鏡の世界で逢いましょう

菜乃ひめ可

森の洋館にまつわる“噂”


 君はいつ見ても美しく、気高い。

 しかしその控えめな微笑みは、うれいを帯びとても哀しそうだ。

 でもね、そこに惹かれるんだよ。


「貴方、私にそう言ってくれたじゃない……」


――それなのに!


 屋敷中央ホールは、たくさんの人々が集まり舞踏会を楽しんでいた。そんなある日、想いを告げた相手と結ばれなかった彼女は、ホールにある大きな鏡の前で――死を選んだ。





 皆様、御機嫌よう。

 私の名前は、真嶋まじまミナホ。


 世の中にぼんやりと漂う噂の数々。

 その真実を世間や依頼者の代わりに追求し、確認する。そんな調査事務所をやっているわ。歴史ある名家に伝わる話や、この世の者ではない幻を見てしまったと怯える真面目な依頼もあれば、中にはただ面白可笑しく電話やメールで茶化してくる人もいたりする。しかしどんな依頼だとしても、その内容が嘘と判りきった情報提供だったとしても。私は全く気にしない。


「だって、そんなのでイライラしたり気を揉んでいたら、“本当の噂”まで見落としちゃうでしょ?」


 そう。

 たとえどんな内容でも、聞けばみずかおもむき、この目で確かめる。

 それが私の仕事よ。


 えっ? 何のためにそんなことをって?


 当然、世のさまざまな噂を解明・解決することで、人の役に立ちたい。そして達成した時の全身から湧き上がる高揚感が、たまらない。


 あとは、う~ん。

 まれに……いや本当に、ごくごくたまーに。

 霊感のない私でも場所によっては不快感や悪寒おかんがしたり、見えないものが見えちゃった時の衝撃や震え(さすがにその瞬間は嫌なんだけど)。


 それもまた、調査屋としての使命!

 成長のかてになる。つまり、この仕事で関わる全ての事柄が『真実と事実』を求める人々の為になり、そして私自身の実績にもなるってわけ。


(ふふん……この指じゃ数えきれないほど、たくさんの経験をしてきたわ)


 その心身を削る日々に比べれば、普段の揶揄からかいメールやイタズラ電話なんて、鼻で笑っちゃうほど可愛いものよ。



「ん?」


 ザワザワザワ~……さわさわ~……。


 ゆっくりと進む車の窓から見えてきた薄暗く深い緑色と、聞こえてきた森のざわめきが、うとうと眠気に襲われかけていた私の目を覚まさせる。


(少し景色が、外の空気が変わったみたい)

「ふあぁ~森も奥まで来たわね。そろそろかしら」


「エッ!? あ、はい……地図では、そうっすね」


「ふふん。久しぶりのこういう案件で、すごく楽しみだわ」


「ぅへ~ミナホさんって本当、変じぃーッんじゃあなくって! えーとえー……」


「なぁに、何か言った? 聞こえないんだけど」


「いーえいえ! 何でもないでーす!! み、道が悪いんでゆっくり走ってますけど、気を付けてくださいね~あっははは」


「ふぅ~ん……まぁいいわ。今日は運転してくれてありがとう」


「いえ! そんなの当たり前っす!! だって僕、弟子なんで!」


(言えない。『ミナホさんってやっぱ変人っすね~』だなんて、思っていても口に出しては……いやいや口が裂けても、言えなーいッ!)


「へぇ、それで弟子ねぇ……まだ仮でしょ?」

「は、そっすよね~。あは、あっははは~」

「何、その変な笑い方」

(まったく、この子は。顔に出過ぎなのよ)


 さっきから引きつった顔で車を運転するこの彼は、私の唯一の弟子であり助手の、石井いしいシンジ。


 歳は、私の二歳下だったかしら。

 それにしても、この調査屋という仕事をどこで聞いて知ったのか?


 ある日、彼はワクワクとした少年のような顔で私の事務所を訪れ、頬を赤らめ興奮気味に弟子になりたいと志願してきた。面倒事は嫌だと最初は断ったが、これがまたしつこくて。一週間もの間、毎日飽きもせず事務所の扉を叩くものだから、私としたことが根負けしちゃって。きっと一人で盛り上がっちゃって、なんとな~く興味本位でやってみたいだけなのだろうなと、渋々採用。ここでビシッと、厳しい現実を見せてあげることにした。


 まぁ、これだけ心労の絶えぬ業務内容だと体験して理解すればすぐにをあげ、どうせ辞めるだろうと期待したからよ。


(この仕事は、そんなに甘くはないんだから)


 そして今日、依頼者から聞いた内容的には危険度上位クラスと思われる噂の真を解明すべく、現場へと向かっていた。シンジは弟子になって初めての外回りだが、いきなりのハード案件なのだ。


「んっふふ」

「ぅへ? ミナホさん。今から怖いとこに行くってのに、何笑ってんすか!?」

「え? あ〜いやぁ、別に」

(この様子だと、早々に辞めてくれそうな感じだわね~)


 もう数ヶ月になるかしら?

 事務所の掃除や電話番、依頼者の対応やお茶くみとその他もろもろ――なんだかんだ言って、らくできていたわ。今もこうして運転手……あ、いや失礼。まぁまぁ出来る助手がいなくなるのは残念だけれど。


(それも、向いてない彼の事を思えば仕方のないことよ)

「優しさ、優しさ……愛情哀情」


「えぇ、ミナホさん。なんか言いました?」

「ふぇッ!? 何でもないわよ! それよりちゃんと前見て、危ないでしょ!!」


 そうよ、せいせいするわ。

 元の静かな調査屋事務所に――私はカッコいい“一匹狼”に戻るだけの話よ。


 ガタガタッ、ゴトん!


 彼の言ったようにそれからしばらくの間、舗装されていないデコボコ道にお尻が痛い。そこをやっと抜けると、幽寂な森の奥を車で走ったところでようやく、例の噂が囁かれている場所へと着いた。


 キィッ――――……バタン、バタン。


「う~ん、っはぁ。無事に着いたわね、良かった良かった」


 ずっと車に乗り同じ体勢をしていたせいで、身体のあちこちが固まって痛い。その筋肉をほぐそうと私は大きく伸びをし、思わず声を発する。


(すっげぇーミナホさん。緊張感ゼロだ)

「えぇ……なんだか、木や草が生い茂って、鬱蒼うっそうとしてますね」


「そうねぇ、とても陰気で……て~、わッ!!!!」


「ぎィーゃあああーッ!!」


「あーっはははは! シンジ、あなたビックリし過ぎよ」


「はぁはぁ……ちょ、それないっすよーミナホさん! 本当やめて下さいよもぉーあぁ~心臓が止まるかと思った。いや、止まってる! 入る前からこれじゃ、やばいじゃないっすかーあぁぁぁ」


「ぷぷぷッ」


 面白い。

 揶揄うのが楽しくてしょうがない。


 しかし実は、この私が外の空気に少々不快感を抱いていたのよね。



――いつもは感じない妙な胸騒ぎを、ね。



 だからと言ってこれまで、霊感だのなんだのを明確に感じたことはほぼ無い。今も「気にしない気にしない」と頭を振って気を取り直し、いつもの余裕な表情に戻した私は、シンジを驚かして遊んでいたってわけで。


「まぁ、ここからは地図にもないし、徒歩ね。さっ、行くわよ」

「ぁぃ……」


 車を降りて数分、歩いていた私たちは狙いが良かったのか、案外すぐに目的の洋館へと辿り着くことができた。



「着いた」

「……ミナホさん」

「何? ぅ゛」


 シンジの顔は、すでに顔面蒼白に近い。

 そもそもコイツ、気は小さいし怖がりだしで、そのくせ噂話には目を輝かせるくらい興味を持っていて。もしかしたら私よりも全国津々浦々の噂を知り尽くしているかもしれないと、日々呆れるほどの情報収集能力がある。


(その部分だけは認めている……シンジの長所かしら)


 しかし今回のような怪しい現場は、話を聞くのは良いがやっぱり行きたくないと出発前に駄々をこね、生意気にも色々とわがままを言ってきた。


(そゆとこ、まるで子供みたいな性格なのよねぇ)


「僕、分かるんす。此処ヤバいですって。本当に入るんすか?」


「当たり前でしょ?! そのために、はるばるこんな遠くまで来たんじゃないの。それにこれが私たちの、し・ご・とッ! 解ってる?」


「はぁ……ハイ……(まじかぁ)」


 まったく嫌だったら、どうして今日ついてきたのかしら?

 そもそもこの仕事をしたいと、一体なぜ言ってきたのかと、はなはだ疑問だわ。


 そう私は、ふか~い溜息をつく。


「はぁ~……もう、それはそうと! のんびりしてられないのよ。管理会社さんの許可は今日一日取ってあるけど、陽が沈む前には森を出ないと。ほ~ら、鍵ッ!」



 チャリッ――――!



「ぅほぉあー、あわわわっとぉーッと!!」

「落とさないでよ~」

「う゛ぅぅぅてか、マジ急に投げるとか無しっす」


 此処は人里離れた森の奥、さすがに夜は危ない。


「ハイハイ、ごめん。ほら早く」

「ぁ、あー開けます……開けます、よ?」


 ガチャカチャッ、ガ……チャリ!


(よしっ! スムーズに開いたわ)


 ギギギィーギュリ――――きぃ~。


「失礼しまーす、って、ぅぅ……こんな薄暗くて埃臭くて湿っぽいとこ」

「ねぇ~腕が鳴るわぁ、ふふん♪ いざ調査へ、レッツゴー!」

「ぉ、おおー(ホント、変人だぁーミナホさんって)」


 ちょうど太陽が真上に来る頃。気のない返事で棒読みなシンジと私は、いよいよ屋敷の中へと足を踏み入れ進み始めた。



 ぎぃぃぃ~…………ガチャ、ン。




――さて、今回の依頼について。

 少しだけ説明しておこうかしら。


 その“噂話”について。



『○○森の奥深くにある洋館では昔、大富豪たちがよく舞踏会を開き楽しんでいた。会員制ということもあり、お忍びも多く、知る人ぞ知る場所。しかし、ある晩――若い女性がずっと想いを寄せていた人に気持ちを告げたが、その男性にはお相手がいると知り、失恋。いつも優しく甘い言葉をかけられていたことで、自分は好かれていると思っていたという言い分で悔しさに発狂した彼女は、屋敷中央にある大きな鏡の前で命を落としたのだという。それからというもの、その鏡に映る姿がなぜか違う動きを見せたり、一緒に鏡の前で並んだ男女は別れてしまったりと、奇妙な出来事が多発。その後、大きな事故も起こったため事件から数年後、誰も寄り付かない静かな館となった』



 最近インターネットでも密かに囁かれているこの童話のような話。その噂となっている場所が今回調査するここ、広い敷地面積を誇る立派な洋館である。噂好きの中でも特に怖い系好きな一部のネットユーザーたちからは、注目を集めている。しかしまぁ残念なことに、ネット上に書かれる情報は、やはり信憑性に欠けるお遊び程度だということ。


「地図で近くまでは行っても洋館を見つけられない」とか。

「扉が抑えられていて開かない、怖くなり帰った」とか。

「中から音楽が聞こえてきて、恐怖で慌てて逃げた」などなど。


(まぁ、嘘でしょ。よくある賑わせ話って感じね)


 だって、よく考えてみて。

 鍵が開いてないのは当然でしょ? 現実的にその場所や建物を管理している人がいるのが普通だから、私みたいに調べてから先に管理会社(または個人)の許可を取るのは必須よね。もし鍵が開いていたとしても勝手に入ればそれは不法侵入!


 絶対にダメデス。


 あぁ、話がれちゃったけれど。今回なぜその洋館について調査することになったのかというと、ちょっと興味をそそられる噂の情報を入手してね。


 その内容とは――『屋敷中央にある大きな鏡の前に自分の姿を映し、口紅をつける。その唇に手を触れてついた口紅を鏡に映る自分にもつけるように触ると、その瞬間に鏡の世界にいる自分と通じることができる』という。


 童話の次は、SFファンタジーみたいでしょ!?

 っと、失礼。


 そもそも『鏡の世界の自分と通じる』って何? この噂、とても気になるわねぇと、小さな好奇心から調べてみようかと思っていた矢先。タイミングよくある人物からその洋館への調査依頼がきた。


 しかしそれがなんと、同業者の人!


 始めは気分悪く、私って試されてるのかしら? もしくは冷やかし? と思ったんだけれど、その依頼者が話す電話の声は恐怖に怯えたような、かなり切迫しているご様子で。仕方なくその詳細を、とりあえずいつもの隠れ家喫茶店で待ち合わせて聞くことにしたの。


 電話から数日後、約束の時間ぴったりにやってきたその人物(男性)の顔を見てハッと、驚いたものよ。

 疲弊していてとても顔色の悪いその人は、力ない声で「一緒に調査屋をしている相棒と、ある日依頼でその洋館へ行った。だが帰って来てからというもの、まるで別人のように性格が変わった。何かがおかしい、調査してくれないか」と。


 具体的に何がおかしいのか?

 口をつぐんでいたその人物(男性)へ、言えないなら依頼は受けられないと断ろうとすると慌てて話し始めた。とても言いにくそうに、苦悶くもんに満ちた、表情で。



「彼女とは恋人で、結婚も考えていたんです」


 しかし、依頼があったその洋館に調査へ行き帰って来てからというもの、彼女は突然豹変ひょうへんしてしまう。服装は露出が多く派手になり、見たことのないような宝石にブランド品を身につけ、話し方が変わり……何より自分以外の男性とも平気で遊びに行くようになったのだという。


 洋館へ行くまでは毎日スーツでビシッと決め、普段も流行に乗らないような、ごく一般的な格好の彼女は、性格や口調も穏やかで真面目、いわゆる模範もはん的な女性だったらしい。


「変わっても彼女は、愛する彼女です。いつかは戻ってくれると信じて、いつも通り過ごしてきました。が、つい先日、ついに別れを切り出されたのです。このままでは受け入れるしか……しかし、どうにも納得がいかない。どうか、どうか! 調査して下さいませんか!?」


 当時、この男性も一緒に洋館へ同行していたが、噂で聞く怪しげな声や物音など聞こえず、不審な点は見当たらないと結論付け洋館を後にした。



 そこで私はもう一度よく思い出してほしい、何もないかと尋ねてみると、しばらく考え込む。それからハッとこわばった表情に変化し「唯一気になった事といえば、彼女が鏡に触れた際にほんの一瞬だけ消えたように見えた。しかし陽光も当たっていたため目の錯覚だったと思う」と、このように話した。



 以上が今回、世の噂調査の概要ってとこね。

 まぁまぁハードな上に、ちょっとだけ面倒な案件ってわけ。



 あら、いけない。説明が長くなってしまったみたい。


 さて舞台は、洋館に入ったところに戻るわ。





 とても美しい大自然の森の奥に佇む洋館。元は白かったであろう茶色壁の一面にうツタが、雰囲気のある建物の外観を一層惹きたて、さらに私の好奇心を掻き立てる。


「ミ、ミナホさん……」

「なぁ~に、モジモジして。お手洗い?」

「ちっ違いますよ! そんなこと言わないで下さい!! 行きたくなったらどうするんすかッ?!」


「ん、まぁ。確かに」

(これ、私にも言えることだけど)


「ん、まぁ。っぢゃーないっすよ! ここの空気、あの、ちょっとよどみがすごく……って、ミナホさぁーん、先行かないで、待ってぇ~」


「はいはい」


 シンジの言葉はあまり気にしない、というより気にしたくない。なぜなら彼には少し霊感? みたいな何かを感じる力があるらしいから。そんな中で色々と言われると、いくら強靭きょうじんな精神力を持つ私でも恐怖心に負けてしまうわ。


「はぁ~……」

(ほんっと、やめてほしい)


 カツーン、コツーン、コツン……。


(とても広いわね。まず、屋敷中央の部屋がどこなのか……)


 冗談交じりな会話に明るい声色と心持ちで調査していく私と助手のシンジは、道に迷わないように、高級な置物や扉の特徴、絵画の向きなどを確認しながら先を急いでいた、その時!


「あ、エッ?」

「どうしたの? そこ左の花瓶と向かいの絵画の位置、メモしといてね」

「はい、いえ、あのぉ。時計が」

「時計?」


 彼の言葉に私も着けていた腕時計に目をやった。


「……嘘、どうして」

「ミナホさん、見て下さいー! 僕のもなんですよぉぉぉ!!!!」

「私たち、二人とも時計が……」


――止まってる!?


 やだわ、これはちょっと嫌な感じが的中しちゃったみたいね。でも今さら後戻りはできない……いいえ! するわけにはいかないのよ!!


「依頼人を満足させる、喜ばせる。それが私の仕事」

「か、帰りま……(ヤバい、ミナホさんの視線が厳しい。ってか、やっぱり変人だよぅ)せん、頑張りますです」


「よろしい。でも冗談抜きで急ごうと思うけど『屋敷中央にある鏡を見つける』、ここから先はその事だけを考えて行きましょう」


「ハイ」


 さすがにね、私もヤバいって気付いてるし理解しているわ。だけど依頼人(同業者)たちが困っているのに、放っておけないわよ。それに――!


「ふふ、同じ仕事でも経験値の違い、見せてやろうじゃないの」


 そこからはスピードアップで早歩き、徹底的に中央を目指し探し回る。鏡の場所が一階なのか、二階なのかも分からないのだけど、そこはあえて聞いてこなかったわ。なぜかというと、おかしくなったという彼女と同じような状況を作ることで、何か分かるかもしれないって思っていたから、そうしたのよね。



 ガチャ、キィー……。


「あ、あった……きっと此処よ! あの鏡のことだわ」

「すごい大きいっすね……このホールが見渡せるくらいの鏡、うぅ~こわッ」



 車を降りてから、一体どのくらい経っただろうか?

 時計が止まり現在の時刻も分からなくなった私たちは、無我夢中で探し回ってきた。この屋敷は中へ入ると外観より広く感じ、そう! 驚くほどに広すぎる。そのため出口へとすぐ走れるように、迷わぬようにと至る所に目印をつけメモしながら来た(ふふん、そこは抜かりナシ)。


 そしてやっとの思いで見つけた屋敷中央の鏡。

 何十年も経っているとは思えぬほどに綺麗で、とにかく大きい。

 普段何も思わない私でも、強い威圧いあつ感のようなただならぬ気配けはいを感じた。


 ふと横を見ると具合の悪そうな助手が、頭を抱え痛そうにしている。


「え、ちょっとシンジ、大丈夫?」

「だ、ぃじょぶす……はぁ」

「はは~じゃないわよ。ったくもう。じゃあ私、急いで例の手順を試してみるから、そこでちゃんと見といてよ」


「……」


 相当つらいようね。シンジ、顔を上げずに無言で首を振ってるわ。


(でも……んん? 頭が左右に揺れている。なんで「うんうん」と縦じゃなくて、「いやいや」って横に振ってるのかしら)


 ホント、よく分からない。でも早く片付けてここを出てあげないとね。


「何かあったら止めてよ? お願いね」


「……」


(まぁいいわ。聞こえてるのか、知らないけれど)


 せっかくついて来たわけだし、少しぐらいは私の役に立って仕事してもらわないとねぇ。


「――ッ!? あ、ミナ……さん! げっほケホケホッ!」

「?」

(何か言ったようだけれど、まぁいいわ)


 咳き込むシンジを横目に、私は例の噂検証を開始する。



「まずは、っと」

 鏡の前に立って見つめる――何も起こらない。


「次に……」

 自分の唇に口紅を塗って――変化なし。

 

「そして自分の唇に触れて、ん~口紅を指につける、と」

 鏡の自分にその指で触れて――何だか浮遊感が……。


(気のせいかしら?)


「さぁて、最後に――」


「だ、メだ!」


(えっ?)

 その発狂にも近いシンジの声に私は驚き、振り向く。

 しかしもう、最後まで検証を終えたとこだった。


「ミナホさん!! やめてこっちへ!! 僕んとこ戻ってき……――」



 キーーーーーーーーーーン…………プツ。



「え、え? 何? どうなったの」


「いえ、すみません。大丈夫みたいで良かったです、ホナミさん」


「うーん、うん? そうね。何事も起こらなかったみたい」


(何か、変?)

 でも、鏡越しで焦って泣きそうなシンジの顔が見えた気がしたんだけど。


(鏡越し? 私、声掛けられて振り返ったはずなのに?)

 それにほんの少しだけれど、浮かんだ感覚があって変な気分に――。


「それにしても、無事で安心しました。こんな危険なことを貴女にさせてしまい、申し訳ありません。ホナミさん、歩けますか?」


「ぅえ!? 何、その口調……それに、優しすぎて気持ち悪いんだけど、シンジ。あんた何を企んでるのかしら」


 すると彼はとても驚いた顔で私の手を取り「怖かったんですね、もう大丈夫です」と言い、抱きしめる。


「ちょっ、離しなさいよ! 何する――」

「あぁ可哀そうに、ホナミさん。きっと気が動転しているのですね。僕の名前を間違うなんて」

「……は?」

「お忘れですか? 僕の名前は『ジンシ』ですよ? 石井いしいジンシ」


(えっ……ん? そうだっけ?)

「あぁ、ごめん……なさい?」


「いいんですよ、謝らないで下さい! 大丈夫、貴女の事、これからずっと僕が守りますからね。さぁ、足元に気を付けて」


 何かがおかしい、そう思いながらも疲れていた私は彼の気遣いに――“甘く優しい言葉”に酔いしれるように言う事を聞いてしまい、手を引かれる。


 しばらく彼の後を黙ってついていき、屋敷内を歩いていくと目印としてつけた紐にふと、視線がいく。


「あれ? ねぇ、あそこを左じゃなかった?」

「いいえ、ホナミさん。右ですよ」


 その後も、違和感ばかりが続く。

 来る時に見てきた景色とやっぱり何かが違う気がする、と。


「ね、ねぇ……シン、じゃない、ジンシ? これって絵画はこっちじゃなかったかしら。花瓶がここにあるし」

「そうですか? 気のせいでしょう。ほら、見て下さい。僕、言われた通りにメモをちゃんと取ってますから」


「ほ、ホントね……」

(ちゃんと書いてあるわ。じゃあ私の、気のせい?)


「はい! だから、ね? 何も心配いりません。僕を“信じて”ついて来て下さい――ホナミさん」


 何かしら、このすべてが慣れない奇妙な感じは。

(心の中が、モヤモヤするわ)


 まぁ、この洋館に着いた時から空気が変だったから、そのせいよね。

 急に優しくなった助手の態度も、たぶん私に気を遣ってのこと。


(今だけ期間限定でしょうよ)


「早いとこ帰って、報告書仕上げなきゃ」

「はい、そうですね」

「んッ、あぁ」


 ボソッと呟いた私の手を握って、爽やかな笑顔を向けてくる。

 さすがにこのあり得ない行動に、やっぱりなんだか……。



「さぁ、きましょう」



――奇妙な気分だわ。





「本当に信じられない。あれほど別人化していた彼女が元に戻ってくれるだなんて! 真嶋まじまさんには、なんとお礼を言えば良いか……感謝しかありません! 一生、恩に着ます」


「いいえ、そんなぁ恐縮です。わたくしは依頼を、責務をまっとうしただけのことですのよ。そして、今後お二人が幸せになられることを切に願っておりますわ」


「ありがとうございます! いやぁ~助手の――石井君、だったかな? 君も本当にありがとう!!」


「え、いえぇ……あの」

「ウッフフ。石井はとても優秀で、わたくしも頼りにしてますの」


「そうですね~、そうですよねぇ。やはりこの仕事に相棒は必要不可欠だ」


 依頼者であった同業者の男性は「それでは」と深々と頭を下げ、事務所を出て行く。しかし僕は、どうしても聞きたいことがありその人を路上まで追いかけ、呼び止めた。


「あの~、待って下さーい!!」

「ん? あぁ、石井君。どうしたんだい?」

「一つ、お聞きしたいことがあって……」


 僕だって、最後の最後まで迷ったんだ。


「そんなにかしこまって、なんだろうか」


「はい、あの。失礼なことを言ったらすみません。しかしあなたにしか聞けないことなのです。依頼のきっかけにもなったその“相棒の女性(恋人)”と、一緒に洋館へ行かれた時のことなんですが――」


 その答えによっては、僕も同じ道を辿る可能性があったから。


「……あぁ」


 男性の顔色が変化した。やはり何か、隠している?


「えっと、鏡の前に立った女性が吸い込まれていくのを、本当は見ていたのではないですか?」


 僕はこの人のように、ミナホさんの恋人でも何でもないけれど。


「それで?」

「エッ?」

「君はなぜ、そう思う?」


 その人は僕を可哀そうな目で、うれいた表情で見ていた。


「なぜって……現に僕はそれを見て、彼女を――真嶋まじまミナホさんが吸い込まれるの見ていて、助けられなかったからです」


「あ、あは……あはは。君はずいぶん可笑おかしなことを言うね」

「おかしい?」

「あぁだって、先程も真嶋さんには事務所でお会いしたじゃないか」


 引きつった顔で笑うと、目も合わせずにうつむき加減で返答する男性の表情は真っ青でこわばり、明らかに動揺しているのが分かる。


 この人、やはり何か知っている。僕はそう確信して言い返した。


「いえ、違うんです。あの洋館から帰って来てからのミナホさん、まるで人が変わって……そう! あなたの話していた恋人のように、豹変してしまったんです!」


「――ッ!? い、いや、しかし、気のせいでは?」


「いいえ、気のせいとかじゃないっす」


「それにしてもだ。私の恋人とは違い普通に会話もしていたし、品格もある。それにほら!! 真嶋さんは、服装や何かが変わりすぎて困ったとかではないだろう?」


 この人が言うように、ミナホさんは今のままで何ら日常生活に支障はない。依頼人の恋人のような性格的な問題や金銭面で周囲に迷惑をかけることは無い。


 でも、それでも! 僕はに落ちないんだ。


「違うんっすよ!! 僕の知ってるミナホさんは、気が強くて、ちょっと口悪くて、いつだって凛としていて。美人なのにガサツなとこあって、でもすげぇカッコ良くて、一人であんなに大変な仕事をこなしてきた人で……僕にとって本当に尊敬できる、魅力的で素敵な女性なんす!」


「石井君……」

「でも、で……ぅくッ」


 感情が抑えられなくなった僕の瞳には、涙が溢れる。

 どうしてこんなことになったのだろうか、と。


「……申し訳なかった」

「ぇ、それって」


 数十秒の沈黙後、口を開いたのは依頼人の男性だ。


「こうなることを、私は知っていた。知っていて、君たちの所へ調査を依頼した」


「な……んで、そんな」

(どういうことなんだ!?)


 僕はその答えで呆気に取られ、言葉を失う。


「実は、あの噂には続きがある」


 今回の依頼者であり同業者の男性は言いにくそうに、ポツリ、ポツリと。あの洋館にまつわる噂の先――真相を話し始めた。





 鏡に映る自分の唇に指で触れた瞬間、耳鳴りのような音と共に光の中へ吸い込まれるような感覚に陥る。それは瞬きをする間の出来事で、自分がまさか『鏡の世界』にいるとは夢にも思わないのだ。


 そう。

『鏡の世界にいる自分と通じることができる』とは。

『鏡の世界に住む自分と入れ替わってしまう』ということ。


 鏡の中での時間。

 そこは夢でも見ているかのような浮いた気分になり、嫌なことは何一つない。しかし、周囲の人物や風景を見てすぐに違和感を感じ始める。


 そして思う。

――「ここは私がいた時空ではない」と。


 しかし気付いた頃には、時すでに遅し。

 吸い込まれた世界に出口はなく、方法もなく出られない。自力でこの大きな鏡から脱出することは、到底不可能だという。





「じゃあ、やっぱり。今の“ミナホさん”は」

「あぁ……別人といってもいいだろうな」


 なぜ、なぜだ?

 なぜこの人は、そうなる事を分かっていて、そんな恐ろしい依頼を僕らにしてきたのだろうか?


「あんたの言ってること、やってること……僕には皆目見当もつかない」


 怒りと悲しみで震えていると、その人は僕の言わんとすることが分かったのか? 話を続ける。


「豹変した私の恋人が、元の状態でなぜ戻ってきてくれたのか。その理由はあなた方の犠牲によるものだとほぼ断定される」


「はっ、犠牲?」

(まさかッ!?)


「石井君。今の君が感じた想像通り、例の噂検証を次にした者が、鏡の世界へと新たにいざなわれ、その前に入っていた者は、鏡の世界から出ることが出来る。恐らく、そのような仕組みになっていると思う」


「いや、まさかそんな! それじゃあまるで身代わりじゃないっすか?!」


「そうだな、身代わりと言われても仕方ない。本当に、心から申し訳ないと思っている。しかし、それでもこうするしか」


――彼女を助ける道がなかった。


「なぜです……どうして!? 最初に言ってくれなかったんすか」

「言えば、この依頼。間違いなく君の相棒に断られていただろう?」


「そ、それは! だからって、卑怯ひきょうだ」


(好奇心旺盛なミナホさんは、この真相を聞いていても。噂を確かめようと、解明してやろうと意気込んだのだろうか)


「それに、私たちも同じように別の依頼者に頼まれ、あの洋館へ行った。それでこうなった」


「みんな……狂ってる」


 同業者の男性もやはり、前の依頼者に今の僕のように問い詰めて、初めて知らされた真相だった。


「この真相が事実がどうかは、恋人が元に戻った時、経験した彼女の口から『鏡の世界』について聞き、それが真実だったのかと完全に判ったことだ。実際それまではそんな話は半信半疑で。何かに取りかれたのかとすら思っていたから」


「それでも……聞いておきたかったっす」


「すまない、石井君。しかしすべてを話せなくても、ヒントは伝えたはずだ――『彼女が鏡に触れた際にほんの一瞬だけ消えたように見えた』とね」


「そ、そんなの! 分かりませんよ!!」


「……あぁ、そうだ。そうだよな……申し訳ない」


 言いたいことは山ほどあるのに、僕はそこから言葉が出てこない。長い沈黙を破ったのは再び依頼者の男性だった。


「石井君、最後にもう一つ話そう。鏡の世界から戻ってきた私の恋人が言っていた、重要な話だ」


「重要な話?」


「そう。吸い込まれた先では、すべてが真逆だったと。周囲の景色や人間、建物の方向や人の性格、口調も……そう、名前も。その世界は鏡に映った姿そのもので、何もかもが逆の世界だったと」


「あっ……」

 その話で僕は、なるほどと思った。


 だから今この世界にいるミナホさんは怖がりで、おかしな言葉遣いや妙な雰囲気が漂っていて、真逆と言われればそうだ。そして僕は、なるべく近付きたくはないと感じていたのにも合点がてんがいく。


(本物の欠片かけらもない。完全な偽物なのだから)



 依頼者の男性は「いつか誰かの手でこの連鎖を止められることを祈っている」と言い、目に涙を浮かべる。それからもう一度謝罪する言葉とゆっくり深々とお辞儀をして、足早に去って行った。


 この時の僕は何とも言えぬ気分で、どうしたら良いのかも解らず、ただただその場に立ち尽くしていた。





「お願いします、どうか僕の友人を救って下さい!」



 あれから数ヶ月が経った。

 相変わらず現在の“ミナホさん”として生きる目の前の人物の性格は、似ても似つかない。すっかり気の抜けたソーダみたいにふわふわしていて、以前では考えられないような可愛く甘いマスクをかぶる偽者は、周囲の者を魅了するが、僕にとっては震える恐怖でしかなかった。


 そこに僕の尊敬する“彼女”は、もういない。


 それでも諦めずに毎日毎日、僕は何とか他に助ける方法や解決策がないか色々と調べ模索したが、しかし……結局今日までに答えは見つからなかった。


(もう限界っすよ、ミナホさん。早くあなたを鏡の世界から助け出さなければいけないのに……このままだと何が起こるか、判らない!)


――やっぱりこれまでの人たちのように、誰かを犠牲にするしかないのか。



 僕は意を決して、まったく関わりのない他県の調査屋へと依頼した。



「友人を救う? うーん……一体何があったというんだい?」



 こうして、負の連鎖はまた繋がってしまう。



「はい……あの、実は――」



 僕も大切な相棒を――彼女を助けるために“黙る”。



「なるほど、話は解った。あの深い森の奥にあるという噂の洋館か……うーん、そうだな。少しでも危険があると思うと、気が進まないのだが」


「お願いします!! どうか、なんとかして……大切な人で」


「……分かった。これも我々に与えられた使命だろう。まぁ石井さんの友人を助けられるかはお約束できないが。その調査、引き受けよう」


「あっ! ありがとうございます!!」

(本当に申し訳ない。どうか、許してください)


 僕は心の底から謝罪した。

 そして、心から祈った。



――連鎖を止めたいのは本当なんだ。

『何でもいい。助かる解決の糸口が、これで見つかりますように』と。



 握った手に、希望を込めて。





 屋敷中央ホールにある美しい鏡面は、今日も陽光で輝いている。



「やっと着いたな。しかし、やけに静かで不気味だ」

「ですわね……これは早いところ、検証を始めましょう」



 噂を確かめようとする者たちをいざなう、“大きな鏡”。



「本当に大丈夫かね? 依頼とはいえ、めてもいいんだぞ」

「ここまで来て何をおっしゃいますか! 私なら問題ありません」

「そうか……それなら良いが」



 他県の調査屋もまた、相棒の女性を連れ洋館へ来ていた。

 そして、事前に聞き取り独自で調べた通りの手順で検証を進めていく。


「まず始めに」



――鏡の前に立ち、自分を見つめるその姿はゆらゆらと。



「次に」



――こうして自身も、知らず知らずのうちに惹かれて。



「そして自分の唇に、と」



――鏡の前で出逢う、別の自分に気付かない。



「最後に――“口付け”る……」

「おい! ま、待て! やめ……」



 キーーーーーーン。



「戻れ―……ッ! はぁはぁ、ぁぁぁ……何という事だ」



 “あの日起きた悲劇”を、繰り返してゆく――――。





 その昔、屋敷中央ホールにはたくさんの人々が集まり、舞踏会を楽しんでいた。ほぼ毎日のように鮮やかに彩られる森の洋館で、ある日、想い人と結ばれなかった若い女性が、ホールにある大きな鏡の前で――死を選んだ。


 そして……その鏡越しに「ウッフフ」と不気味に笑いながら、息も絶え絶えで、断った男性へと最後の言葉をかけた。


「ねぇ、惹かれるって……言ってくれたじゃない。そ、そうだ、わ……貴方と結ばれ……一緒に……逝き……わ、たしと……『鏡の世界で逢いましょう』……ね」



 死ぬ間際に映る鏡の自分へ口付けた彼女は、へと、旅立ったのだという。




 ねぇ、貴方。

 私ずっと、ここで待ってるから――。



 ギィィ…………ガチャ、ン。


『ウッフフ…………フフフ』



 “カチャリ”





(了)



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鏡の世界で逢いましょう 菜乃ひめ可 @nakatakana

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