第四話

 歩いていると夏に急かされるように氷は溶けていった。少女の手の温度が移ろったのか、わずかにプラステックの器がぬるい。檸檬色に染まった水が太陽光を反射させていた。

 道なりに沿って歩き、堤防にたどり着いた。少女は堤防から砂浜へ向かうために階段を探す。檸檬水を飲みながら。爽快感のある味の薄い水は彼女に夏を感じさせる一因となった。

 時折少女は後ろを振り向き幽霊を見る。幽霊はやはり彼女には輪郭のあやふやなものにしか見えず、そこに耳も目も鼻も口も何もかもがなかった。白い影のようであった。蜃気楼かなにかが近づいて、揺れて、その空気が磨れたようにしか彼女には見えなかった。けれどそれがより夏じみて思えて、彼女にとっては嬉しいことだった。

 見つけた階段を上り、堤防の上に立つ。太陽はわずかに傾き始めている。潮風が少女を包み、幽霊を通過する。砂浜にも、海の中にも人は見つからない。ただ、夏の青さだけがそこに咲いていた。

 砂浜へ降り立つ。潮の香りがより強くなる。風が平行線からやってきて、海面を揺らす。何重にも重なった巨大な厚い雲が視界の遠くにあった。

 少女は靴と靴下を脱いだ。その瑞々しい白い肌を惜しみなく晒した。砂粒が素足にひっつく。指の間に入り、その白い肌と同化する。少女はそれさえ愛おしく思え、迷わず海へ足を浮かした。ひやりとした感覚が足裏から全身に伝い、頭皮に水滴となり現れ、それが髪の毛からこぼれ落ちる。それを何度か繰り返した。

「夏だ。」

 認識をすりあわせるように、刻みつけるように少女の口から飛び出したそれは妙な重さを伴っていた。幽霊は聞こえないながらもその表情から少女の感覚をすくい取った。

「ねえ、幽霊さん。」

 少女の声が波音にのっていく。それは少女以外だれも聞いていないものであった。

「私ね、ずっとここじゃない所に行きたいんだ。もっと、ちゃんとした夏を感じたい。多分、まだ、私は正解の夏を過ごしていないんだよ。多分もっと、夏があるはずなんだ。でも、それがどこにあるのか分からなくて、こうやってどこかへ向かったの。多分、きっとそう。」

 幽霊はじっと見ていた。彼女の言葉は聞こえない。けれど、その見据える眼から、その浮かんでいる表情からなにか、彼女の人生の根幹を盗み見ているかのような感覚に陥った。がくりと、無いはずの体が震えた。

 彼女は日が暮れるまで、落ちるまで、その足を海に溶かしていた。だれもそれを咎めなかった。幽霊はそれを見ていた。幽霊は、ただ自分はここに居てはいけないのだと妙な焦燥感に駆られていた(幽霊の居場所は決まって墓場で或。その焦燥感は間違いではない)。ただ、幽霊にはその無いはずの身を焼く感覚が一体何なのか分からず仕舞いだった。少女を追いかけるのやめたら、とりつくのをやめたら、どこへ行くのか、分からないからである。言えないからである。それが分からなければ、幽霊はどこへも行けない。そのことを幽霊はだれよりもはっきり理解していた。

 海が暗くなり、空が昏くなった。湿度の高く、じめったい夏の夜であった。遠くからまだ蝉の声が聞こえた。

 おもむろに、少女はスカートから線香花火の入った袋を取り出し、線香花火を抜き取った。もうそれはしわくちゃに成り果てていた。

 海から上がり、濡れた足に砂粒を付ける。乾いた砂浜に戻り、座り込んだ。お尻はつかず、膝を畳む形で座った。その体制のまま、燐寸を取り出した。手の感覚を頼りに火を付ける。周囲が赤く濡らされた。彼女はその光を、そっと線香花火の先端に近づけ、移す。

 途端、炎が丸まり、はちはちと火が弾ける。小さな爆弾じみたその花は、少女の健康的な足先やふくらはぎ、太ももを濡らし、次いで髪を朱色に染めた。

 幽霊はその一連の動作を見、少女の目の中に灯った炎を、線香を見ていた。少女は手元の線香に夢中であった。幽霊はそれに気がつかずにただ、じっと人間を見ていた。

 時間にして三十秒である。

 花が落ちた。色づいた夏の花が落ちた。なつがおわった。

 少女は立ち上がり、波の音に耳を傾ける。幽霊はただ、佇んでいた。

 はあとため息のような、耽美的で甘美的で艶やかな息を吐いた後、彼女は夏に背を向けて歩き出した。その背中は萎びていた。幽霊はついていけなかった。ただ、ひんと張られた糸のようなものに引っ張られるような感覚があった。それも少女に引っ張られているわけではなかった。少女がどこへ行くのか、幽霊には分からない。少女自身も分かっていない。ただ、もうじき、なつが終わる。この潮の香りも退いていく。

 幽霊はそっと、空を見上げる。ゆっくりと蜃気楼がもとある場所へ帰っていくのが分かった。幽霊も、すこししてそれに混じるのだ。

 幽霊はゆっくり動き出した。とりつくものは決まっていたからだ。次は夏にとりつくのではない。夏の終わりにとりつくのだ。九里かけ、ゆっくり成すのだ、夏の終わりを作り出すのだ。

 それは盆の終わりのことであった。

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夏日、青、彷徨い 宵町いつか @itsuka6012

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