不確定性の旋律、あるいは18歳の夏の終わりに
星崎ゆうき
不確定性の旋律、あるいは18歳の夏
不確定性の旋律、あるいは18歳の夏
僕が18歳だった夏、世界は不思議な色に染まり始めた。それは7月の終わり、蝉の鳴き声が耳の奥まで染み込むような暑い午後のことだった。
教室の窓際に立っていた朝倉陽菜が、窓ガラスに映し出された自分の姿の奇妙な異変に気づいた時のことだ。
鏡像の陽菜が、突然に意志を持ったかのように髪をかき上げた。窓の向こうの陽菜の前髪がさらりと揺れる。現実の陽菜は全く動いてはいないのにも関わらず。その瞬間は、まるで永遠のように感じられた。そして同時に、一瞬で過ぎ去った。
陽菜は何かの間違いだと、そう自分に言い聞かせた。でも、僕にはわかっていた。何かが変わり始めたのだと。
――その日から、僕たちの夏は始まった。
★★★
翌日、陽菜は僕に話しかけてきた。彼女が僕に話しかけてきたのは、(記憶が確かであるのなら)この時が初めてだった。
「ねえ、鈴木くん……」
彼女の声には、いつもとは違う緊張感があった。
「なに?」僕は手にした村上春樹の文庫本から目を離さずに、そう答えた。一瞬、不愛想な返事だなと思ったけれども、「なに」に続く言葉が見当たらなかった。
「妙なことが起きたの。昨日……」
僕は文庫本のページに栞を挟み、視線を陽菜に向けた。彼女の瞳には、若干の恐怖と同時に、抑えきれない好奇心の光が垣間見えた。まるで、暗い森の中に、小さな蛍が舞い踊るように。
「どんなこと?」
彼女は、昨日の出来事を話し始めた。窓に映った自分が勝手に動いたこと。自分が全く動いていないにも関わらずに。普通なら、そんな話を聞いても誰も関心を持たないだろう。あるいは、超常現象のような話題に盛り上がるだろうか。
でも僕は、彼女の話を本当の出来事だと思ったんだ。なぜなら、僕にも似たような経験があったからだ。
それは一週間前のことだった。深夜の自室で、僕はいつものようにプログラミング作業に没頭していた。ふと、疲れを覚え、パソコンの画面を見つめていると、そこに映る自分の顔がゆがみ、ゆっくりと笑いかけてきた。
とても疲れているのだろうと思った。しかし、僕の笑い顔は、どちらかと言えば奇妙なものではなく、それはごく自然な温かなものであった。そして、モニター越しの僕は「もっと自由に生きろよ」と言った。まるで、遠い未来の自分が、現在の自分に語りかけるように。
だから、陽菜の話を聞いた時、僕は安心した。僕だけじゃないんだと。
「じゃあ、私たち、同じようなことを体験したってこと?」
陽菜の声には、少しだけ希望が入り交じっていた。教室の窓から、生暖かい風が吹き込み、窓際のカーテンと、僕たちの前髪を揺らしていった。まるで、見えない誰かが僕たちの会話を聞いているかのように。
僕は頷いた。「そうみたいだね」
「でも、これって一体何なの?」
僕は再び文庫本に視線を落とすと、「さあ。でも、調べてみる価値はあるのかもしれない」とだけ答えた。意に反して陽菜の目は輝いていた。
「そうだ!私の叔父さんに聞いてみない?量子物理学者なの」
僕は少し躊躇した。科学者に幻覚の話をするなんて、正気の沙汰じゃない。しかし、結局のところ陽菜の熱意に押されて、同意せざるをえなかった。こうして僕たちの、奇妙な夏の冒険が始まった。
★★★
陽菜の叔父だという佐藤健太郎の研究室は、まるで異次元への入り口のようだった。壁一面に書かれた数式。青く光る量子コンピューター。そして、どこか宇宙を感じさせる静寂。まるで、僕たちが日常から切り離された特別な空間に足を踏み入れたかのようだった。
「君たちの話は、単なる奇談というより、存在と認識の本質に迫る哲学的な問いを孕んでいる。僕らが現実と呼んでいるものの実体とは何なのか……。そして、人の意識はその現実とどのように相互作用しているのか。非常に興味深い問題提起だ」
健太郎は、僕たちの話を真剣に聞いてくれた。普通の大人なら関心さえ向けようとしない話を。だから彼はどこか変わっていたのだと思う。少なくとも、普通の大人ではない。彼の眼差しには、子供の頃に抱いていた純粋な好奇心が宿っているようだった。
「君たちの体験は、局所的量子重ね合わせ状態の顕在化かもしれない」
僕は首を傾げた。「それって、どういう意味ですか?」
「簡単に言えば、ミクロの世界を支配する量子力学の原理が、僕たちの目に見える日常の世界に顔を出したということさ。量子の世界では、物事は確率的にしか決まらず、観測するまでは複数の状態が同時に存在する」
健太郎の説明を理解できるわけでもなく、僕たちはただただ、彼の話に耳を傾けていた。
「でも通常、そんな奇妙な現象は原子より小さな世界に閉じ込められている。ところが君たちの体験は、その境界線が曖昧になり、量子の不確定性が日常のスケールで現れ始めたことを示唆している。言わば、現実という堅固に見える舞台の幕が揺らぎ、その向こうにある無限の可能性の海が垣間見えたというわけさ」
室内の空調から流れ出る風が妙に冷たい。僕は背筋に若干の寒気を覚えた。まるで、未知の世界の入り口に立っているかのような感覚だった。
「でも、なぜ私たちにだけ見えるんですか?」
陽菜は好奇心に満ちた瞳を向けながら健太郎に問いかける。
「それが最大の謎なんだ」とだけ健太郎は言った。そして、テーブルの上に置かれたマグカップを手に取ると、「ひょっとしたら、君たち若い世代の脳が、量子的な性質を帯びやすくなっているのかもしれない」とつぶやくように付け加えた。
「つまり、僕たちの意識が量子コンピューターのような働きをしているってことですか?」
「雑に言えば、まあ、その可能性はある」
健太郎は、マグカップに入った茶色の液体を飲み干すと、脇に置かれたホワイトボートの向かいに立って説明を続けた。
「つまりだね、人間の脳内のミクロチューブルという構造が、量子的な情報処理を行っているという理論があるんだ。君たちの体験は、その理論を裏付ける証拠になるかもしれない」
僕と陽菜は顔を見合わせた。これは、単なる幻覚の話じゃない。そのことだけは理解したような気がした。その日から、僕と陽菜は健太郎の研究室に通うようになっていた。まるで、不思議な夏の日々を永遠に引き延ばそうとするかのように。
★★★
陽菜と僕は、健太郎の研究室で、意識の量子コンピューターという低級なSF小説に出てくるような論理をもとに、いくつかの体験を試みていた。最初は小さな変化だった。実験器具の形が少し歪んだり、窓の外の景色が一瞬だけ変わったり。それでも異常なことだったけれども、日を追うごとに、現象は大きくなっていった。
ある日、僕は自分の手が突然透明になるのを目撃した。陽菜は、一瞬だけ別の世界線の自分と意識がつながったと言う。
「私、画家になっていたの」彼女は興奮気味に話した。「それに教師にもなっていた。そして…」
彼女は言葉を詰まらせた。頬が赤くなっている。
「そして?」僕は聞いた。
「ううん、なんでもない」彼女は首を振った。
その瞬間、僕は陽菜の目に映る自分の姿を見た気がした。それは今の僕ではなく、少し年上の、別の世界線の僕のようだった。その僕は、陽菜の隣で優しく微笑んでいた。その光景は一瞬で消えたけれど、僕の心に確かな余韻を残した。
いくつかの体験をもとに、僕と陽菜は健太郎と議論を重ねて行った。夏休みの自由研究なのか、それとも量子力学の核心的な実験なのか、今となってはよく分からない。それでも、現象の本質は「観測」にあったという健太郎の仮説は腑に落ちた。
「私たちの観測こそが、現実を固定しているのかもしれない」
もし、それが本当なら……。僕たちは、今この毎瞬間、現実を創造しているということになる。
夏休みが終わりに近づく頃、僕たちは一つの結論に達した。それは、意識的に「観測しない」ことで、現象をある程度コントロールできるということだ。まるでシュレディンガーの猫を箱に閉じ込めたまま、蓋を開けないでいるようなもの……。
僕たちは、意識的に「見ない」ことで現象を制御しようと試みた。それは簡単なことではなかった。好奇心と恐怖が常に頭をもたげる。それでも少しずつ、僕たちは見ないことのコツのようなものを掴んでいった。そして、徐々にではあるけれど、僕たちの周囲で発生していた奇妙な現象(その多くは、虚像越しの自分の姿なのだが)が収束し始めた。
夏休みが終わったある夕暮れ時、学校の屋上で夕空を眺めながら、僕と陽菜は語り合った。
「私たちが見ている現実って、本当に唯一無二のものなのかな」と陽菜が呟いた。
「僕たちの意識が、無限の可能性の中から一つの現実を選び取っているのかもしれない」
その言葉に、陽菜は静かに頷いた。
意識は、星空のような無限の可能性の海を泳いでいる。そこでは、数えきれない現実の光が瞬いている。そして僕たちは、その中から一つの星を選び、その光に導かれて進んでいく。毎瞬、新たな選択をして、自分だけの星座を描いているのかもしれない。
夕暮れの空は、オレンジ色から紫色へと刻々と変化していく。その様子は、僕たちが体験した不思議な現象のようでもあった。
「私たちは、意識という筆で、刻々と自分の世界を描いているんだね」
★★★
あれから10年が経った。
僕は今、量子コンピューターの研究者になっている。陽菜は画家として成功した。陽菜と僕は、時々連絡を取り合う。彼女の絵には、いつも不思議な世界が広がっている。それは、あの夏の記憶が色彩となって溢れ出したかのようだ。
あの夏の出来事は、僕たちの人生を大きく変えた。
僕は時々考える。あの現象は本当に起こったのだろうか、と。
でも、その答えはもう重要ではない。
大切なのは、あの体験が僕たちに教えてくれたこと。
現実は固定されたものではなく、僕たちの観測によって刻一刻と創造されているということだ。無数の可能性という楽譜から、一つの音符を奏でている。その音が重なって、僕たちの現実という旋律になっていく。
今でも、窓ガラスに映る自分の姿が微笑みかけてくるような気がする。
そんな時、僕はその微笑みに答えるようにして、こう呟く。
「ああ、もっと自由に生きているよ」
そう、あの不思議な夏の日々のように。
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