マニアウ

紫陽_凛

【仙台】青砥 楓編

序章 兄について

 兄はなんとなくはかなげな人だったように思う。多分、おそらく。


 輪郭だけはっきりとしたその影はほっそりしていて、枯れ木のように折れそうな手首を着物の膨らみで覆い隠していた。髪は確か長くて黒くて細くて絹のようだった。なぜ伸ばし続けているのか尋ねると「願掛け」とだけ答えて口元だけで笑った。彼の容態はいつも悪かった。乾いた咳と、湿った咳とが交互に出た。たまに、血も出た。彼はいつも誰かに世話をされていた。入れ替わり立ち替わり、医者や下男や、親が行ったり来たりするのを見ていた。彼は歩けなかったから、それも仕方のないことなのだが。

 兄が何歳か、どんな声をしていてどんな目をしていたかは覚えていない。ただ儚い風貌の男が一人、しとねの上に横たわって黒髪を枕の上にながし、ひたすら天井を見ているそのイメージだけが先行して、兄とどんな会話を交わしたか、どんな思い出があるかは全く覚えていない。ただそこには兄がいて、弟たる幼いおれがいた。


 夢のような人だった。

 あるいは夢だったのかもしれない。


 兄の存在を思い出したのは帰省した仙台から北にある大学へと戻る帰り道、ちょうど盆のころ、ごった返す仙台駅のホームに立ち、新青森行きの新幹線を待っているときだった。はやぶさの青い背がごおと通り過ぎていこうとするその瞬間、はたと思い出したのだ。


 


「かえで」

 声色が優しかったことは覚えている。呼ばれてまろぶように兄の枕元へ走ってゆくと、彼の手の中で猫が冷たくなっていた。兄は冷たい手でおれの腕にふれた。

「かえで。この子を埋めてくれないか」

「死んじゃったの」

「ああ、死んでしまった」

 猫は冷たく硬く、異質だった。本当は猫そっくりに作った人形か剥製なのではないかと思った。おれはびっくりして、兄に尋ねた。

「なんで」

「わからない。寿命かもね」


 そして兄はおれに美しい目を向けた。美しい目、そう、美しかった。

 兄は美しかった。それを思い出した。


「おねがいできるか、かえで。できればこの屋敷からずっと、ずっと遠いところに」

 おれはうなずいた。兄の美しさの前にかしずくみたいに、うなずいた。そして、当時のおれができる限り、できるだけ遠く、そして景色の綺麗な野原の隅っこに、猫のための穴を深く掘り、そこへ猫を埋めた。

 



 記憶に補正があるように、今思えば不思議な点がいくつかある。

 兄は、猫があんなに冷え切るまで猫を抱いていたのか。兄は一人で歩くこともままならないのに。死んだ猫を拾ったにしても、猫が兄の手の中で死んだとしても、なんだか腑に落ちない。

 兄はなぜ、死んだ猫など抱いていたのか。

 そもそもあれは、猫だったのか?


 おれが記憶の中のおれのことを探っている間に、新着ニュースと、ほぼ同時に母親の連絡が入ってきた。三秒くらいしか違わなかったと思う。おれは否応なしに兄との記憶を中断し、新たな情報に目を向けた。名残惜しいとさえ思った。


『仙台市○○区の空き地で少女の白骨遺体発見、東京で行方不明の女児か』


『近くで白骨死体見つかったって、怖い』

 母の情報が早いのか、それともニュースが慎重なのか。どういうことかと母親に問うと、母親は秒速で返事を打ってきた。

『あんたのお気に入りの空き地。あそこに買い取り手がついて、新しい家を建てるって基礎作ってたら、からたまたま出てきたってよ、おおこわ。いつから埋まってたんだか』


 記憶の片隅がうずく。

 疼いている。痛みにも痒みにも似ている。


『おねがいできるか、かえで。できればこの


「……誰だ?」


 おれは独り言のように、あるいは魘される時に出るあえぎ声のように、自然と、そう口走っていた。


「おまえ、誰だ?」






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