青の記憶、波間の声

青の記憶、波間の声

 風は常に海の匂いを運んでくる。塩の香りが鼻孔をくすぐり、どこか遠くでざわめいた波の音がようやく届く。御浜市という、この小さな海辺の町では、そんな風景が日常を形作っていた。


 佐藤翔太は、いつものように放課後の図書室で本を読んでいた。窓から見える海は、今日も濃紺色に染まっている。それは美しくもあり、どこか物悲しくもあった。彼は時折、目を上げては海を眺めた。まるで、その青に呑み込まれそうで、かつ呑み込まれたくてたまらないかのように。


 翔太の生活は、そんな静かな時間の積み重ねだった。両親の離婚後、母と二人で暮らす彼にとって、この図書室は安らぎの場所だった。古びた本の匂いと、ページをめくる音。彼を包み込み、現実から少しだけ遠ざけてくれる空間。


 そんな生活に、小さな石ころが投げ込まれたのは五月のことだった。転校生の白石美咲は、まるで霧の中から現れたように、ふわりとクラスに紹介された。


「白石美咲です。よろしくお願いします」


 その声は小さく、どこか遠くから聞こえてくるようだった。クラスの仲間たちは彼女の奇妙な雰囲気に戸惑いを隠せなかった様子だった。彼女は、何を質問されても、おぼつかない返事しかできず、いつだって上の空といった様子だった。


 後に翔太は知ることになる。美咲には記憶障害があるのだと。そして彼は、図書委員として彼女の学校生活をサポートすることになった。


「ごめんね、迷惑かけちゃって」


 美咲はそう言って、申し訳なさそうに微笑んだ。その笑顔には、どこか影があった。まるで、自分自身の存在を否定したくてたまらない、おびえた犬のように。


「いや、気にしないで」


 翔太は特に感情も込めずに答えた。感情は言葉にするほど厄介だから。


 二人きりになると、美咲は少しずつ心を開いていった。彼女の記憶は断片的で、自分が何者なのかさえ曖昧だという。ただ、絵を描くことだけは覚えていた。美咲のスケッチブックには、不思議な風景や人物が描かれていた。それは現実のようで現実ではなく、夢のようで夢ではない、なんとも奇妙な世界だった。


「これ、どこかの風景?」と翔太が尋ねると、美咲は首を傾げた。


「わからないの。でも、描かずにはいられなくて」


★★★

 翔太の幼なじみで水泳部のエース、青木陽菜は複雑な表情を浮かべていた。プールサイドに立つ彼女の姿は、まるで人魚のようだ。しかし、その大きな瞳には、言葉にするのも難しい、藍色の感情が色づいている。


「翔太、あの子のこと、気になる?」


 陽菜は翔太を見下げながら尋ねた。プールの水面が陽菜の表情を揺らめかせる。陽菜の前髪から水滴がしたたり落ちて、翔太のプールサイドで寝そべる翔太の頬を濡らした。


「別に。先生に言われているから付き添う時間が多いだけさ。でも、なんていうか……不思議な子だよね」


 そんな翔太の言葉に、陽菜は苦笑いを浮かべた。



 数日後、じめじめとした梅雨の空気が街を包み込む中、図書室で美咲が古い新聞を見つけた。そこには30年前に発生した「高校生失踪事件」が報じられていた。被害者の名は中村舞。白石美咲は、その記事を見た瞬間、激しい頭痛に襲われた。


「私、この子のこと知ってる気がする…」


 美咲の言葉に、翔太は驚いた。彼女の記憶と30年前の事件が関係しているなんて考えると、推理小説好きの翔太は好奇心に満ち溢れてしまったのだ。どういうわけか、青木陽菜も しぶしぶその調査に協力することになった。


 梅雨の晴れ間、学校帰りに三人は街を歩き回った。古びた木造の家々が立ち並ぶ狭い路地を抜けると、潮の香りが強くなる。遠くで波の音が聞こえ、かもめの鳴き声が空を切る。


 海沿いの道は、所々が波で削られ、アスファルトがむき出しになっていた。そこかしこに咲く彼岸花が、まるで過去の秘密を守るかのように赤々と輝いている。三人は、潮風に吹かれながら、古老たちの家を訪ね歩いた。


 最初に訪れたのは、元漁師の中西さんの家だった。庭には干されたワカメやヒジキが風に揺れ、玄関先では三毛猫が気だるそうに昼寝をしていた。軒先に吊るされた風鈴が、かすかな音を奏でている。


 次に向かった岡本さんの家は、かつて遠洋漁業で栄えた名残なのか、西洋風の古い洋館だった。しかし今は、塗装が剥げ、庭は雑草が生い茂っている。かつての栄華を偲ばせる屋敷は、何か物悲しい雰囲気を漂わせていた。


 三人目の鈴木さんは、小さな駄菓子屋を営んでいた。店の前には色とりどりの風車が回り、懐かしいお菓子の匂いが漂う。店内に入ると、時が止まったかのような昭和の雰囲気が三人を包み込んだ。


 話を聞いて回るうち、夕暮れはあっという間に三人を呑み込んでいく。西陽に照らされた海は、まるで燃えるように赤く染まり、その美しさに彼らは足を止めた。遠くに見える灯台が、ゆっくりと光を放ち始める。


 美咲は海を見つめながら、静かに言葉を紡いだ。


「この町は、きっと貝殻みたいなものかもしれない。外側は分かるけど、中には聞こえない波の音が閉じ込められているの。私たちは、その音を聴こうとしているのかもしれないね」


 夕暮れの海は、まるで美咲の言葉に呼応するかのように、深い紫色に染まっていった。波の音が、これまで以上に意味深く響いてくるようだった。


 結局のところ、多くの人が事件の詳細を覚えていなかった。まるで、街全体が事件のことを忘れようとしているかのようだった。


「こんな大事件、誰も覚えてないなんて、おかしくないか?」


そんな時だった。中村舞の日記が見つかったのは。

図書室の書棚の奥深く、大きな百科事典の間に挟まっていた日記には、「心の浄化プログラム」なるものへの参加が記されていた。それは、90年代に流行したニューエイジ思想を取り入れた集団催眠療法のように思われた。


 美咲は日記の内容に強い既視感を覚えた。そして、彼女が描く絵にも変化が現れ始めた。スケッチブックには、海辺で佇む少女の姿が繰り返し描かれるようになった。その少女を見た翔太と陽菜は驚いた。

失踪した少女、中村舞そのものだったからだ。


「この子、私なの?それとも…」


 美咲の問いかけに、答えられるものは誰もいない。


 梅雨が明け、夏の日差しが町を照らし始めた頃、事態は思わぬ方向に動きだしていた。青木陽菜が海辺で泳いでいた時のこと。海水中で奇妙な人影を目にしたのだ。


「誰かいた。海の中に…人が立ってた」


 震える陽菜の声に、翔太と美咲は顔を見合わせた。


 恐怖に駆られた陽菜は、町の資料館に向かった。そこで彼女は、街の歴史を記した書籍の中に、30年前の「心の浄化プログラム」に関する記録を発見する。


★★★

 その頃、白石美咲は頭痛と幻覚に悩まされ、街はずれの小さな病院を受診していた。翔太は病院帰りの美咲を迎えに行くのが日課となっていた。


「私、何かを思い出そうとしてる。でも、怖いの…」


 美咲はそう言って、翔太の手を握りしめた。その手は冷たく、震えている。病室の窓から見える海は、いつもより黒く、深く見えた。


「焦ることはないさ」


 翔太の言葉に、美咲は微かに頷いた。


 しかし、美咲の家につくと、彼女の両親から衝撃の事実を聞くことになる。

その日は、珍しく穏やかな海の日だった。美咲の家の縁側に四人が座り、遠くに広がる海を眺めながら、重い口を開いた。


 夏の終わりを告げるように、庭に赤とんぼが舞っている。風に揺れる風鈴の音が会話の間を埋めていく。潮の香りが微かに漂う中、美咲の母は震える手で冷たい麦茶を口に運んだ。


「美咲、あなたには話しておかなければならないことがあるの」


 母の言葉に、庭の木々がざわめいた。その瞬間、雲の切れ間から差し込んだ一筋の光が、まるで過去の記憶を照らすかのように、美咲の顔を柔らかく包み込んだ。


「あなたが幼かった頃、この街の海で……溺れかけたことがあったの」


父が続けた。「そして、もう一つ。美咲は……失踪した中村舞さんの遠縁にあたるんだ」


 美咲の目が大きく見開かれる。その瞳に、海の深い青が映り込んでいた。遠くで鳴るかもめの声が、この衝撃の告白に伴奏するかのように響いた。縁側の柱に掛けられた古い風景画の中の海が、まるで動き出したかのように波打って見えた。


★★★

 30年前、地域再生の名のもと、街おこしの一環として「心の浄化プログラム」と呼ばれる集団療法が行われていた。それは当初、ストレス解消や自己啓発を目的としていたが、やがて参加者の意識に強く働きかける危険な手法が使われるようになっていった。


 中村舞はその実験の被害者の一人だった。彼女は「プログラム」の中に何かを目撃し、それを告発しようとしたが、突如として失踪してしまった。街の有力者たちは事件の真相を隠蔽し、舞の存在自体を記録から抹消しようとしたのだ。


 美咲の母もまた、かつて「心の浄化プログラム」に参加していた。そのとき美咲を妊娠していた母は、プログラムのストレスで一時的に記憶を失う経験をしていた。その影響が、胎児だった美咲の脳の発達に微妙な影響を与えたのではないかと、当時の医師たちは推測していた。


 さらに、美咲の記憶障害は、幼少期の溺水事故のトラウマによって悪化していた。その事故現場が、かつて舞が失踪した場所と同じだったことも、彼女の不安を増幅させていた。


 美咲が描く絵に舞に似た少女が現れるようになったのは、彼女が無意識のうちに街に残る舞の痕跡—写真や噂話—を拾い集めていたからだった。記憶障害のある美咲は、それらの情報を自分の記憶と混同してしまっていたのだ。


 青木陽菜もまた、この事件と無関係ではなかった。彼女の祖父は当時、町議会議員として「心の浄化プログラム」を推進していた人物の一人だったのだ。陽菜は祖父から断片的に聞かされていた話を、無意識のうちに抑圧していたのだった。


 真相が少しずつ明らかになるにつれ、翔太と美咲、そして陽菜の三人は困惑と戸惑いを強めていった。彼らが発見した事実は、静かな海辺の町の表面下に隠れていた、思いがけない闇だった。


 夕暮れ時の図書室。窓から差し込む柔らかな光が、本棚の影を床に長く伸ばしていた。翔太は、ゆっくりと色を変える空と海の境界線を見つめながら、静かに言葉を紡いだ。


「真実って、海の底に沈んだ宝石みたいなものかもしれないな。美しくても、無理に引き上げれば、波が濁ってしまう」


 その言葉に、陽菜は目を閉じ、深く息を吐いた。彼女の横顔に、本の間から漏れる夕日が赤く映える。しばらくの沈黙の後、陽菜はゆっくりと目を開け、遠くを見るように言った。


「でも、濁った波もいずれは澄むわ。知らないフリを続けるのは、海に蓋をするようなもの。いつかは溢れ出してしまう」


 二人の言葉が、静寂の中に漂う。図書室の空気が、まるで過去と現在の狭間で揺れているかのようだった。窓の外では、帰り道を急ぐ生徒たちの声が風に乗って聞こえ、遠くの灯台がゆっくりと光を放ち始めていた。


 美咲は黙って二人の会話を聞いていたが、ゆっくりと口を開いた。「私...私たちにできることから始めてみない?」


 三人は長い沈黙の後、まずは身近な人々に真実を伝えることから始めようと決意した。翔太は母親に、陽菜は両親に、美咲は主治医に、それぞれが知り得た情報を慎重に話した。


★★★

反応は様々だった。

 翔太が母親に話したのは、その日の夕食の前だった。夕食の支度をする母の手が一瞬止まり、深いため息が漏れた。窓の外では夕立が過ぎ去り、雨上がりの空気が部屋に流れ込んでいた。


「あの噂が、本当だったのね」母は静かに呟いた。その声には、長年にわたり抑え込んできた感情が混ざっているようだった。台所の隅に置かれた古い置時計が、やけに大きな音を立てて時を刻んでいた。


 陽菜の両親との対話は、居間で行われた。父親は腕を組み、眉をひそめて黙り込み、母親は困惑した表情で娘の顔を見つめていた。しかし、陽菜の真剣な眼差しと、震える声で語る言葉に、両親の表情が徐々に変化していった。


「まさか、こんなことが……」父が言葉を絞り出す。母は黙ったまま、古いアルバムが置かれた棚に目をやった。そこには、若かりし頃の両親と、幼い陽菜の笑顔が収められていた。その写真が、今では遠い過去のものに思えた。


 美咲は外来診察室で医師に問いかけた。白い壁に囲まれた空間で、医師は眉間にしわを寄せながら美咲の話に耳を傾けていた。窓の外では、病院の中庭に植えられた木々が、優しく風に揺れていた。


「君の症状と、この町の歴史は、どこかでつながっているのかもしれない」


 部屋の隅に置かれた観葉植物の葉が、かすかに揺れ、静かな希望を感じさせた。それぞれの場所で、真実が少しずつ明かされていく。その瞬間、町全体が何か大きな変化の予感に包まれているようだった。


 その後、彼らは学校の教師たちや信頼できる大人たちにも少しずつ話を広げていった。中には耳を貸さない人もいたが、真剣に耳を傾ける人も多かった。

やがて、「心の浄化プログラム」の被害者や、その家族を支援する小さな集まりが作られるようになると、翔太たちも、その集まりに参加するようになった。


 夕暮れ時、町の古い公民館。窓から差し込む柔らかな光が、集まった人々の表情を優しく照らしていた。美咲は震える手で、ぬくもりの残るお茶の入った紙コップを握りしめていた。


「私の記憶は……断片的で、霧の中をさまよっているようなものです」


 美咲の声は小さく、しかし確かに部屋中に響いた。聞き手たちは、息を潜めて耳を傾けている。古い扇風機がゆっくりと首を振り、かすかな風を送っていた。


「でも、最近少しずつ……霧が晴れてきたような気がするんです」


 話すにつれ、美咲の声は少しずつ強さを増していった。窓の外では、夕焼け空が刻一刻と色を変えていく。それは美咲の内なる変化を映し出しているかのようだった。


 部屋の隅では翔太と陽菜が静かに見守っていた。美咲の言葉が紡がれるたび、聴衆からはかすかなため息や、共感の囁きが漏れる。それは、封印されてきた街の記憶が、少しずつ解き放たれていく音のようでもあった。


 部屋の壁に掛けられた古い写真。そこに映る懐かしい風景が、まるで美咲の言葉に呼応するかのように、ほのかに輝きを増しているように見えた。


 美咲が語り終えると、一瞬の沈黙が訪れた。そして、誰からともなく、優しい拍手が起こった。その音は、波が岸に寄せては返すように、ゆっくりと部屋全体に広がっていった。窓の外で、最初の星が瞬き始めている。


夏の終わり、三人は海辺に立っていた。潮風が彼らの髪を揺らす。


「私ね、もう海が怖くないの」


美咲がそう言って、海に向かって一歩踏み出した。


「うん、良かった」


翔太が答える。彼の目には、安堵の色が浮かんでいた。


「ねえ、私たちきっと新しい記憶を作っていけるよね?」


陽菜がそう問いかける。


過去に向き合い、それでも前を向く。

海は今日も青く、そして深い。

翔太は美咲と陽菜を見た。

二人の瞳に映る海は何処までも澄んだ青色だった。

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不確定性の旋律、あるいは18歳の夏の終わりに 星崎ゆうき @syuichiao

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