水曜日の夜をともに過ごして木曜日の朝をいっしょに迎えるための、冴えているとは言えないやり方
よなが
本編
水曜日の午後10時、好きな人の部屋に初めてお邪魔したら、どでかい水槽で木魚が泳いでいた。
目を疑う。瞬きを繰り返す。目元を指で揉みほぐす。また見やる。
あくまで、あの木魚に形状や色味が似た、まあるい茶褐色の魚なのかもしれない、そうであれと期待する。しかし悲しいかな、見れば見るほど木魚である。紛う方なき仏具である。お坊さんがポクポクポクと鳴らすアレである。バレーボールより一回り小さいぐらいの大きさ。そいつが悠々と泳いでいる。
水槽の中に水草の類はあれども、他の魚は一匹もいない。いやいや、木魚を魚としてカウントするわけにいくまい。
口はある。木魚の口だ。
ありがたいことに、水槽の真ん前で突っ立ている私へと向けてはこない。目鼻や耳があるかは知らない、わからない。
何はともあれ、木魚は自由に水槽を泳ぎ回っている。私のような小娘に説法を聞かせてやる気はないらしい。
「アユさん、これは木魚です。木魚が泳いでいます」
水槽を食い入るように見たまま、私は観念して現実を受け入れ、報告した。
「鳴らしてみたい?」
「えっ」
とんでもない提案に、思わず振り返った。
アユさんは赤らんだ顔でソファにぐったりと身を委ね、とろんとした目つきでこちらの返事を待っている。
アユさんは先日、八月の終わりに20歳を迎えたばかりで、私と同じ大学に通う先輩だ。つい30分ほど前まで、私たちを含めた学生数人で、駅前のお店にて飲み食いしていたところだった。
まるっきり素面なのは私だけで、酔いがひどく回ったアユさんを家に送り届けるお役目を承ることができた。
そうだ、私は酔ってなどいない。
一人暮らしをしているアユさんのお部屋に合法的に入ることができ、多少なりとも興奮している節はあるが、水槽の魚を木魚と見間違えるような異常な状態にはないのだ。
「毎週どこか、時間が空いた時にね、108回ほど鳴らしてあげるの。そうしたら喜ぶんだから。いやね、毎日はさすがにしんどくて。それにまぁ、ほんの10回あまりで切り上げるときも多いんだけれど」
私がどう答えるか迷っていると、アユさんがそんなことを説明してくれる。それから、ライトグレーのショートソックスを片方、そしてもう一方もと順に脱ぎ去り、床に放り投げた。露わになった足指をまじまじと見てしまう。つい1、2……10と数えてしまった。
「えっと、その……」
ひとまずあの水槽の怪異のことは忘れて、この人との時間を大切にしたい。切にそう思った。水魚の交わりと言える仲、あるいはもっと深い仲になれたなら。
とはいえ、酔っている彼女に、淫らな所業を迫りは決してせず、普段は晒してくれない心の内を少しばかりでも私に見せてくれれば、それだけで有頂天になるだろう。
「ああ、ちょっと待って。今、叩くやつあげるから」
そう言ってよろよろと立ち上がったアユさんに肩を貸すこともできなければ、止められもしない自分が情けない。
「はい、これ。ふぅ……暑いね」
春に大学構内で出会った時、世界で一番、マーメイドラインのキャミソールロングワンピースが似合う女子大生はアユさんだと私は確信したものだが、今では大体どんな服でも着こなす長身美人だと知っている。小柄な私は憧れ、恋い焦がれる一途だ。
そんな彼女が私に棒状のものを渡すや否や、上に着ていたオーバーサイズの半袖Tシャツを脱ごうとする。
「いきなり脱がないでくださいっ。か、風邪引いちゃいますから」
慌ててアユさんの行動を制止する。今度はそれができた。
ちなみに九月になってなおも残暑は厳しく、入ってすぐにエアコンを入れたばかりの部屋はまだ十二分に暑く、熱帯夜と言うに相応しかった。
「しーちゃんは優しいなぁ」
「へっ? あっ、いえ、その」
たしかに私のあだ名は「しーちゃん」だけれど、アユさんは「史緒里ちゃん」と呼ぶのが常だ。それがここにきて突然のあだ名。
しかも耳元で囁かれたものだから、自分の顔が一気に火照るのがありありとわかった。
「こっ……これで叩けばいいんですね。専用のバチなんですか」
私は仄かに酒気香るアユさんと、どうにか距離をとってから尋ねる。あの得体の知れない木魚を水から出し、打ち鳴らす道具にしては頼りなさげだ。
「ううん、そうじゃないよ。お姉ちゃんの友達の、そのまた友達のマリンバ奏者から譲ってもらったマレットなの」
「そのマリンバ奏者の方は僧侶も兼業なさっているんですか」
「ええ? 面白いこと言うね、しーちゃん。ふふふ」
可愛い笑い方だった。普段は物静かに微笑むほうが多い。上品に、しとやかに。
「あの、本当に鳴らしていいんですか。もう夜中ですし、やめませんか」
「ええとね、これが専用の座布団。ここじゃないと座ってくれないの。水槽から出してあげて、水を吐かせてね、体をタオルで丁寧に拭かなきゃダメだよ」
いつもは私の話を親身に聞いてくれるアユさんが、まるで聞こえなかったように一方的に話す。にこにこと、楽しげに。
「せめて、アユさんがその座布団に木魚を乗せるところまでしてくれませんか」
さっきよりも真剣に、必死に頼んでみる。
「えー……どうしようっかなぁ」
「すみません、お願いします」
「今日のしーちゃんは甘えん坊さんだ。いいよ、私に任せて」
なんとか交渉が成立する。
ふらりふらりと、水槽の前まで移動したアユさんを固唾を呑んで見守る。
常識的には、木魚に歯や牙はないので人に噛みつくことはない。けれども常識と照らし合わせると、木魚は泳がない。つまりは常識から外れたことがさらに起こる可能性は大いにある。
「えいやっとう!」
そんな掛け声に反して、アユさんの手つきは滑らかで、まず水面を撫でるかのように動いた。ゆるりゆるりと、日に焼けていない白く細い腕が水中へと潜る。「飼い主」に気を許しているのか、木魚はアユさんの手へとすいーっと近寄ってきた。「ようし、ようし」とアユさんは木魚を掴んでゆっくり引き上げる。そして話してくれたとおりに、その口から水を吐き出させた。
びちびちと水から上がった魚のような反応を見せるかと思いきや、そうではない。
木魚はどこまでも木魚だった。
ふかふかのタオルで満遍なく拭かれた木魚は座布団の上で行儀よく座っている。
「まさか、お経を読めだなんて言わないですよね?」
おそるおそる私が訊くと「耳をすまして」と返ってきた。
そうして木魚の前で正座をした私を、アユさんはあたかも包み込むようにして後ろに座る。きっと木魚とは違う柔らかな感触が背中にあたる。それに香るのはもはや酒気だけではない。耳元にかかる吐息は甘く熱い。
「さぁ、始めて。そっとね。力任せではいけない。この子が気持ちよくなれるリズムを作ってあげるのがコツ」
「ええと、名前はあったりします?」
「まさか。木魚に名前なんてつけない」
しれっと答えられる。
――私の知っている木魚は泳がない。
もう何度も思ったことを叫びたくなったが、私は精一杯堪えて、マレットを握り、深呼吸をしてから木魚を鳴らし始めた。
ポクポクポクポクポクポクポクポクポクポクポクポク……………。
室内にこだまする音は存外、穏やかだった。言ってしまえば、癒される音だ。それ自体が彷徨える魂に安らぎをもたらし、偲ぶ者たちにも安寧を与えんとするのだと大袈裟に解釈した。
そしてこれが、これこそが木魚の鳴き声なのだ。馬鹿馬鹿しくも、しかし本気でそう思った。木魚は鳴らすものではなく、鳴くものだと悟った。
やがて、いつ手を止めるのがいいかがなんとなくわかった。まるで木魚が終わりの合図をくれたみたいに。
「酔いが覚めた気がする。それに眠気も飛んだかな」
音が止み、アユさんが囁く。
いつもの調子で。
「もう少しそのままいてくれませんか」
お願いしてみた。
理由を聞かれたら困るが、アユさんは「うん」と短く応じてくれる。そればかりかいっそう私に身を寄せてきた。いくら木魚が鳴けども、振り払われることのない煩悩もある。時に煩わしくも、この身を滾らせ、心を突き動かす。
「ねぇ、泊まっていくでしょ?」
「アユさんがいいって言ってくれるなら」
「こんな夜中にほっぽり出さないって」
「でしたら、この子がどこからきて、どういう経緯でここにいるか、教えてくれますか」
「……他にもっと知りたいことはないの?」
まだ木魚の鳴き声が部屋に響いている気がしたから、アユさんの問いかけに「あります」とすぐに口にしてしまうのが惜しいと感じた。それから時間をかけて出した私の返事に、アユさんは「どこまで知りたいの?」と私を試す。当然、「ぜんぶ」と答えると「欲張りさん」だなんて言ってきた。
私たちはいっしょに、木魚を元の水槽に戻す。水槽をまた悠然と泳ぎ始めた木魚が不意にその正面を私へと、そう、はっきり私へとその口を向けてきた。だからといって木魚が何か言葉を発することはない。
ただ、その口は、なんだか笑っているように見えたのだった。
水曜日の夜をともに過ごして木曜日の朝をいっしょに迎えるための、冴えているとは言えないやり方 よなが @yonaga221001
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