【郷倉四季】回答4 「小説が生身に影響を受けることはあるか。また、それは健全か」

【自己紹介】

郷倉四季

 自動車学校に入所しました。三十三歳で免許です。頑張ります。ちなみに、妻の結婚相手の条件に「車の免許」がありました。よく無免許の僕と結婚してくれたものです。丁度これを書いている日に友人が第二子を出産されました。僕も周りも変わっていくなぁと思う日々です。



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 最近、電車の中で文章を書く関係で、Chromebookを開いたら準備運動を兼ねて頭の中のものを吐き出す時間を作っています。基本的に朝か昨日の夜に起こったこと、そこで僕が何を思ったのかを書き、余裕があれば最近の考えごとに移行します。

 考えごとは一晩寝かせたおかげでスムーズに進むことが多いです。それでも答えがでない場合は別の問題が絡まっていることが多いので、細かく分けてみます。すると、だいたい上手くいきます。


 個人的な感慨ですが、自分の出来事と考えごとを書き出すと、むやみに悩まなくて済むようになりました。

 文字化(外部化)することで、自分の気持ちや考えを可視化できるようになるのが重要だったのでしょう。

 そうした外部化によって僕は小説においても、自分の乱された感情を小説世界に持ち込まずに済むようになりました。

 おかげで僕の精神はここ数ヶ月、大変穏やかです。気持ちや考えの外部化によって僕は僕のメンタルコントロールの方法を掴んだ気がしています。


 考えてみれば当たり前ですが、小説を書き上げるのには長い時間が必要になります。

 何週間、何ヶ月もの間、人間は同じ心理状況でいられるわけではありません。ただ、だからと言ってイライラしているから、イライラしたシーンを書くわけにもいきません。

 小説内には小説内の感情の流れがあり、楽しいことが起こるシーンでは目一杯楽しいシーンを書く必要があります。日常でまったく楽しいことがなかったとしても、そうしなければならないわけです。

 でなければ、読者を戸惑わせる要因になります。当たり前ですが、読者が読む時に作者が書いていた時の感情は関係がありません。


 ただし、先にも書きましたが小説内には感情の流れがあります。これはプロットや書き出しの時点で決めることができます。

 例えば自作で恐縮ですが、「あの海に落ちた月に触れる」という小説があります。これは「彼女が十人いる男が最初に連絡するのは十番目の女だ」と始まります。この暴論とも言える話を否定する友人を前に、一番好きな女の子に連絡しないことが大事な瞬間もあるんじゃないかと考えるのが主人公です。

 この小説が面白いかどうかは置いておいて、この戸惑いの感情が最後までアップダウンはしつつ、一定の線として持続した作品だったので僕はこの作品を気に入っています。


 小説は人間が読むものであり人間が書くものである以上、そこに潜む感情の流れを追っていく経験でもあります。

 つまり、最初に設定された感情があり、本編を書いている間、この感情を常に背負って書いていく必要があります。小説家のインタビューを読むと、過去の自作に対し「今はもう、あの小説は書けませんね」という類のことを言ってることがあります。

 これはその時の感情は当時の自分が抱えていたもので、過ぎ去った今からでは再現不可能な感情だったということなのでしょう。

 感情には再現不可能なものと、常に沸き起こる再現可能なものの二つがあるのかも知れません。


 倉木さんのご質問の「小説が生身に影響を受けることはあるか。また、それは健全か」とのことですが、小説に内在する感情が「なにか」に寄るのではないかと思います。

 僕は倉木さんを知っているからというのもありますし、今書かれている小説の始まりの感情がどういう経験から生み出されたかを一応把握しています。

 だから、その環状が起因となって熱を出すのも、変な言い方になりますが納得ができました。ただ、それ以前の内容で大変忙しい日々を過ごされているようでしたので、日々の疲労の蓄積があったのではないかとも思います。ご自愛ください。


 僕自身がそういう経験があるかについて考えてみます。

 倉木さんの想定とは異なるかも知れませんが、僕は人の喋り方にすぐ影響を受ける人間です。オードリーのオールナイトニッポンにハマっていた頃は若林の喋り方になっていました。

 そのような性質のせいか、ハマると夢の中や脳内の声がその人になることがあります。

 僕はここ三ヶ月ほど「鹿島茂のN'importe quoi!」という講座を聞いています。

 月2200円で仏文学者の4つの講座(2つは完結済み)が聴き放題なのですから大変お得です。分からないところがあれば聞き直すことも可能ですし、たまに鹿島茂と交流のある方との対談もおこなわれます。こちらは期間が設けられており、今は聞けませんが楠木建との対談は勉強になる上に面白かったので、4回聞きました。

 その結果、一時期の夢の中の声が楠木健になっていました。どんだけ影響受けてんだよ、と起きて自分にツッコミを入れました。


 正直、僕は学校の勉強がまったく楽しいと思えなかった人間です。けれど、大人になって、純粋に自分の知的好奇心のみで知識を積み重ねていける今、勉強はこんなに楽しいものなんだなと思っています。

 とはいえ、これは自分の中にある知的好奇心を満たすためだけの学びなので、趣味の範疇なのですが。


 話が逸れました。

 僕が言いたかったことは、僕は今ハマっているものに影響を受けやすい人間だと言うことです。

 昔、小説の専門学校の先生に「君はスポンジのように何でも吸収するね」と言われたことがあります。僕はそれ以来、常に柔軟で何でも吸収できる余白を持った状態に自分をするよう心がけています。

 そういう意味で僕は小説を含む多くのカルチャーから影響を常に受けている人間だと言うことはできそうですが、熱を出すとか日常生活に影響が及ぶレベルのことはありません。ある意味、健全な範囲に留まっています。

 では、自分が書いている小説の影響はどうか? についても、同様のことが言える気がします。ただ、小説を書くことそのものはしんどい作業です。そのしんどさに引っ張られて、昼夜逆転し引きこもって生活が破綻していた時期はあったように思います。


 どんなことでも健全な範囲と不健全な範囲はあって、薬のように大量に摂取すれば健康を害する場合もある。つまり、小説からの影響も「用法用量を守って正しくお使いください」ということで良いのではないでしょうか。

 とはいえ、小説を含むカルチャーからの影響を受ける量の範囲は操作可能なのか、という問いはあると思います。


 昔、何かで読んだ記憶なのですが、とある小説家の恋人がプルーストの「失われた時を求めて」をどんどん読み進めようとしていて、「ゆっくり読みなさい」と小説家が言ったというエピソードが紹介されていました。

 ある種の小説や芸術は時間をかけて、ゆっくり摂取しなければ、その良さが分からなかったり、逆に強く影響を受けすぎてしまう場合があるのでしょう。

 また、それは小説を書く時にも同様のことが言えるように思います。江國香織や村上春樹の創作に関するエッセイを読むと、一日に書く枚数は決めていると書いていたと記憶しています。自作でも(あるいは自作だからこそ?)、用法用量を守って小説世界と関わっているのかも知れません。


 倉木さんが想定する回答になっているか分かりませんが、今回はこれくらいで終わりたいと思います。

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