みにくい白鳥の子
秋犬
1 みにくいアヒルの子
俺の中で姉ちゃんは間違いなく、白鳥だった。
バレエをするときの白い服を着て、舞台の上でくるくると回る姉ちゃんはとてもきれいだった。いろんなものが面白くない俺だったけど、姉ちゃんのバレエの発表会は楽しみだった。だけど、露骨に楽しみにしていることがバレると面倒くさいのでひたすら「仕方ないから行ってやるか」という態度を貫いた。
姉ちゃんは完璧で美しくて、頭も良くて性格も良くてバレエが得意で、そして俺にとても優しかった。何にもない俺だけど、姉ちゃんだけは俺の誇りだった。
物心ついた頃から、俺は母親に愛されていないのだろうなと薄々思っていた。服は皆姉ちゃんのお下がりで、外見だけは男が着ても良さそうなものを着せてもらえたけれど「下着は見えないからいいだろう」としばらく女の子のパンツを履かされていた。
俺は他の子が着ている車や怪獣など、いかにも男らしい服が欲しかった。だけど母親にそれを言うと「いやあね、男の子って野蛮で。だから男って嫌い」と笑顔で言うので、やがて諦めた。そのうち、下着はさすがに父さんが買ってくれるようになった。母親は「パンツなんか何を履いても一緒なのにワガママね」と呆れていた。
母親は姉ちゃんのバレエに夢中だった。姉ちゃんは才能があるとかなんとかで、母親はどうしても姉ちゃんをプロのダンサーにしたかったようだ。小学校の頃から夜遅くまで、母親は姉ちゃんのレッスンに付き合っていた。その間、俺は夕方ひとり家でテレビを見たり本を読んだりしていた。帰ってきた父さんと一緒に晩飯を食べて、風呂に入って寝る頃にやっと姉ちゃんが帰ってくる。母親は姉ちゃんとどこかで夕飯を済ませてくるのか、家では風呂に入って寝るだけだった。
俺が寝たふりをしていると、姉ちゃんは俺を起こさないようにそっと部屋に入ってくる。でもレッスンの余韻に浸っているのか、今練習している曲を鼻歌で歌いながら、トントンとリズムよく明日の学校の準備をしている。俺はそんな姉ちゃんの音を聞いているのが好きだった。そしてよく、美しい白鳥の姉ちゃんが羽ばたいていくところを布団の中で想像した。
俺は本当に、姉ちゃんが好きだったんだと思う。その代わり、俺の心に何かぽっかりと穴が空いていることについて俺は見ないふりをした。俺には姉ちゃんがいるから、それだけでいいことにした。
***
中学3年になって、俺は受験を言い訳に塾の受講コマ数を増やしてもらった。相変わらず母親は姉ちゃんに付き添ってバレエのレッスンに行くし、父さんもそんな母親を持て余したのかあまり家に帰らなくなった。そんな家に俺もあまりいたくなかった。
とにかく厄介な母親だけど、俺の面倒はそれなりに見てくれた、と思う。制服のシャツにはしっかりアイロンがかけてあったし、弁当はそれなりに見栄えのいいのを作ってくれた。夕飯も作り置きだったけど、しっかり用意されていたし朝ご飯も毎朝食べさせてもらえた。
それでも、俺は母親から愛されている実感はなかった。姉ちゃんのバレエの都合で、俺は家族でどこかへ遊びに行ったというような記憶がなかった。父さんも仕事が忙しかったのか、何日も帰らない日もあった。もしかしたら浮気でもしていたのかもしれない。でも、俺は父さんを責められなかった。
俺の家は異常だった。
余所の家族の楽しそうな話を聞く度、俺は曖昧に誤魔化し続けた。家族でディズニーランドや沖縄に行ったとか、マリオカートして遊んでるとか、おやつを取り合って喧嘩するとか、そういう話は俺の家にはなかった。全ては母親の機嫌次第で俺の家は回っていた。
「テレビゲームなんてバカのすることはしなくていいのよ」
「女の子は可愛くしていればいいんだからね」
「マナちゃんはプロになればお嫁さんになれるしお金も稼げていいわね」
「それに比べて、あんたは可愛げがないんだから」
母親の中で、俺は一体なんなんだろう。お腹を痛めて生んだ子供じゃないのか? 可愛いとか可愛くないとか、そういう物差しじゃなくて、俺を一体どう思ってるのか。中学に入った頃、一度尋ねたことがあった。
「だってあんた男じゃない。私、男嫌いなのよね」
母親はあっけらかんと俺にそう言った。それを聞いて、俺は絶望しながらひどく安堵した。よかった、俺はこれでこいつを愛する必要がないんだって心底思った。世の中にはひどく残念な奴がいて、俺の場合たまたまそれが母親だっただけなんだ。
たまに自分の姉のことがたまらなく恨めしくなることがあった。でも、そんなとき俺は発表会で見た姉ちゃんの姿を思い出していた。姉ちゃんはきれいだから、俺みたいな醜い奴の心なんか知らないでくれって切に思った。姉ちゃんには、ずっときれいな白鳥でいてほしかった。でも姉ちゃんがもっと自由になりたいって願うなら、俺はそっちを応援したかった。
***
その日、俺は学校から真っ直ぐ塾に向かった。1学期の期末テストが終わったばかりなのに真面目に来るとは感心だ、と塾長は俺を褒める。でも、塾長も俺が家に帰りたくなくて仕方なく自習室に来ているのはわかっていたんだと思う。思えばこの塾長には良くしてもらったような気もする。
全ての授業が終わるのは夜の8時半頃だった。俺はその後なんだかんだと塾で粘って、それから帰りたくない家へ帰る。そして帰り道のコンビニでチキンとコーラを買って、風呂上がりに一杯やってから寝るというオッサンみたいなことをしていた。身体には悪いと思っていたけれど、油と糖分を摂取する快感がその頃の俺のひとつの現実逃避になっていた。
その日も俺は塾で質問だの雑談だので粘り、塾を出たのは夜の9時過ぎだった。一応持たされているだけの携帯電話で時間を確認しようとすると、メールが1件受信ボックスに入っていた。母親からだ。着信時刻は、夜の7時頃だった。
「マナちゃんが学校から帰ってきません。探しに行きます。先に寝ていてください」
ひどく他人行儀なメールだと思った。もっと普段みたいに取り乱せよ。いや、俺相手だから他人行儀なだけで、どうせ本人はすっげえパニックになってるはずだ。面倒くさい。帰るのも嫌だったけれど、外でパニクった母親に出会うのはもっと嫌だった。
姉ちゃんの失踪の理由について、俺は心当たりがあった。バレエに専念するために家から近い偏差値の低い高校に進学させられてバレエ漬けの姉ちゃんだったけれど、次第に結果を出せなくなっていた。技術はあっても、姉ちゃんそのものに表現力がなかったらしい。いつも「受け身でなく、何事も上達するには自分で考えろ」と指導されていたようだ。姉ちゃんもそのことにかなり焦っていた。でも、常に母親が横にいた姉ちゃんにそれは難しいことだったようだ。
姉ちゃんは完全に母親の言いなりだった。着る服も母親、バレエのレッスンの予定も母親、食事制限や体重の管理も母親、見るテレビや読む本も全部母親の決められたものばかりだった。それに「どうせいつも一緒にいて必要ないから」と未だに携帯電話を持たされていなかった。
もちろん母親の許可がないと友達とも付き合えない。たまに姉ちゃんが友達を家に連れてきても「頭の悪そうな顔してる」「ダサい服を着て、家が貧乏なのかしらね」と失礼なことを言い続ける。それで姉ちゃんが寂しそうな顔をするのを見るたびに、俺も姉ちゃんと一緒に消えたいと思っていた。
「別に高校3年生なんだから、夜の7時に帰ってこなくても焦るなよ」
一度俺は親に心配をかけたくて、夜の11時くらいまで外をふらふら歩いていたことがあった。中学生の学ラン姿で行く当てもなくなったところで、流石に心配するだろうと家に帰ってみたら、あっけらかんとした母親が「遅かったのね」と呟いた。俺も呆気にとられて「心配しないのか」と尋ねたところ、「男だもん、襲われたりしないでしょう」とすっとぼけたことをぬかしやがった。
いいなあ、姉ちゃんは。
いつも心の奥で飲み込んできた言葉が、ぐっと喉のほうまで上がってきた。
いいなあ、姉ちゃんは心配してもらえて。
いいなあ、姉ちゃんは新品のものを買ってもらえて。
いいなあ、姉ちゃんはバレエやってりゃよくて。
いいなあ、姉ちゃんはお母さんがそばにいて。
とにかくムカついてしょうがなかった。俺はいつものコンビニに行くと、その日はチキンをふたつ買った。小遣いはせびれば無限に出てきた。それは俺への負い目なのか、本当に俺に関心がないからなのかはよくわからなかった。
コンビニから出てムカつく家に向かって歩き始めたとき、道の向こうから女の人が歩いてくるのが見えた。
セーラー服を着たままの姉ちゃんだった。
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