エピローグ: Give us a break.

 ゴポゴポポとコーヒーメイカーの吐き出すお湯が漆黒の粉の上に滴り、モカ・マタリの甘い香りがキッチンに広がった。

 抽出が終わるのを待ち、蔵人は二人分のマグカップからお湯を捨てて、芳醇な香りを放つ琥珀色の液体を注ぎ込んだ。自分はブラックのまま。同居人のカップにはミルクをたっぷり注ぐ。

 そういえば、コーヒー用の牛乳を買うようになったのも、ソーニャを家に迎えてからの習慣だ。

 そんなことを思いながら、蔵人はマグカップを差し出した。

「お待たせ。まだ熱いから気をつけて」

 先にテーブルについていたソーニャは、食べかけのマドレーヌを置いてカップを受けとった。

「うん、ありがと」

 ソーニャは一口すすってあちち、と舌を出し、ふうふうと息を吹きかけた。

 蔵人はソーニャの向かいに腰を下ろし、自分のカップに口をつけた。

「ふぅー……」

 思わずため息が出た。

 熱くほろ苦い味わいに、やっと人心地がついた思いだ。

 窓から差し込む午後の陽は、すでにかなり傾いていた。廊下の方から、洗濯をやり直した衣服を回す洗濯機の音が聞こえてくる。猫のホイエルは床に寝そべって、ふわふわの尻尾をパタリパタリと動かしていた。

 平和そのものだった。

 ほんの一時間前まで、巨漢のアラブ人や目に見えないモンスター向こうにまわして大活劇を繰り広げていたのが嘘のようだ。

 本当に夢だったのではないだろうかとすら思えてくる。

 だが、そうではない。

 向かいに座る従妹は両手でマグカップを包み、ふうふうと息を吹きかけている。

 伏し目がちのペリドットの瞳が、時折自分の首元に向けられるのに、蔵人は気づいていた。

 蔵人は首にそっと手を当てた。そこには、アルハザードの指跡がくっきりと残っていた。

 先ほど、ソーニャが塗ってくれた軟膏のおかげもあってか、痛みはあらかた消えている。だが、明日には痣になっているだろう。消えるには一週間ばかりかかるだろうか。

 ソーニャが気にしているのはそのことだろう。

 蔵人はもう一口コーヒーを啜ると、おもむろに切り出した。

「あのさ––」

「ごめんなさいっ」

 ソーニャは勢い込んで言った。

 蔵人は目を瞬かせ、マグカップ越しに少女を見やった。

「あなたを危険な目に合わせてしまって……本当にごめんなさい」

 ソーニャはそう言って顔を伏せた。声に滲んだ悔恨の色が、蔵人の胸をちくりと刺した。トレードマークのツインテールも、今は心なしか萎れて見えた。

「どうして君が謝るんだい?」

「それは……今回のことぜんぶ、わたしが『ネクロノミコン』を洗っちゃったせいだから」

 そしてソーニャは、迷宮の中でホイエルに話した自説を蔵人に開陳した。

 洗濯機の『ネクロノミコン』化現象の謎。英語を話すアルハザード。倒すと紙屑と化すクリーチャーたち……。

 蔵人は戸惑いながらも、自分の理解の及ぶ範囲でソーニャの物語を噛み砕いてみた。

「ええと、つまり、洗濯機で回されちゃったことで崩壊の危機に瀕した『ネクロノミコン』が自己保存のための亜空間を作って、アブドゥル・アルハザードのアバターを使って時間を操る邪神の力で本が洗濯される前に時を戻そうとした……ってこと?」

「そうなの」

 ソーニャはこくこくと頷いた。

「なるほど……」

 蔵人は腕を組んで考え込んだ。本一冊と交換に、邪神に捧げられるところだったのか。

「でも、そこを君が助けてくれたわけだし……」

 蔵人の言葉に、ソーニャは頭を振った。

「……わたしが、ちゃんとしていれば、クロードに怪我させずに済んだのに」

 ソーニャはそう言うと、再び俯き、手の中のカップに視線を落とした。

 その中身はすでにすっかりぬるくなり、コーヒーの面にはミルクが膜を張っていた。

「わたし、クロードと一緒に居ないほうがいいのかな……」

 ぽつり、と呟いた少女の声は、微かに震えを帯びていた。

「……わたしが側に居たら、クロードを危ない目に遭わせちゃう」

 蔵人はすこし躊躇ってから、対面の少女のカップを包んだ手に伸ばした。

 指先が触れた瞬間、ソーニャはぴょこんっ、と背筋を伸ばし、ペリドットの瞳を丸くして蔵人を見返した。

「君のせいじゃない。誰のせいでもないよ。『ネクロノミコン』が洗濯物に紛れちゃったのは不幸な偶然だし、洗濯機の中があんなふうになるなんて誰にも予想できないことだよ」

「でも……」

「首ももう、全然痛くないんだ。ソーニャが薬のおかげかな」

 青年は首に手を当てて言った。全く言葉通りというわけではないが、従妹の辛そうな顔をしている方が蔵人にはずっと堪えた。

「だからもう、そんなに気に病まないでほしい。二人とも、無事に戻って来れたわけだし……それにホイエルも」

 台所の片隅で、灰色猫が尻尾でぱたり、と返事をした。

「それに、君がそばに居てくれるおかげで、僕の人生がどれほど豊かになっていることか」

「……ふぇ?」

「ソーニャが一緒にいてくれるのおかげで、毎日楽しいんだよ、本当に。だから……」

 そこまで言って、蔵人は言葉に詰まった。

「その……そんなふうに思わないでほしいというか、今後ともよろしくというか……」

 なんだか自分が、的外れなことを言っているような気がしてきた。

 ソーニャはしばしの間、しどろもどろに話す青年の顔を見つめていたが、やがて、その口元がふっとほころんだ。潤んだ目元に笑みが浮かぶ。

「……うん。わたしも、クロードと一緒にいられて幸せ」

 少女はそう言うと、マグカップから手を離し、従兄の手に重ねた。

 しなやかな指先がじんと熱を帯びていることに、蔵人は気づいた。

 窓から差し込む西陽のせいか、その耳や頬は、まるで紅葉を散らしたように赤らんで見える。

 時が止まったかのような一瞬。

 二人の目は、互いの顔を見つめていた。

 やがて、少女がそっと身を乗り出し––。

 その時、ガタタタッという激しい音が脱衣所の方から響いた。さらに、ピーピーという無粋な警告音が続く。

 キッチンを包んでいた魔法にかかったような空気は、儚くも崩れ去っていた。

「……また洗濯物、絡んじゃったかな」

 蔵人は苦笑を浮かべ、腰を浮かせかけた。

「だめだめ、クロードは座ってて!」

 ソーニャが慌てて席を立った。

「いいよ、あの洗濯機はちょっとコツがあるから……」

「もし万が一なにかの魔法が残ってたらどうするの? というか、もうクロードは洗濯機使用禁止ね」

「ええ……」

 仲睦まじい様子で廊下に出る二人の背後で、ホイエルは首を起こして、くしっくしっと身体を舐め始めた。

 お腹の和毛を舐めたピンク色の舌に、粉々に粉砕された『抄訳Fネクロノミコン 附イブン・ハッリカーンによるアルハザード伝』の切れ端がひっかかった。灰色の大猫はぺぺっとそれを吐き出し、フンと鼻を一つ鳴らすと、またもとの毛繕いへと戻っていった。

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間違って『ネクロノミコン』を洗ったら洗濯機の中がダンジョンになってしまった〜ソーニャ・H・プリンの冒険〜 ねこたろう a.k.a.神部羊児 @nekotaro9106

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