常世辺に住むべきものを
芦原瑞祥
前編
気がつきましたか?
ああ、まだ起き上がらない方が。……ふらつくのでしょう。さあさあ横になって。窓の外を魚たちが泳いでいるのが気になるのね。溺れたりはしないから、安心なさって。
どうしてこんなところに、ですか?
あなた様は、船に乗っているうちに流されて、
……まあ、会ったばかりの女に名を訊ねるなんて、大胆な!
ふふ、気を悪くしてなどいませんよ。むしろ、あなた様になら、名を教えても構いませんわ。目が合ったときに感じましたもの。この方は私の夫になる、と。
気が早いとおっしゃるのね。でも、私のお姉様も、山幸彦様に会ったその時に
あら、話を逸らそうとなさるのね。……まあいいでしょう。不安になるのも仕方がないからお教えしますわ。ここは、
ええ、お察しの通りです。私は、あの話に出てきた海神の娘。
そんな顔をしないでくださいな。取って喰うわけではあるまいし。あの話だって、浦の島子は三年間何不自由なく楽しく暮らしていたでしょう。まるで私がひどいことをしたように言われるのは、不本意ですわ。
釣りに夢中になって海境まで流されてきたあの人と、初めて会ったときのことを、今でも思い出します。目が合った刹那、波の音が消えて、この世に二人きりになったような気がしましたわ。あの人を見つめているだけで、体が熱くなって、胸の奥に甘やかな苦しみが広がって、日に焼けた肌やまなじりの下がった大きな瞳や節の立った指を、このまま目でなぞり続けたいと思いました。ああ、これがお姉様の言っていた、夫となるべき人は一目で感じ合えるということなのね、と。あの人も、同じ気持ちでいてくれたのですよ。あの時は。
心を通わせた私たちは、綿津見神宮へと向かい、すぐさま契りを交わしたのです。お父様も歓迎してくださいました。ここには魚や貝はたくさんいても、神通力を得た雄はいないので、異界から婿を迎えるしかないのです。
毎日むつみ合って、あっという間に三年が過ぎました。きらびやかな鱗の着物、白珠や珊瑚の飾り物、鯛や鮃の美食、魚たちの舞い踊り、あの人には最高のもてなしをし続けました。最初の内は、ひとつひとつに驚き喜んでくれました。目を見てほほえみ合うだけで満ち足りた心持ちになり、沈んだ日輪が海の道を通ってまた昇るまでずっと、手枕を交わして溶け合ったものです。
けれどもあの人は、次第にふさぎこむようになって、こう言いました。「しばらく家に帰って、父と母に事の次第を話してきたい」と。
え? 親が心配しているだろうから、帰りたくなるのは当然?
あなたもそうおっしゃるのですね。でも、本当に父母に心配をかけたくないのなら、もっと早く言うはずではないですか? それを三年も経ってから帰りたがるとは、言い訳にしか聞こえません。それに、親のことも私のことも大事に思ってくれているのなら、引き合わせるために一緒に行こう、と言ってくれてもよいではないですか。そう思いません?
ええ、私も本当はわかっていたのですよ。あの人は、私にも、この常世での生活にも飽きたのだ、と。お姉様の夫の山幸彦も、ちょうど三年目に「
それでも私は、恨み言は申しませんでした。心変わりには気づいていないふりをして……いえ、一縷の望みを賭けて、「また常世へ戻ってこようと思われるのでしたら、決して開けてはなりませんよ」と
私は心から願っていたのです。あの人が玉櫛笥を開けずに戻ってくることを。それなのに、あの人は……。開けてはならないと、あんなに固く約束したのに……。
開けちゃいけない玉櫛笥をなぜ渡したのか、ですか?
他に方法がなかったのです。別にあの人を陥れたわけではありません。
人の身では綿津見神宮で暮らすことはできませんから、私は浦の島子の魂を体から切り離して玉櫛笥に入れていたのです。そうすれば老いることもないし、海の中でも平気ですから。とはいえ、玉櫛笥から長い間離れてしまうと、生きていけません。魂と体が離れてしまうことになりますもの。だから、上つ国へ帰るあの人に、玉櫛笥を持たせなければならなかったのです。
それをあの人は、私が何か善からぬことをしたから自分の家や父母が消えてしまった、この櫛笥を開ければすべてが元通りになるはずだ、と思い込んで箱を開けてしまいました。
私のことをそんな風に思っていたなんて。
三年も心を通わせていたはずなのに、あの人は私を信じていなかったのです。大亀に姿を変えてこっそりついて行った私は、岩陰で泣きました。
白い雲が箱の中からむくむくと昇っていき、常世の方へと流れていきました。あの人の魂です。ようやく気づいたあの人は、声にならない声をあげて雲を追いかけ、必死で留めようとしました。袖を振って雲をつかもうと、波打ち際で何度も飛び上がっては転げました。
何度目かの試みのあと、あの人は倒れたまま起き上がれなくなりました。
いつも指を絡ませ合っていたあの人の手には皺が刻まれ、黒髪もみるみる色が抜けて真っ白になり、抜け落ちました。染みだらけの顔がこちらを向き、皺に埋もれた目がうっすらと開いて、私を見ました。
疑って悪かった、君のもとに帰りたい。
そう言ってくれれば。いえ、そう言ってくれるはずだと、私はまだ信じていたのです。
それなのにあの人は、怖れと、怯えと、侮りと、憎しみと、すべての負の感情を込めたまなざしで私を一瞥しました。私のせいでこんなことになったのだと言わんばかりに。
息絶えるとき、あの人は私から目を逸らしました。
私は、あの人の最後の息とともに、残っていた魂のかけらが抜けていくのを、ただじっと見ていました。
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