第三話

 少女は歩き始めた。あてもなく歩き始めた。初めて訪れる町であったから、観光気分が残っていた。浮き足立っていたというのは否定できないことである。

 少女は初めて見る景色を一つ一つ丁寧にみていく。夏に染まった景色は彼女にとって新鮮なもので、このうえなく美しいものとして映っている。幽霊にはそれが分からず、ただじっと少女を見ていた。ある意味、幽霊にとっては初めて見る夏が少女の姿であった。少女にとっては幽霊は夏の具象化であり、幽霊にとっては少女が夏の具象化であった。

 ただ、当人たちはそれには気がつかないままである。

 道路の端、家の壁面とコンクリートの間から緑が出ている。少女はそんな些細なことにさえ夏らしさを感じていた。一番この世で夏を感じていたのだ。

 一時間ほど歩いていただろうか。潮の香りが全身を包むくらいに海が近くなっていた。そのとき、ふと少女は氷、と書かれたのれんを見つけた。

「かき氷だ。」

 幽霊も同じく氷と書かれたのれんを見つける。幽霊には記憶を無くしていたから、かき氷やのれんの意味さえ覚えていない。けれど、少女の涼やかな表情を見てその氷に関する事などどうでも良くなったのであった。

 磨硝子がはめ込まれている店先から少女は中をのぞき込む。中に客が居ないことを確認してそっと、ゆっくり、扉を開けた。

 夏の木陰のような優しい空間がそこには広がっていた。少女はほっと息を吐いて、スカートのポケットから小さな小銭入れを取り出した。中には千円程度、小銭が納められている。

 店は狭く、三つほど小さな棚があり、そこに駄菓子が収められている。壁には花火セットが引っかかっていた。店の奥には白髪交じりの老婆がかき氷機をいじっている。

 少女はかき氷を目当てだったが、老婆がいじっているということで話しかけづらい、ということと周囲にある駄菓子や花火セットに目を奪われてしまい、店奥にいる老婆に話しかけるのをやめ、店の中を巡った。幽霊は奥にいる老婆のほうへ向かった。

 じっくり見て、といっても店内は狭いため十分ほどで一周してしまった。けれど、老婆は依然としてかき氷機をいじっている。いくら待ってもどうしようもない気がして、けれどかき氷単体目当てだと思われるのも癪に思えて、少女は近くにあった線香花火と燐寸を持って、老婆の元へ向かう。

 少女が近づくと老婆は緩慢な動きで少女を見た。その手にはマイナスドライバーが握られており、顔のしわは深く刻まれている。服装は和装で、立ち姿から何まで堂に入っている。少女を見る目は鋭いながらも融和であった。

「今日は涼しいのかね?」

 老婆がマイナスドライバーを一昔前のレジ機の上に置いて、呟いた。もちろん、涼しいのは老婆の直脇にいる幽霊のせいなのであるが、それを知る術はない。もちろん少女もそれを言うわけにはいかず、ただ曖昧にそうですね、などと同意を示すしかなかった。

「あと、かき氷も貰えますか?」

 物腰低く問うと、老婆はゆっくりと頷いた。マイナスドライバーで切れ味の落ちた刃に挟まっていた氷の粒を落としていたことを、小言で呟きながら、老婆は奥から氷の塊を取り出して、ついでにシロップも三種類持ってきた。少女はその中から檸檬を選んだ。

 先に料金を払い、少女の小銭入れの中から百円が四枚分消え去った。小銭入れと線香花火、燐寸をまたスカートのポケットの中に入れて、削られていく氷を眺めていた。それにどこか夏を求めていた。

 できあがった靄のかかった氷の塊に黄色い檸檬が回しかけられる。老婆がストローで作られた簡易的なスプーンを差して、少女に手渡す。少女は受け取って会釈をし、ぼんやりと透明な氷よりも磨られたものに夏を感じるのはなぜだろうと考えた。やはり、夏は透き通っているわけではなく、色のついたものが夏らしいのだろうと納得させ、店を出た。老婆はその後ろ姿をじっと見ていた。

 少女はかき氷を咀嚼する。荒く削られた昔ながらのかき氷は口の中を暴れて、歯の神経に触れて、頭までその冷たさを与える。歯の痛みと頭の痛みに耐えながら、少女は食べ進める。黄色い線の入ったストローで黄色い檸檬風味のかき氷を食べるのは魅惑的で、彼女には意識的に止められるものではなかったからである。

 幽霊は彼女のころころと変わる表情を見つめる。それに興味かなにか、分からない感情を抱いた。それは共感であった。幽霊には分からずとも、記憶になくとも、幽霊の視界にこびりついている夏の青写真であった。

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