ほう、誰だ?」

「城下で開業してる医者だ」

「なるほど、医者か」

 傷の治療に使うものである。本職の医者が買い求めるほどのものを作れたと思うと、何やら誇らしい。

「その医者はもう、サヤネ紙をべた褒めよ。いくつあっても足りないってさ」

「ほほう」鞘音は驚いた。「そこまで褒められると、いささか面映ゆい」

「そうだろ。俺も誇らしいよ」

「しかし、御城下にはそれほどに怪我人が多いものか」

「そ、そうだな、みんなそそっかしいんだろうな」

 壮介の笑いは乾いている。

「その医者は何という方だ?」

「この近所で開業してる、佐倉虎峰先生だ」

 鞘音の記憶が刺激された。

「佐倉虎峰。何やら覚えがある名だな」

「ゲンさんが覚えてるのは、俺たちがガキの頃によく怒られてたジジイだろ?」

「そうだそうだ。ずいぶんよい歳になっておられるはずだな」

 自分たちが子供の頃、すでに初老と言ってよさそうな年齢に見えた。妻は歳の離れた若い女で、子供もいたはずである。まだ生きておられたのか、というのが正直な感想だった。

「まあ、虎峰先生のことも後で話すとしてだ……」

 また後回しである。壮介なりに段取りがあるようだ。

「話ってのは、サヤネ紙を手直ししてもらいてえんだ」

「手直し? どう手直しせよというのだ?」

 壮介は、なぜか鞘音から視線を外した。

「虎峰先生が言うには、サヤネ紙は怪我人にだけ使うものじゃねえ。もっと大勢の人にとって役に立つものらしいんだな」

 怪我の治療以外に使い道があるということか。しかも、大勢の人にとって。

「雑巾にも使えると前に申しておったな。そのことか?」

「違うよ。それなら医者がわざわざ言いに来ねえだろ」

 それもそうだ。

「では、怪我ではない何らかの不調に悩んでいる者が大勢いて、そのためにサヤネ紙が役に立つということだな?」

「そうそう、そういうこと」

 壮介がさかんに頷いている。

「それはじつに良きことではないか。何をもったいぶっておるのか知らぬが、そういうことならば喜んで手直しいたすぞ」

「やってくれるのか?」

「手直しすれば、佐倉虎峰先生は今後もまとめて買ってくださるのであろう?」

 鞘音と若葉、二人の暮らし向きは決して楽ではない。内職の得意先ができるなら、じつにありがたい話であった。

「さすがゲンさん、話がわかる」

「まあ、どう手直しするか考えるのも面白そうだからのう」

 物作りを好む、鞘音の生来の気質が出た。

「よし、武士に二言はねえな?」

 瞬間、鞘音の脳裏に不審の念がよぎった。幼馴染の勘であろう。この男、まだすべてを話していない。なぜ急いで約束を取り付けようとするのか。

「壮介、おぬし何か大事なことを隠しておらぬか?」

 壮介は腕を組み、天井を見上げた。鞘音にはわかる。目が泳ぐのを悟らせまいとしているのだ。

「やはり、何か隠しておるな?」

「いや、隠すつもりはねえんだ。ただ、どう話したもんかと……」

「そういえば先刻、女の話だと申しておったな。あれはどういう意味だ」

 ふと、鞘音は視線を感じた。若い二人連れの女の客である。サヤネ紙を手に会話する鞘音と壮介に、不審な目を注いでいる。

「……?」

 何か穢らわしいものを見るような目であった。なぜだろう。身だしなみは清潔に整えているつもりだが。

「あれって、あれだよね……」

 店を出ていく女たちの会話が耳に届いた。あれとはなんだ。

「壮介、これを何か妙なことに使わせてはおるまいな?」

 鞘音はサヤネ紙を手に詰め寄った。

 壮介はやはり目を合わせようとしない。

 そこへ今度は、我孫子屋の馴染客らしい中年の女がやってきた。こちらは無遠慮に、行李の中を顔ごと突っ込むようにのぞきこんできた。

「若旦那、これはサヤネ紙といいましたかね?」

「ああ、そうだよ」

 女はサヤネ紙から目を離さない。

「本当に、虎峰先生のところでもらう月役紙にそっくりだねえ」

 感慨深げに言い残し、女は買い物に戻っていった。

 壮介は咳払いした。

「ゲンさん、世の中には」

「今のはなんだ」

 鞘音は静かに壮介の話を遮った。

「あの女、月役紙と言ったな。月役とは、女の……月の穢れのことではないのか」

 月経である。直接口にするのを憚って、月の穢れ、月の障り、月のものなど、婉曲的に呼ばれることが多い。

「ゲンさん、落ち着け」

「落ち着いておる」

「目が怖いよ」

「怒らぬから正直に申せ。おぬし、サヤネ紙を女の下の用に使わせておるのか」

 壮介は観念したように、サヤネ紙の行李を叩いた。

「そう、そのとおりだ。サヤネ紙は女の下の用を足すのにちょうどいいらしい。血をよく吸うから──」

 壮介はその先を言えなかった。鞘音が立ち上がり、壮介の襟首を締め上げたのである。

「おぬし、武士の名を何と心得ておる……!」

 鞘音の突然の振舞いに、店内が騒然とする。

「私が作ったものだ。私の名を付けたものだ。それを穢らわしき用に使わせるとは、いかなる了見か!」

 奥で色紙を見ていた若葉が、驚いて飛んできた。

「ゲンゴジさま、いえ、ととさま。お怒りを鎮めてください」

 若葉は養女になるまで、鞘音を「ゲンゴジさま」と呼んでいた。幼い頃に「源吾叔父さま」を上手く発音できず、大きくなってもそのまま呼び続けていたのである。

「若葉、これは武士の面目にかかわることなのだ。口を出すな」

 番頭の与三も、お志津も、他の奉公人たちも、おろおろするばかりである。

「落ち着いてくれ、ゲンさん。サヤネ紙をそんなことに使えるなんて、俺も知らなかったんだよ。虎峰先生が教えてくれたんだ」

「佐倉虎峰か。あの御老体め、どうしてくれようか」

「どうするも何も、御老体の虎峰先生はとっくに亡くなってるよ」

「ふざけるな。虎峰先生に教わったと今言うたではないか」

 鞘音が壮介の襟をさらにきつく締め上げたとき、鞘音の後ろ襟にしなやかな手が添えられた。女の手だ。

 若葉の手ではない。若葉は離れたところで両手を握りしめている。では、誰だ?

 振り返って手の主を確かめようとしたとき、膝の力が抜け、鞘音の視界に我孫子屋の天井が広がった。

「──なに?」

 自分が転ばされたと気付くまでに、しばしの間が必要だった。

「ととさま!」

 若葉が駆け寄ってくる。

「だ、大事ない」

 何をされたのか、わからなかった。何やら体術でひっくり返されたようだが。

 天井を見上げる鞘音を、人影が見下ろしてきた。白い上衣に紺袴で、頭は総髪に結っている。医者の風体だ。

「どなたかは存じませんが、二本差しの御身で町人をいじめるのは感心しませんね」

 女の声だった。

「虎峰先生!」

 壮介が助かったというような声を出す。

 鞘音は起き上がった。

「虎峰だと──?」

 医者の風体の女が胸をそらした。

「新町で医者をしている佐倉虎峰と申します」

 涼やかな風情の、三十路ほどの女医がそこにいた。

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