2 美しい白鳥の子

 失踪したことになっている姉ちゃんが目の前に現れたことで、俺は少しほっとした。でも、この先を思うとあんまり気は晴れなかった。


「なんだよ、こんなところで」


 俺は何も知らない風を装って姉ちゃんに話しかけた。


「別に……お母さんから、変なメールきてない?」

「いっぱい来てる。警察に届けるって」


 姉ちゃんの顔が真っ白になった。悪いことをしている自覚はあるんだ。


「へへ、嘘」

「なによ、脅かさないでよ」


 幽霊みたいな顔をしていた姉ちゃんが、いつもの顔に戻って俺は更にほっとした。


「でも探してはいると思う……で、どしたん?」


 俺は姉ちゃんを連れて、コンビニの駐車場の端の方へ行った。こんな時間にセーラー服だの学生服だので立ち話をしているのは、目立って仕方ない。姉ちゃんはぐったりとしていて、今にも死んじゃうんじゃないかってくらい弱っているように見えた。


「私……バレエ辞める」


 俺は姉ちゃんの言葉に驚かなかった。この様子だと、おそらくそんなことだろうという見当は最初からつけていた。父さんもバレエについて母親と姉ちゃんが言い争っているところを聞いて「そろそろ潮時か」と呟いていた。


「バレエ辞めてどうすんだよ」

「どうしよう……私、何になればいいのかな」


 姉ちゃんは弱々しく呟いた。こんなに弱っている姉ちゃんを俺は初めて見た。瀕死の白鳥でも、もう少し元気かもしれない。


「何って、姉ちゃんは姉ちゃんだろ」

「だって、私は」


 そこから先、姉ちゃんは口を開かなかった。でも、姉ちゃんの言いたいことは全部わかったつもりだった。俺だって、伊達に姉ちゃんの弟を15年ほどやってない。姉ちゃんのことは、俺が一番よく見てきたつもりだ。あのクソみたいな女より、ずっとずっと。


 俺は姉ちゃんが何か言うまで、そばにいることにした。念のため、携帯電話の電源は切っておいた。


「ノリくん、どうしよう……私、もう家に帰れない」


 しばらくして、姉ちゃんがぽつりと呟いた。


「誰だって帰りたくない日くらいあるだろう、思春期なんだし」

「何それ」


 あ、姉ちゃんが笑った。よかった。


「……食う?」


 俺は家に帰ってから食べようと思ってたチキンをカバンから出して、ひとつ姉ちゃんに差し出す。


「え、でも」

「バレエ辞めるんだろ? 食事制限とか気にしないでいいんだから、食えよ」


 姉ちゃんはまだ温かいチキンの袋を受け取った。包みを開くと、油と肉の塊が出てくる。それを見て、姉ちゃんの顔が一気にほころんだ。


「ふふ……いっぺん食べてみたかったんだ、コンビニのチキン」


 明るい口調だけど、姉ちゃんの声は震えている。


「いっぺんじゃなくて、これから毎日食ってもいいんだぜ」

「そんなに食べられないよ」


 そう言って、姉ちゃんはチキンにかぶりついた。チキンを食べながら、姉ちゃんは泣いていた。俺は泣き崩れる姉ちゃんが誰にも見つからないように、道路側に立って姉ちゃんを隠した。そして俺も、もうひとつのチキンを頬張った。


 それはコンビニのチキンのくせに、なんだかめちゃくちゃうまかった。家でひとりでコーラで流し込んで食うチキンより、ひとりで歩きながら食べるチキンより、断然うまかった。コンビニの脇で、姉ちゃんと同じチキンを食べているだけなのに。


「ノリくん……おっきくなったねえ」

「姉ちゃんも、だろう?」

「あはは……そうだね。高3だもんね、何やってるんだろう、私」


 セーラー服の姉ちゃんはきれいだった。白い服なんか着てなくても、姉ちゃんはきれいなんだ。泣きながらチキン頬張ってる不細工な顔だって、姉ちゃんだからとってもきれいだ。そんな姉ちゃんを見ていたら、俺も泣けて泣けて仕方なかった。


 畜生、俺だって、そんな風に泣いてみたかったよ。だけど、流す涙がないんだよ。俺は出来損ないだから、姉ちゃんみたいにきれいじゃないから。もっと俺に力があれば、姉ちゃんは泣かずに済んだのかな。俺も姉ちゃんみたいにきれいに泣けたのかな。


 いろんなことがぐるぐると頭の中を回ってきたので、俺はこの状況をおしまいにすることにした。


「いい加減帰ろうぜ、一緒にさ」


 ひとしきり泣いた姉ちゃんに、俺は手を差し出した。


「ノリくんはいいね、自由で」


 それは何気ない言葉のはずなのに、俺にはとんでもない嫌味に聞こえた。そして俺は猛烈に自分の姉に嫌悪感を抱いた。結局、こいつもあの母親の娘なのかもしれない。


「私、ノリくんを見てると元気が出る。私もいつか、ノリくんみたいになりたいって」


 何を言ってるんだろう、この馬鹿な女は。俺みたいになりたいって、意味がわからない。


「私も強くなりたい、あの人に立ち向かいたい」


 ああ、そうか。俺は姉ちゃんの言いたいことがやっとわかった。


「じゃあさ、一緒に帰ろう。俺が連れ回したことにするからさ」


 なんだ、俺は姉ちゃんに甘えられてるんだ。俺が姉ちゃんを守ってやらなきゃいけないんだ。


「でも、それじゃノリくんが」

「俺は慣れてるから。大丈夫」


 俺は男で、姉ちゃんは女。男が女を守るのは当たり前だ。俺は一体、あの母親の何が怖いんだろうな。あんなの、ただの年増のガキっぽい女じゃないか。


「バレエ辞めたらさ、一緒に飯食いに行こうぜ。2人だけで」

「何食べるの?」

「姉ちゃんが食べたいものなら、何でも」


 今度から、俺が姉ちゃんを守る。何があっても、あの女から徹底的に姉ちゃんを守らなきゃ。姉ちゃんは籠の鳥なんかじゃない。もっともっと、広い空を飛ぶ白鳥にならなくちゃいけないんだ。


「じゃあ、またここでチキン食べたい」

「そんなんでいいのか?」

「うん、すごく美味しかったから」


 コンビニのチキンくらいで嬉しくなる姉ちゃんを見て、俺は何だか情けなくなった。


「もっといいモン食いに行こうぜ。おいしいラーメンとか、クリィム・ブリュレとかさ。もちろん、お母さんには内緒で」


 俺たちは笑った。姉ちゃんの顔色もよくなったみたいだ。流石コンビニのチキンだ。姉ちゃんが元気になったのが、俺はとっても嬉しかった。


 それから家に帰って、俺は姉ちゃんの代わりに母親にぶん殴られて何かを罵られたような気がした。ちなみに警察には本当に相談に行ったらしいけれど、「高校3年生の娘さんですよね、日付が変わっても帰ってこなかったらまた来てください」って追い返されたそうだ。そりゃ夕方の6時半に「娘が帰ってこない」って相談に来られた警察も気の毒だ。


 父さんは姉ちゃんにも俺にも何も言わなかった。ただキャンキャン騒ぐ母親の声を聞き流すだけ聞き流して、俺はさっさと布団に潜った。それから姉ちゃんが俺のところにやってきて、小さく「ありがとう」と言ってくれた。


 それだけで俺は何だか嬉しくなって、その日はなかなか寝付けなかった。母親とかどうでもよかった。姉ちゃんと2人で、どこか静かなところで暮らしたいなとその時はぼんやり考えていた。そして、姉ちゃんとクリィム・ブリュレの表面を割る夢を見た。すっごく、いい夢だった。


***


 結局、バレエをすっぱり辞めた姉ちゃんは家の近くの短大に行くことになった。小学校の頃は頭が良かったのに、バレエをやりすぎて勉強をあまりしてこなかったツケが回ってきた。姉ちゃんは「あんたはしっかり勉強するのよ」とそれからよく言っていた。


 そして姉ちゃんはこっそりバイトをして資金を貯めて、短大を卒業するとひとりで就職を決めて突然家を出て行った。自分だけで幸せに暮らすそうだ。俺はどこか寂しかったけど、無事に姉ちゃんが羽ばたいていけたことが嬉しかった。しばらく母親は半狂乱だったけど、俺の知ったことではない。


 その後も高校大学と進学した俺は黙々と勉強とバイトをして、家には寝に帰っているようなものだった。それは父さんも一緒だったようで、俺たちはたまに一緒に外食をした。父さんは俺に何度も頭を下げていた。俺は父さんを嫌いでなかったので、父さんに謝られても何とも思わないし、むしろ謝ってほしくなかった。


 本当に謝ってほしい人は、未来永劫頭を下げてくることなどないだろうと俺は思う。姉ちゃんを壊して、俺を放置して、父さんを失望させた人。彼女はそれをこれっぽっちも悪いことだなんて思ってない。だから余計に始末が悪い。


 だから、俺は姉ちゃんの防波堤になることにした。あいつが姉ちゃんに執着している方向を、何とか俺に向けさせる。そうするとあいつは何かある度に俺にギャンギャン喚いてきたけど、別に俺は平気だった。俺は男だから、俺が傷つく分には何を言われても構わない。だけどあいつが姉ちゃんをこれ以上苦しめるなら、その時は容赦をするつもりはない。


 そんな俺も、何とか人並みに人間の生き方を頑張って嫁さんを見つけた。生まれた子供は女の子だった。娘は時折、姉ちゃんのような顔になるし母親のような顔になる。俺はその度に、この子を人並みに愛せるだろうかと怯える。でも、そんな不安は嫁さんが娘に一生懸命愛情をかけているところを見て払拭する。


「ママには内緒な」

「へへ、ありがとうパパ」


 公園でコンビニで買ったチキンを娘に食べさせていると、姉ちゃんにチキンをあげたあの日、確かに俺は姉ちゃんに愛されていたんだって思い出さずにはいられなかった。


〈了〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

みにくい白鳥の子 秋犬 @Anoni

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画