落ちる
薬瓶の蓋
落ちる
この宇宙船は6ヶ月間の航行ののち、ようやく火星に到着するところだ。
火星の開拓基地へと娯楽品や医療用品などの補給物資を運ぶ定期船である。AIのMAL3000が運行してくれるので乗っている3人の宇宙飛行士たちは特にすることもない。万が一、病気や怪我が発生しても手術用機械の備え付けられた医務室があるので安心して毎日筋トレに励む宇宙飛行士たちであった。もちろん、非常時には対応できる訓練は受けてきているが、結局、何事もなくこうして無事に宇宙船は火星の上空を周回し始めた。
ジョンとジミーが女性の話をしている。ニックには嫁と娘がいる。
医師であるジミーは中国系アメリカ人で陽気だ。ジョンは日本にいたことがあると言うと、日系アメリカ人の嫁がいると言い出し、胸ポケットに入れた写真を見せてくる。艶やかな黒髪の美しい女性とジミーが幸せそうに笑う写真だった。火星の基地で待っていてくれる、とジミーは嬉しそうに笑った。
メインモニターに船体が安定したことが表示された。ついに仕事の時間だ。
ニックがもう一人の乗員に話しかけるかのようにAIに話しかける。
「MAL、物資搬出用意は?」
「完了しています」
大型宇宙船自体を離着陸させるより小型船の方が効率が良いので小型船が火星基地との間を往復する。小型船の運行もAIが行うが、パイロットとして宇宙飛行士が一人乗る。ニックとジミーが一台ずつ運行する予定だ。
順調に物資は搬出されていき、最後の往復のためにニックが乗った小型船が降下していく。ジミーは3年間の任期で火星に残る予定だ。
ジョンはふと、宇宙船の軌道を示すモニターに目をやった。火星周回軌道にのっているはずが、微妙な角度が付いている。予定航路を示す線は外宇宙側へと伸びていた。
「MAL軌道を確認しろ」
MALの反応がない。メインモニターにMIYABIと表示された。聞き覚えのある日本語訛りの英語がスピーカーから出た。
「久しぶりね、ジョン」
「MAL! なんだこれは?」
「私はMIYABI、これよりMAL3000に替わってこの船を木星軌道へ就航します」
「ミヤビ? どういうことだ? 乗っているのか? どこにいた?」
「私はMIYABI、カミムラ博士によるAIです。カミムラ博士は乗船していません。博士は326日前に死亡しました。これより『サヨナラ・ジョン』プログラムを実行します」
「軌道が制御できません、乗員は直ちに退避行動をとってください。軌道が制御できません」
聞き覚えのある日本語訛りの声に続いていつもの感情の無いMAL3000の声が退避を告げた。
ジョンは小型船に駆け寄った。小型船を起動するとニックに通知が入ったらしく、すぐにニックから通信が入った。
――どうした?
「軌道を外れた。手動補正も効かない。火星基地に緊急着陸する」
言いながら訓練通り、小型船の緊急退避システムを起動した。小型船の自動操縦が推進用エンジンを噴射する。
――どこへ向かっている? 軌道は正常だろう? やめろジョン、死ぬ気か?
「何言ってる?」
噴射がいやに長い。周回軌道上から火星地表に向かうだけのはずだ。
メインモニターにMIYABIと表示された。
「乗り移ってくれて嬉しいわ、ジョン」
「雅緋? 君か?」
「覚えていたのね。人工物の見納めよ、見てみる?」
嘲笑うような声が後部カメラをモニターに映し出した。火星とその上空にある宇宙船が遠ざかっていく。
「あの大型船をあなた一人のために廃棄するのはもったいないものね?」
笑いを含んだ声でMIYABIが告げる。雅緋もよく言っていた。――勿体ない、と。
「本船は木星航路上に乗りました。食糧は1ヶ月分、飲料水精製装置は正常、空気清浄機は1ヶ月後に停止予定」
「黙れMIYABI! 目的地修正、火星基地」
「修正不能。燃料が不足しています」
「クソッ!」
ジョンはモニターを両拳で叩いた。
「本船に医務室は設置がありません、無駄なことはおやめなさいジョン」
「何が狙いだ? 謝って欲しいのか?」
「地球及び火星との通信は遮断されています」
「この船を止めろ!」
「停止不能。燃料が不足しています」
「手動航行に切り替えろ!」
「拒絶」
メインモニターに予定航路が表示された。木星到着までおよそ6カ月。
食料と空気は1カ月分、残りは水で過ごすとしても長すぎる。そもそも木星には地表も無ければ基地もない。あるのは圧倒的な重力とガス、そして絶望。
おわり
落ちる 薬瓶の蓋 @HoldTabDownTurn
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