夏日、青、彷徨い

宵町いつか

第一話

 コンクリートに陽があたっている。布みたいに伸び切ったそれはゆっくりと足元へやってきて、周囲の温度をあげる。耳には蝉噪。空は高く青白く、そこに薄い雲がのびている。直ぐ側に伸びている木の葉はやけに瑞々しかった。

 駅のホームに入る。ICカードの無機質な電子音がないた。改札らしい改札のない、三十分に一本しか電車の来ない田舎駅。数駅しかないのに三百円弱の値段をとってくる、寂れた場所。駅員はおらず、駅自体かろうじて生きているような場所。線路が一本伸びており、向かいの金属店の灰色の壁面が見えている。

 ホームには人間らしい人間はおらず、あと数分で電車はやってくる。

「だれもいないね。あ、わたしがいた。」

 一人で少女は笑った。その声は夏の風に吹かれ、どこまでも飛んでいきそうだった。隣には夏の具象化が居た。

「なんか言ってよ、幽霊さん。」

 少女が幽霊を覗き込む。透き通った日本人らしい黒瞳に幽霊は数秒見蕩れていると少女は視線をそっと外し、数歩進んだ。

 ひらりとその身に纏った夏用の紺色スカートを舞わせる。半袖の白いブラウスが日光を反射させている。膨らんだ胸が眩しく瑞々しい。下着の肩紐がわずかに浮いて見えてそれが人間たらしめている。首筋に青い血管が浮いて、それを覆い隠すようにあまり色の合っていない白い日焼け止めが強調される。その表情は楽しげに笑っており、花びらのような唇が弧を描く。鼻立ちはよく、鼻先には可愛らしく、若さのにじみのようにほのかに赤らんでいる。瞳は鋭く、彼女の性格を表現しており、まつげは長い。眉はきれいに整えられており、時折前髪がそれを隠している。肩甲骨よりも少し上まで伸びている髪は太陽に透かされて栗色になっていた。

 陽が雲で隠れる。薄雲ではない、厚い雲。一瞬夏らしさが途切れ、風が吹き抜ける。少女は舞い上がる髪を急いで撫でつけ、口の中に入った髪をぺっと吐き出した。嫌そうに顔をしかめて、その髪を背中にやった。

 その一連の流れを幽霊はじっと眺めていた。

 少女と幽霊はつい数時間前に出会った。いや、出会ったというのは少し語弊がある。出会いというのはどちらもが認識し合い、何かしらのコンタクトを取り合うというものであるため、この場合は視認し合う、または一方的に感じ取ったものたちといったほうが正しいのかもしれない。ともかく、それは唐突で、ファンタジックなものではなく、メルヘンなものでもなかったのだ。

 電車のなか、少女は泣いていた。その車両にはだれも人間はいなかった。だから泣いていた。見ている人が居ないのだから、きっと許されるだろうと信じたのだ。ただ、それをぼんやりと眺めていたのが一人、居た。雲がかかっていなかったからだろう。夏らしいからだったからだろう。そのとき、いつもなら見られないはずの幽霊の姿がそっと車両のなかに写し出された。

 少女の濡れた瞳に幽霊の存在はうまく映らず、それを認識するまでに数秒の時間を要した。電車が止まり、無人のホームに着く。夏風が吹いてきて、夏が現実的になったとき、やっと少女は幽霊の存在を認識した。声は出なかった。驚きというよりか興味の方が少女の中で勝ったからだった。それに少女が目的もなく電車に乗っていたというものあった。夏期休暇の部活を無断欠席し、誰にも会わないというのに私服はシンプルでお気に入りの物を選んだ。そういう、何てこと無い日だからということが大きかったのだろう。

「え、誰?」

 少女から湧き出た率直な疑問だった。幽霊には声は聞こえなかったが、疑問を浮かべたのは表情から分かった。幽霊は少女に同情した。驚いてぎゃあぎゃあ叫かず、泣いていないだけよく出来た娘だと思った。

「……幽霊、さん?」

 少女はすぐ一つの可能性にたどり着いた。たどり着いて、嬉しくなった。自分の周りになにか変化が生まれたことが嬉しかったのだった。高校生特有の感情の琴線に触れたのだった。

 それから何駅か無言の時間が続いた。ちょうど、三十分くらいだろうか。少女はどう、なにを話せば良いのか分からなかったし、幽霊に至っては自分自身が声を出せるのかどうかすら分かっていなかった。そもそも耳さえなかった。人に見られた事もなかった。それが普通なことであった。幽霊にとってはただぼんやり電車にしがみついていただけだった訳だから、まさかそこで人に見つかることがあるなんて思ってもいなかった。幽霊の感じる動揺も間違いではなかったのだ。

 私は幽霊らしい、と幽霊は声を出したつもりだった。ただ、幽霊には声帯がないらしく、空気が震えなかった。耳もないためそれは当然だった。それを理解して、幽霊は頭を抱えた。目の前の少女にすらなにも伝えることができないのかと。ただ見つめることしかできないのかと。聞くことさえ出来ず、話すことさえ出来ず、触れることさえ出来ない。

 けれどその間少女はただ、「え、すご」とか「幽霊居るんだ、まじか」とか、色々呟いていたから、その嘆きはなにも伝わらなかったということを記しておく。もちろん、幽霊はそれを知る術はない。結局、幽霊の行動にはなにも意味が無かったのだ。もちろん、これからも。

 少女は涙を引っ込めて、ただ赤く腫れた目でじっと幽霊を見ていた。じっと、その茫洋とした性別の分からない人間の形をした姿を目に焼き付けて、忘れないようにした。忘れてしまったら、今年の夏が何もない、もったいないものになってしまったような気がしたからだ。夏の色彩のはっきりした美しい物事を忘れてしまったら、果たして冬の冷たさやあの透き通った景色、秋の暖かな風景、春の麗らかな風景、そのどれもこれもうまく感じられないような気がした。ただでさえ日常は嫌なことであふれているというのにこれ以上、何もないと思いたくなかった。ただ、幽霊みたいな不確かな一年になってしまうような気がした。

 その瞳を幽霊は勘違いした。もしかしたら、幽霊に見覚えがあったのではないかと思った。幽霊には記憶が無かった。死んでしまったからそれは必然なのだ。ともかく、何か生きていた自分の事を知っているのではないかと勝手に思い込んでしまったのだった。。もちろん、この幽霊の考えは無意味で、なにも自身の事について分からないということをここに記述しておく。しかしながら諸君よ、そんな幽霊を悪く思わないでほしい。惨めな幽霊を哀れまないでほしい(諸君らも少し考えれば分かるはずで或。四感がなくなったとき、どのような行動を起こすのか。それが分かるのならきっと諸君はこの幽霊の行動が分かるであろう。優しさを持つであろう)。

 ただ、幽霊のその滑稽で惨めな勘違いによって少女の一日は始まったわけであって、幽霊にとっても大切な夏になったわけである。

 幽霊は少女の隣に座った。とりついた、という訳ではない。幽霊にはとりつき方も分からなかったし、そもそもとりつくことができるのかという事さえ分かっていなかったのだ。幽霊の中では三流以下というべきであろうか。

 少女はもぞもぞと動いた。クーラーの冷たさとは違う、底冷えするような寒気が来たからだった。それが寒い、というわけではなく妙にむず痒く感じたのだった。

 電車が駅に着いた。終点地であり、辺境の駅である。少女は立った。電車から降り、蒸し暑い夏へ降り立った。

 幽霊はそれに続いた。それから二人で何をするわけでもなく冒頭の駅まで歩いたのである。

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