まがごとの手帳

からすば晴

ケース01:窓にて笑うもの

 202x年 6月20日 都内


「先生は地下鉄に乗ったことってありますかね?」


 喫茶店の席の真向かいに座るなり、猫背気味の男はそんなことを言った。


(初対面の相手に、挨拶より先に言う言葉がそれ・・か?)


 私は呆れた気持ちを表情筋の奥にしまい込み、笑顔を浮かべてみせる。


「ええ、もちろん。東京の辺りに住んでいたら、地下鉄に乗らないまま過ごす方が難しいでしょう」


「ああ、そうですよね。すみません、先生にお会いできて嬉しかったもので、つい……」


 男はストローの包装紙をいじりながら、ひどく落ち着かない様子で視線をさまよわせていた。

 彼は田川さん(仮名)。

 年齢は40代前半で、職業は会社員だという。SNSのDMで連絡をとった相手だから、それ以上の詳しいことは知らない。知らなくてもいい。私が興味を持っているのは、彼の身に起こった出来事だけ。それ以上のことは無用な詮索というものだ。


「いえいえ。初対面なんですから、緊張するのは当たり前ですよね。私だって、こう見えてけっこうそわそわしています」


「そう言っていただけると、なんだか気が楽になります。あ、コーヒーを飲んでも……?」

「もちろんです。氷が溶けてしまう前に、どうぞ」

「では遠慮なく……」


 田川さんはストローでグラスをかき回す。カチャカチャと耳障りな音を奏でたあと、ズゥッとアイスコーヒーを啜った。

 グラスを持つ手は、小さく震えていた。


「……ふぅ、少し落ち着きました。あらためて、私の話を聞いていただきたいのですが……」

「ええ、かまいません。念のため録音させていただきますが、問題ないですね?」

「はい。プライバシーを守っていただけるなら」

「もちろんです」


 携帯型のレコーダーを取りだして、スイッチを入れる。


「では、お話してください。あなたの身に起こった禍事まがごとを――」



 *  *  *



 田川さんは、都内のオフィスに勤務する会社員だ。家は隣の県にあり、私鉄と地下鉄を乗り継いで通勤している。

 多くのサラリーマンの例外に漏れず、毎日の残業は当たり前。だいたい夜9時まで働いて、そこから1時間半ほどかけて帰宅するそうだ。


『オフィスに残れる時間が月に何十時間って決まっていましてね。残業も計画的にしなきゃいけない。参っちゃいますよね』


 毎日決まった時間残業すると、必然的に乗る電車の発車時間と車両は同じになってくる。その日も、田川さんはいつもの地下鉄に乗りこんだ。


 ガタン、ゴトン

 ガタン、ゴトン

 ギイィィィ、ガタン、ゴトン


 列車の振動と、カーブで車輪がレールに擦れる音が響いている。こんな時間でも都内の地下鉄には乗客が多くて、田川さんはいつも目的の駅まで立っているそうだ。残業で頭が疲れていた田川さんは、スマホを見る気にもなれず、つり革を掴んでぼーっと仕事のことを考えていた。


 窓の外では、明かりひとつない地下鉄の壁が通り過ぎていく。外の電車と違って、地下鉄の窓はなかば鏡のように車内を映していた。


「え……?」


 田川さんは思わず声を漏らした。地下鉄の窓が、ふいに曇ったのだという。


『曇ったというか、汚れたというか……ああいや、けぶったって言うのが正しいのかもしれません。とにかく、モヤのようなものがぼうっと浮かんだ気がしたんです』


 田川さんは何度かぎゅっと目をつぶった。朝から晩まで目を酷使しているのだから、なにか異常でも起きたのではないか……と思ったのだという。


『でもね、やっぱり浮かんでいるんです。私の正面に留まっているんですよ』


(一体、なんだこれは?)と思って周囲の反応を確かめてみると、隣に立つ中年の男はスマートホンを見ていて、気付いていない。ちらりと振り向くと、座席に座っている若い男が、怪訝そうな顔で見返してきた。慌てて姿勢を戻して、窓の異常に向き直る。

 相変わらず、窓にはぼんやりとした塊が浮かんでいた。


『本当に誰も気付いていないのかな。もしかして脳の方かなって怖くなったんです。それで、もう1回周りをチラチラ見てみたんです。そうしたらね、1人だけいたんですよ。真っ青な顔で窓を見ている人が』


 隣の中年男性の、さらに隣。1人挟んだところに立っていた女性だったという。面識はないが、その時間の電車に乗ると、よく見かける人だった。


 女性は目を見開き、強ばった表情で窓をじっと見ていた。

 ただ、その様子は田川さんが期待していたものとは、少し違ったようだ。


『その人はね、真っ直ぐ正面を見ていたんです。私が妙だなって思ったものは、私の正面に浮かんでいるんです。だから、その人が私と同じものを見ていたわけじゃぁないんですよ』


 いったい、女性には何が見えていたのだろうか。もし自分と同じものだとしても、そんなに驚くほど……怖がるほどのものでもないだろう。

 田川さんは悩んだ。

 いくらよく見かける人だからといって、知らない女性に声をかけるのは問題にならないだろうか? しかも、すぐ隣ならともかく、1人挟んでいると絶妙に話しかけにくい。


『結局、あれこれ考えているうちに、次の駅に着いちゃいました。女の人は、そこで降りてしまったんです』


(ああ、しまったな)と思った田川さんは、諦めて窓に視線を戻した。


 モヤは消えていた。


 幸い、目の前に座っていた客も降りたので、顔を近づけて窓ガラスを確かめてみた。やっぱり、これといって異常はなく、汚れも付いていなかった。

(やっぱり目の病気なのかな?)

 そう思った田川さんは、翌日の午前中に会社を休んで眼科に行ったが、特に病気は見つからなかったという。


『ただね。次の日から、あの女性を見かけないんですよねぇ……』


 *


 田川さんは地下鉄の窓でたびたび似たようなものを目撃するようになったという。最初ぼんやりしていたそれ・・は、見るたびに少しずつ濃くなっていったそうだ。


『私ね、なんか分かっちゃったんですよ。これはモヤとか煙じゃなくて、シミみたいなものだって』


 人間と同じくらいの大きさのシミが、窓ガラスにジワッと広がっている。それは決まって田川さんの正面にいて、他の人には見えないそうだ。


 働きすぎで幻覚を見ているのかもしれない。

 もしかしたら脳や精神に深刻な病気を抱えているのかもしれない。

 それでも仕事を休むわけにはいかなかった。


『私、あまり器用な方じゃありません。どちらかというと要領が悪くて、何をするのも遅いんです。人に相談したら“休め”って言いますけれどね、もう40過ぎて平社員やっている男が仕事を休んだら、もう居場所なんてありませんよ』


 最初は不気味に思っていたシミも、だんだん気にならなくなった。それよりも、翌日の朝のことで頭が一杯だったからだ。


(あのプロジェクトの資料をまとめて、メールを返して、それから溜まっているレポートを書いて、申請書も出さなきゃ……)


 忙しい。

 忙しい、忙しい、忙しい。

 どうしてこんなになるまで頑張っているのだろうか。


 頭だか心だかが壊れたら、いっそ動けなくなったら、もうこんな毎日を終えることができるのだろうか。


 ……そんな考えが頭をよぎったとき。

 ふと、視界に黄ばんだものが見えた。


 歯だ。

 歯が並んでいる。


 にぃっ・・・とつり上がった裂け目から、歯がのぞいている。


「は……?」


 目の前の窓にシミがある。

 そのシミは凸凹があって、てっぺんにはちょうど人間の頭くらいの楕円だえんがある。

 楕円の根元の、ああそうだ、ちょうど口に当たる部分が裂けている。

 大きさは不揃いで、見にくく黄ばんだ歯が見える。


(笑っている。私を笑っている……)


 田川さんは、直感的にそう感じた。

 幽霊とか妖怪とか、そういうものじゃないかというのは、今思い返しているから考えられるころで、当時はただ恐ろしくて何も考えられなかったそうだ。


『考えてもみなかったものに遭うと、人間って動けなくなるものなんですよ。大声で叫んだり、逃げ出したりするなんて、お話のなかだけなんですねぇ』


 何度も何度も呼吸を繰り返すうちに、田川さんはようやく“体を動かす”ということを思い出した。つり革を力いっぱい掴んでいた手を開き、後ろに一歩さがる。


 ぎゅっ


 かかとが何を踏んだ。


「あ……」


 一瞬遅れて、後ろの人の足だということに思い至る。その日も地下鉄は、それなりに混んでいる。


「す、すみませ――」


 謝罪の言葉は最後まで言えなかった。振り向いたとき、後ろの人と目が合ったからだ。中年の男性だった。その顔はうつむきがちで、手にしたスマホに向いている。そのまま上目遣いで田川さんを見ていた。

 笑っている。

 不自然につり上がった口からは、黄ばんだ歯がのぞいている。


「ひっ」


 足から力が抜けた田川さんは、そのまま座席に倒れ込んでしまった。席には初老の女性が座っていて、その膝の上に上半身を預ける形になる。

 女性は怒らず、笑って田川さんを見下ろした。


 気がつけば、周りの乗客がみんな田川さんを見ていた。

 みんなみんな笑顔だ。


 田川さんは震えあがった。

 少しでもはやく、この異常な車両から逃げたかった。

 そして次の駅で降りよう。


 一度動けば、もう体は自分の思うとおりになった。

 立ち上がり、乗客を押しのけて進もうとする。

 車両の連結ドアを探して視線をめぐらせたとき――


 田川さんがいた・・・・・・・


『窓にね、私が写っているんです。ほら、シミが浮かんでいたところに。にぃって笑った私が、私を見ていたんですよ』



 * * *



「そこで意識がぷっつり切れてしまいまして。気がついたら終点で駅員さんに起こされていました」

「終点? 次の駅ではなくて?」

「ええ、終点です。座席で寝ていたようで。運良く座れたから、夢でも見ていたんじゃないかと思えば気が楽なんですけどね」


 田川さんは両手で頭を抱えた。


「あの笑顔が、ずっと頭に焼き付いて離れないんです。もう地下鉄で変なものを見ることはありません。けれど、毎日毎日、どこかであの笑顔を向けられている気がして……」

「……それは、お気の毒に。お仕事に支障もあるでしょう」

「ああ、いえ。仕事は順調です。最近、なんだかコツが掴めてきたみたいで」

「そうなんですか。それは、よかった」


 田川さんは、すっと顔を上げた。


「でも、会社の同僚からは距離を取られています。どうしてなんでしょうか。やっぱり、あの妙なシミのせいでしょうか。どう思いますか、先生?」


 猫背気味の田川さんは、やや上目遣いに私を見つめている。

 その不自然につり上がった口からは、不揃いで黄ばんだ歯が覗いていた。


〈了〉

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