通夜の夜

もも

通夜の夜

 お足下の悪い中、今日は来てくださってありがとうございました。

 あぁ、随分濡れてしまわれて。良ければこちら、お使いください。


 最期の顔は、見ていただけましたか。

 もう二度と瞼が開くことはないのだとこうして口にしてしまうと、何だか込み上げるものがあります。


 ――様には仕事で大変お世話になったと、生前夫が申しておりました。

 なかなか感情や考えが顔に出ない質でしたから、やりとりにご苦労されたこともあったかと思います。入社から15年程経った今、こんなことになろうとは思いもしなかったのですが。


 ――様。

 もしよろしければ、想い出語りにお付き合いいただけませんか。

 ご存じの通り、夫は会社で首を括った状態で見付かりました。夫と親しくしてくださっていた――様も、さぞショックだったのではないかとお察しします。

 大切な存在を失った者同士、通夜の夜ぐらい亡き人について語るのも良いのではないかと思いまして。


 よろしいのですか。

 ありがとうございます。

 

 それでは何から話しましょうか。

 そういえば――様は私たちのことをどこまでご存じですか。

 えぇ、そうです。

 私と夫は、幼い頃からの付き合いです。

 それこそ幼稚園から大学まで、ずっと同じでした。

 飽きたことなど、ただの一度もございません。

 周りからは夫が私を好いているように見えたかもしれませんが、違います。のめり込んでいたのは私の方です。

 私が夫のことを離さなかったのです。


 夫のどこが好きだったのかと問われれば、『目』だと答えたでしょう。

 先ほども申しましたが、夫は小さな頃から表情の変化に乏しい人間でした。美味しい、嬉しい、悲しい……そういった感情が表情として現れにくいのです。

 夫と知り合ってから日の浅い人は彼がどのような人間か掴み難かったのでしょう、「何を考えているのか分からないのによく付き合えるね」と私にそっと耳打ちしたものです。

 

 でも――様なら分かりますでしょう。


 夫の目はいつも多くを語っていました。


 陽の感情の時には瞳に光を宿し、陰の感情の時には澱みを湛える。

 私は深く底の知れない沼のように、暗く濁った夫の目が好きでした。

 軽く背中を押せばその目は何も映さない、ただの玉になる。

 その際どい縁に立っている時の夫の危うさがたまらなかったのです。


 それに気付いたのは、小学校に上がるか上がらないかぐらいの、まだお互いに子どもだった頃です。上手くブランコを漕ぐことが出来ない、幼い夫の背中を押していた時のことでした。


 小さく柔らかな背中に両手を当てて、ぐっと押し出す。ブランコは与えただけの力の分だけ前へ漕ぎだし、そしてまた後ろへ戻ってくる。その動作を繰り返していましたが、次第に単調な動きにつまらなさを覚えた私は、試しにでたらめな向きに思い切り力を加えて押してみることにしたのです。


 予想もしない力が急に加わったことで、夫は思わずブランコから手を離してしまい、そのまま前に転げ落ちました。

 「しまった」と思ったその時、夫が私の方へ顔を向けたのですが、あぁ……夫の目は、とてもとても雄弁でした。


 どうして。

 こわい。

 なぜ。

 いたい。

 

 不安に怯えて、渦のようにぐるぐると混ざり合った疑念と戸惑いが、目からどろりと溶け出していたのです。


 もっと見たい。

 その混乱に震える瞳で、強く私を見詰めて欲しい。


 そう感じた次の瞬間、夫の目からぽろぽろと涙が落ちたかと思うと、先ほどまでの散乱した様子は失われ、ただのうるさい泣き顔に変わってしまいました。


 もったいない。

 感情が涙と共にこぼれてしまっている。

 気持ちがあふれるその寸前の状態を留めていなければ、あの目、あの表情を維持し続けることは出来ないのだと、私は幼いながらも理解しました。


 それからというもの、私は夫を追い詰めすぎることなく、常に感情の瀬戸際を歩かせることを目指したのです。

 ――様も覚えがあるのではないですか。

 夫は入社した時から――様に大変厳しく指導をいただいていると申しておりました。

 その熱心さに心が折れそうになる時もあるけれど、上手く飴を渡してくれるところが私に似ていると。


 えぇ、そうです。


 私、知っているんですよ。


 貴方もまた、痛みや苦しみに悶え抗う夫の目に魅せられてしまったのですよね。


 もっと見たい。

 もっと、もっとだと願ったのでしょう。


 そして、やり過ぎてしまった。


 証拠……必要でしょうか。

 動揺し、落ち着きなく動く貴方のその目が全てではないかと思います。


 私は、自分が死ぬその時まで苦悶に満ちた夫の目を愛する自信がありました。

 なのに、突然その気持ちの行き場を失ったのです。

 これから何を生き甲斐にすれば良いものかと考えあぐねていたのですが、貴方のその震える眼を見て思い付きました。

 

 私と取引をしましょう。


 私は貴方が夫を死に追いやったことを誰にも話さない。

 その代わり、貴方は私をその目で見詰め続ける。


 お気付きでしたか。

 今の貴方はとても素敵な目をしていらっしゃるのですよ。

 自分が殺してしまった男の妻に訳のわからないことを提案され、自分の身はどうなるのかと怯え、困惑と不安で瞳が大いに揺れている。


 異常ですか。

 ふふふ。その言葉で片付けられるようなものだったなら、お互い楽でしたのにね。


 私たち、きっといい関係を築けると思うんです。

 だって、同じヒトを愛したふたりですもの。

 

 あぁ、雨脚が強くなってきましたね。

 今ならどんな言葉もかき消されてしまいそう。

 今夜はゆっくり、語り合いましょう。 

 通夜の夜は、とても暗くて長いのですから。


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