後編
潮が満ちてきて、あの人の亡骸を波が濡らし始めました。
親の元へ帰りたいと言ったあの人のために、私はその体を家があった跡に運んで、常世へと一人帰りました。
毎日泣いて泣いて、このまま体がすべて涙になって溶けてしまえばいいと思いました。あの人を無理にでも引き留めればよかったのではないか、あの人の二親もお連れすればよかったのではないか。考えても仕方がないことばかりが頭に浮かびました。けれども、あの人が私と共にいたいという気持ちになってくれない限り、二人がむつまじく暮らし続けることはできなかったのです。
それが異界の方と契ってしまった定めなのですよ、とお姉様が言いました。
お姉様の夫である山幸彦は、人ではなく神だったので、三年経って上つ国に戻っても老いることなく、釣り針のことで揉めていた兄の海幸彦も健在で、元の暮らしに溶け込みました。
常世に戻ってこない山幸彦に痺れを切らしたお姉様は、自分から上つ国に出向きました。お腹の中に子が宿っていたからです。
けれども山幸彦は、決して見ないでくださいと言われていたにもかかわらず、お姉様の
産みの苦しみの中で、お姉様は見てしまいました。夫が恐怖に引きつった顔で逃げていくのを。
神の血を多く受け継いだ赤子は、海中での暮らしに馴染めません。赤子を置いて、泣きながら常世へ戻ってきたお姉様は、しばらくは起き上がることもできませんでした。
そうして私に教えてくれたのです。決して上つ国に住んではいけませんよ、と。
教えを守って、浦の島子を
私の何がいけなかったのでしょう?
できる限りのことをしました。懸命にお仕えし、心から慕っていました。私にとってあの人は、もう自分の一部でした。あの人を失ったときは、手足をもがれたように感じたほどです。あの人は、私ではなく故郷を選びましたが……。
どうすればよかったのか、教えてくださいませんか?
……あなたは悪くない? やさしいことを言ってくださるのね。
でも、あなたはいつもご自分の本心を隠して、うまくまとめようとする。
ええ、もちろん、あなたがどなたかは知っていますよ。高橋虫麻呂様。
藤原
あなたの「水江の浦の島子を詠む一首」、私も目にしました。……お姉様の子孫が創った国ですもの、いろいろなところから書物などを手に入れているのですよ。
虫麻呂様は、こう書かれていましたよね。「常世辺に 住むべきものを
あれは自分の本心ではなく、読み手の心に沿ったもので、親への情から常世での暮らしを捨てた島子の愚かさを愛おしんでいる、とおっしゃるのですか。
……そうでしょうね、虫麻呂様の歌は、目の前の世界とは似て非なるものを描かれていますから。
けれども、私はあなたの歌から、さびしさを感じるのです。鶯の巣の中に産み落とされた時鳥を見て、本当の子を殺された鶯ではなく親を知らぬ時鳥に同情するところに。若い男女が歌い踊る
自分が島子であったなら、ずっと常世に住み続けるのに。そんな読み手の気持ちを汲み取ったあなたの本心は、どこにあったのでしょう?
あなたが自分のことを歌わず、歌の中にもう一つの世界を立ち上がらせようとするのは、住んでいるこの世がどこかしっくりこない、受け入れられていない気がするからではありませんか? 本音を言わずそつなく過ごしているのは、誰に対しても心を許していないからでは?
ほら、そうやって作り笑いでごまかそうとなさる。「そんなことはありません、私は日々の暮らしに精一杯なただの役人ですよ」などとおっしゃるところがもう、本心を隠しているのに他なりませんわ。
ここではないどこかに憧れていらっしゃったのでしょう?
それならば、この綿津見神宮はいかがですか? 美しいものも珍しいものもたくさんありますし、お望みでしたら
もっと他にふさわしい
あなたの乗った船が流されてきた、というのは半分嘘です。あなたが常世へ来るよう、私が手引きしたのです。
なぜって? あなたの歌を読んで、どうしようもなく惹かれたのです。そんなにも孤独なわけを、知りたいのです。
……私ならあなたの孤独を癒やしてあげられる、などと言う女が癒やしになった試しがない、ですって?
ふふ、少し本音をおっしゃいましたね。意地でも心を開かないところ、好きですよ。無理やりこじ開けようとはしませんから、ご安心くださいな。
もしも虫麻呂様が、常世に興味が無いのなら、ちゃんと上つ国へお送りしますわ。ここへ来て七日ですから、……上では二十五年ほど経っていますでしょうか。
……どうなさいました? あら、涙ぐんでいらっしゃるの? 人々や故郷の中にあっての孤独が、本当の孤独になってしまったから?
ここではないどこかに憧れていらっしゃったのに、いざ手に入りそうになると、元いた場所が恋しくなるのかしら。……ああ、虫麻呂様ですらそうなら、あの人が帰りたがったのも無理はないのですね。
では、この
あなたのような人がどうするのか、見てみたかったのです。常世で何不自由なく暮らすか、すっかり変わってしまった上つ国にそれでも戻るか。
さあ、どうなさいます?
常世辺に住むべきものを 芦原瑞祥 @zuishou
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます