終章 テーマについての深堀
前章ではテーマがなぜ大切か、どういう風にテーマを探せばよいのかをお伝えしたが具体例にかける部分があったと思っている。この章では有名作家を例にしてテーマについて掘り下げたい。
まず断りとして私は批評を書く専門家ではなく、実例を挙げての説明は実験的であるし読書量もそれほど多くないので避けてきたくらいだ。できうる限り事実に基づいて誠意をもって取り組むが解釈に間違いがあればご指摘頂きたい。さらに言えば「作品をどう読むのか」多分に私の趣味の領域が入ることもご理解頂きたい。
とはいえできる限り全力を尽くそう。今回例に挙げる作家はどうせなら日本でも歴代でトップの人にしよう。どうせ無茶をするならとことん難しいことをしたい性分なのでもしよろしければお付き合いください。
ノーベル文学賞を頼りしよう。川端康成と大江健三郎のテーマを比較してみよう。
ノーベル文学賞は世界中の偉大な作家から年に1人だけ選ばれる。文筆家としてのスキル、文化的な背景、世界に与えた影響。作家としてあらゆる能力をつぶさに比べて選出される。翻訳が必要になる日本語作家から選出されていることがなおさら偉大だ。翻訳というフィルターを通してなお圧倒的な魅力を放つのだから。
まず川端康成のノーベル文学賞の選考理由を見ていこう。
「日本人の心の精髄を優れた感受性で表現する、その物語の巧みさ」
言われてみたい。何かの精髄を優れた感受性で表現してみたい。「物語の巧みさ」ここだけでもどうにかならないだろうか。ならないだろう。
冗談はほどほどにして、川端康成は日本の風土や文化を美しい筆致で書き、そこに生きる日本人の独自の感性、心の機微を描いた。また常に男女の関わりをストーリーの軸にしている。
本人はこう語っている。
「恋心が何よりの命の綱である」
言ってみたい。かっこいい。命の綱。いつかここぞという時に言おう。
川端康成のテーマは「恋慕」だと私は感じている。
恋愛ではない。川端康成の作品の中での成就する幸せな恋愛は書かれていないはず。叶わないが求め続ける恋心が生涯のテーマなのだと思う。当時の日本の許嫁やお見合などの婚姻における風習、家制度と言えばいいのか、家族のため、地域のため、国のために自身の精神を抑え込む。だからこそより強く発揮される恋慕をずっと書き続けている。
大江健三郎を見ていこう。私が一番好きな作家だ。大江健三郎の代表作「万永元年のフットボール」が間違いなく私の人生で最も楽しい読書。だけど今の30代くらいまでの人には知名度が低い。なので今風に紹介しよう。
大江健三郎は作品の一言一句がムキムキな作家である。文章が筋肉でできている。ムキムキの人でぱんぱんの通路を掻きわけて進むみたいで読みづらい。文学でぶん殴られるというフレーズを私はよく言うのだけど大江作品からきている。ストーリーもなにかしら心理的、肉体的な攻撃性を持っていて苦しい。主要な登場人物は自信を持たず全員不安を抱えている。その自信のなさから生まれる暴力や混乱が書かれている。読みずらいし難解なのにその世界の一端に踏み入れてしまうと読まずにはいられなくなる。そんな作家だ。
あまり人にすすめる作家ではないから、他のどんな本より楽しかったことだけ強調しておこう。すっごい読みづらいけど。
大江健三郎の選考理由を見ていこう。
「詩的な言語を使って、現実と神話の入り交じる世界を創造し、窮地にある現代人の姿を、見るものを当惑させるような絵図に描いた」
本当に同じ賞?なんか川端康成と全然違う。文字じゃなくて絵図描いた人になっていて、創造したしてて作家というより邪神の説明文だ。
大江健三郎の難解さはノーベル文学賞の評価にも表れていて、私も一言でテーマをまとめようとしたのだけど、ここまで書いてから30分くらい困っている。
どうにか言語化するなら大江健三郎のテーマは「居場所」なのだと思う。大江健三郎のテーマは「居場所」。結構自信がある。死、病気、差別、戦争だったり不安によって揺らいだ居場所をどうするのかを混乱した心をそのまま著している。
それぞれの作家のテーマをお伝えしたところでこの二人の共通点を通して、読む人にもっとも伝えたいことがある。実験的な挑戦なんて言いながら実は伝えたいことがあった。
川端康成の代表作「伊豆の踊子」は実体験を元にして書かれた作品で本人はこう語っている。
「伊豆の踊子」はすべて書いた通りであつた。事実そのままで虚構はない。あるとすれば省略だけである
大江健三郎の初期の代表作「個人的な経験」「万永元年のフットボール」の主人公はどちらも脳に障害のある子供を持つ。
「個人的な経験」のWikipediaから抜粋する。大江健三郎本人についてこう書かれている。「長男は脳ヘルニアのある障害者であり、その実体験をもとに、長男の誕生後間もなく書いた作品である。」
2人とも実体験を小説の元にしている。晩年まで続くテーマ性はやはりその人の経験から生まれるものなのだ。
"だからいろいろな経験をするべきだ"
そんな浅いことをまるで疑いようのない正解のように言う大人が多い。私が伝えたいことは全く違う。
確かにどちらも蜜な経験が元になっている。だけど肝心要は「自分を信じた」ことにあると思う。川端康成は19歳の1人旅での恋心を27歳までずっと想い続けた。大江健三郎は障害を持った子供が生まれてきて疑うことなくすぐさま筆をとった。この"信じる"ということを鷹をくくらずしっかり評価するべきだ。
純粋な恋の思い出を"8年間信じ続け"小説にした。我が子に関する人生の混乱を誰かに"伝えるべきだと確信した"。実に難しいことだ。じっくり時を待って、かたや瞬発的に自分を信じ切ったことがもっとも偉大だと私は思う。
創作をやるためにたくさん人と会って話して、いろいろな経験をして、これはいいことだ。だけど忘れないでほしい。今までのあなたの人生にも信じるべき感動がすでにあったはずだ。楽しかった、泣いた、嬉しかった。良いことじゃなくてもいい。悔しかった、怖かった、嫌だった、許せなかった。それをまずは信じるべきだ。
さまざまな経験なんてしなくても、私たちは今すでに抜群によいのだ。そのことを忘れないでほしい。まずそのことを土台にしてさまざま経験をしたり、努力をして工夫してよりよくなっていくのだ。
いつだってもうテーマは自分の中にある。それを信じてみんなに伝えるために努力をする。それが創作だ。
なぜそう強調するのかと言うと、今はすべてが数字になる時代だからだ。小説や芸術にいつでも誰でも投票できてランキングがつく。めちゃくちゃ良いことだ。比較して考えるきっかけになる。だけど油断すると数字のために活動してしまいそうになる。
学生が自分の容姿や感性までも♡の数で判断する。どこに出かけるか、誰とでかけるか他人の評価に依存する。♡がつかないからその日の過ごし方や自分には価値がないことになるらしい。行きたいところに行け。好きな人と行け。いいねなんてついたら嬉しいけどおまけだ。価値はもう十分ある。これを読む多くの人がそう思うはずだ。
でも自分が書く時になったら途端に不安になる。このテーマは人に伝わらないかも、今の自分には書き切れないかも、あんまり読んでもらえないかも、まだ自分の中で具体的になってないかも。いい。それでいい。下手くそで読まれなくてもあなたを書こう。
数字のために自分を変えなくていい。本当に下手くそで誰も読まないのならそこからから進んでいけばいい。数字の方をこっちに来させるために努力しよう。
冗談ではなくて本当にぷにぷに肉球小説でいい。旅芸人観察小説でも、声変わり小説でも、五目並べ選手権小説があなたの生涯のテーマでもいい。私は不器用さに読んで大笑いするかもしれない。でもあなたが自分を信じるなら読みたい。
そんな風に書けば私だけでなく、すべての人がいつかあなたがうまくなることを心から願える。そんな作品があなたの数字になって、いつかノーベル文学賞になるかもしれない。
数字や他人の動向や何かに影響をされたものでなく、自分を信じてテーマを信じて書きたいものを心行くまで書いてほしい。私やこれを読む人にとって創作というのはそういうものであってほしいし、そんな性質の作品でこの世を溢れさるべきだ。それが芸術の命の綱だと思う。
ここぞという時の言葉が決まったところでこの創作論を締めたいと思う。これを読む人の創作が楽しいものであることを切に願い、また楽しい創作活動の中から生まれた作品を是非私に届けてほしい。
お知らせ
次回創作論的作品「数字はミカタ」構想中。
数字に振り回されるのではなく数字を"味方にする見方"を大学でデザインを学びマーケティングについて仕事で実践した私の考え方をお伝えします。今回の創作論は「創作の入り口」であり数字のミカタは「数字を通して作家として成長する」ことをテーマに計画しています。より良い作品を作ることを目的にする方におすすめです。
9月中には書き始めますのでそちらも是非お読みください。
創作における複数の地道なやりかた ぽんぽん丸 @mukuponpon
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