第2話

第一章 サヤネに斬られる



 竹林は黄金色の朝靄の中にあった。

 そこへ静かに立つ、総髪の侍一匹。

 半眼で腰を沈め、刀の柄に手を掛けている。その身が竹そのものになったかのように、微動だにしない。

 不意に静寂を破ったのは、飛来した一羽の雀。竹の枝にとまり、楽しげに鳴き出した。

 侍は鞘から刀を抜き放った。黄金色の鋭利な光が、袈裟懸けに朝靄を切り裂く。

 侍は刀を逆手で鞘に納めた。

 雀はまだ鳴いている。

 竹が斜めにずれ、瑞々しい切り口を見せた。斬られたことにようやく気づいたかのように、竹は倒れはじめた。雀が驚いて飛び立つ。

 竹が地面に倒れるまで、侍は微動だにしない──つもりであった。だが、竹が地面を打つ音がいつまでも聞こえない。やむなく半眼を解くと、斬った竹はとなりの竹にしなだれかかり、中途半端に揺れていた。

 斬った竹を手で押してみる。倒れない。叩く。揺らす。それでも倒れない。

 放っておこうか。否、もしも娘がここを通ったときに倒れてきたら何としよう。

 数歩下がる。助走を始めたところで、不意に声をかけられた。

「ととさま」

 危うく脚がもつれるところを、すんでのところでこらえた。

「若葉、急に声を掛けるな」

「申し訳ござりませぬ。朝餉の支度ができましたゆえ、お呼びしに参りました」

 娘の若葉である。数えで十三歳。顔つきはまだ幼いが、武士の娘らしく、言葉遣いも所作も折り目正しい。落葉を踏む足音すら静かで、近づく気配を感じさせなかった。

「すぐに参る」

 侍は威儀を正して若葉のもとに向かった。

「……ととさま!」

 若葉が突然声をあげた。その目は父の頭上を見ている。

 侍は落ち着いていた。

「さがれ、若葉!」

 腰を落とし、柄に手をかける。気配を読み、呼吸を整え、振り向きざまに抜刀する。

「ほうっ……!」

 鋭い気合。抜刀の勢いそのままに、頭上を薙ぎ払う。

 両断された竹が地面を打ち、跳ね上がる。竹はしばし暴れた後、横たわった。

 ふう、と一息つくと、侍は血振りをして刀身のわずかな露を払った。風が竹林を静かに渡っていく。

 奇妙な音が鳴っていた。梵鐘の残響のような、微かな音。鞘から小さな振動が伝わってくる。三味線の弦を弾くと、棹が震える。同じように鞘が震えているのだ。侍が刀を納めると、鞘の鳴りはぴたりとおさまった。

 鞘音。

 抜刀の勢いの凄まじさに、鞘が鳴る。その音の美しさにちなみ、彼は師匠からその名を賜っていた。

「若葉、さがれと言ったではないか」

 望月鞘音は娘を叱った。

「申し訳ござりませぬ。横に避けたほうが早いと思いましたゆえ」

 若葉は冷静に、身を守るための最短の方法をとっていた。私よりよほど落ち着いているな、と鞘音は苦笑する。とりあえず、竹に飛び蹴りを入れる姿を見られなくてよかった。三十路の男が見られるには、いささかみっともない姿であろう。

「さて、帰るか」

「はい、ととさま」

 このように呼ばれているが、二人は去年まで叔父と姪であった。鞘音の兄夫婦が流行り病で不意に身罷ったため、遺された若葉を鞘音が養女にしたのである。

 鞘音は薪を満載した背負子を担ぎ上げた。勢いよく担ぎすぎて、薪が何本かこぼれ落ちる。

 若葉が無言でそれを拾った。拾って胸に抱えたまま、どうしたものかと迷っている様子である。

「ほれ」

 鞘音は若葉に背負子を向けた。若葉はややためらってから、拾った薪を背負子に差し込んだ。

 ──まだ遠慮しておるのだな。

 表情に乏しい若葉の顔を見て、鞘音は思う。幼い頃から、妙に落ち着きのある娘ではあった。それが両親を喪って以来、さらに口数が少なくなってしまった。

 女は愛嬌というから、これでは婿探しにも難渋するやもしれぬ。

 そこまで考えて、鞘音は内心で苦笑した。いささか気が早い。まだ数えで十三歳。早くてもあと二、三年は先のことだ。

 鞘音は後からついてくる若葉を見やった。若葉は一本だけ手に残した柴の小枝で、戯れに草を薙いでいる。子供っぽい仕草に、鞘音はどこか安堵した。

 そう、若葉はまだまだ子供のはずであった。



 菜澄は豊穣な田園地帯である。

 遠い昔、千葉氏が支配した頃の下総の地には、広大な香取海が葉脈のように入り組んで横たわっていた。その南の一角にあったのが「なづみ(泥み)浦」である。一帯には湿地が広がっていたという。

 およそ二百年前、利根川の東遷事業に伴って周辺が干拓整備され、なづみ浦は淡水の菜澄湖に生まれ変わった。「なづみ」が「なすみ」と改称されたのは、濁りを嫌ったためだという。菜の字が当てられたのは、菜種油の産地だからである。春には菜の花、秋には稲穂と、菜澄の野は年に二度、黄金色に染まる。

 菜澄が擁する利根川には北国からの船が、成田街道には成田山への参詣客が行き交う。江戸からの道のりは、わずかに一日半。菜澄は交通の要衝でもあった。

 鞘音と若葉は一汁一菜の朝餉をいただくと、出かける支度をした。

 二人は小高い丘の上に一軒だけ建つ粗末な家に二人暮らしである。庭からは麓の村と田畑、土手の向こうにきらめく菜澄湖が見渡せた。湖の対岸は台地になっており、その頂には菜澄城天守閣が威容を見せている。二人の住む村は、湖越しに御城と向き合っているためであろうが、向村という簡単な名前で呼ばれていた。

 二人はこれから、菜澄の城下町に出かける。

 鞘音は大きな行李を背負った。若葉は鞘音がつくった小さな行李を背負う。

 外に出ると、鞘音は伸びをした。

「良い天気だのう」

 若葉の気分を引き立てるために、あえて明るい声を出す。

「はい」と若葉は短く返事をした。その視線が鞘音の右腕に注がれている。伸びをしたときに袖がずり下がったのだ。

 鞘音の右腕には、三寸にも渡る傷痕があった。ちょうど籠手の位置である。昨年、若葉の両親が亡くなったという知らせを受けて西国から帰る途次、箱根峠で追い剥ぎに襲われた際の傷だった。五人の敵のうち三人に手傷を負わせ、ようやく囲みを切り抜けたとき、はじめて自分も負傷していることに気付いた。思いのほか深手で、菜澄に帰ったときもまだ右腕を吊った状態であった。

「この傷が気になるか?」

「いいえ、失礼いたしました」

「ほれ、ちいとも痛まぬぞ」

 鞘音は腕を振ってみせた。若干ひきつるような感覚はあったが、剣を振るうのに支障はない。

「ようござりました」

 若葉は少し笑顔を見せた。

 村の集落を通る。年貢を無事に納め、一息つく時節である。しばらく村人は農閑期の副業で日々を暮らす。江戸へ出稼ぎに行く者もいるであろう。村人の多くは屋内で仕事をしているのか、人の気配が濃いわりに、表に出ている者は少なかった。

 鞘音は安堵した。嫌い合っているわけではないが、村人とは疎遠であった。丘の上の武士の夫婦が死んで、今度は得体の知れない侍が住み着いた。そう訝しく思われているに違いない。城仕えしていない郷士の身を恥じてはいないつもりだが、多少卑屈にはなっているのかもしれない。

 若葉と同じ年頃の娘たちが、遠巻きに見ている。若葉は視線を落として通り過ぎた。

 ずっとこのままというわけにもいくまいが──村人とのつきあいがうまくいっていないことは、鞘音のちょっとした悩みであった。

 集落の出口のあたりに、大柄な托鉢僧がいた。和讃を唱えている。


 帰命頂礼血盆経 女人の悪業深きゆえ 御説き給う慈悲の海 渡る苦海の有様は 月に七日の月水と 産するときの大悪血 神や仏を穢すゆえ おのずと罰を受くるなり


「血盆経」という経典を和語(日本語)で讃える歌だった。女人を救済する教えとしか、鞘音は知らない。菜澄には清泉寺という血盆経の聖地があり、亡き母も帰依していた覚えがある。

 托鉢僧は鞘音と若葉を見ると和讃を止めた。

「やあ、鞘音どの、若葉どの。御城下に行かれるのか」

 声が大きい。僧名を宗月といい、清泉寺で修行した僧である。この村には清泉寺の末寺があり、その方丈(住職)として、一昨年に村に移り住んだ。鞘音たちにとって、数少ないこの村の知人である。

「さよう、御城下に参ります」

「壮介のところか」

 城下に住む、紙問屋の若旦那である。宗月の弟であった。

「そのとおりにござる」

「あやつはよくやっているかね」

 僧侶にしては言葉遣いが俗っぽい。その気取りのなさも含めて、菜澄では敬愛されているらしい。いずれは清泉寺の住職になるだろうという評判であった。

「まあ、よくやっているものと存じます」

 宗月の弟・壮介は、鞘音の幼馴染である。どちらかといえば放蕩息子と噂されている。嫁も取らず、しょっちゅう利根川をさかのぼっては江戸で吉原通いをしていると、まことしやかに囁かれていた。

「それは結構」

 と言いつつ、宗月はあまり信じていない様子である。

「若葉どの、叔父上と一緒に御城下に行けて、よかったのう」

「叔父ではなく、今は義父にござります」

「ああ、そうであったな。これは失礼。ぐわっはっは」

 若葉の表情が和らいでいる。若葉にとって宗月方丈は、この村で唯一とも言える心を開ける相手であった。両親が亡くなったときも、何かと心強かったようである。

 宗月は合掌し、ふたたび血盆経和讃を唱えはじめた。俗世での縁は切ったということなのか、弟によろしくとも言わない。これまでもずっとそうであった。出家する際、実家と色々あったとも鞘音は聞いていた。


又その悪血が地に触れて 積り積りて池となる 深さは四万余旬なり 広さも四万余旬なり 八万余旬の血の池は みずから作りし地獄ゆえ ひとたび女人と生まれては 貴賤上下の隔てなく 皆この地獄に堕つるなり……

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