「その橋を渡ってはいけません」と彼女が言う

烏川 ハル

「その橋を渡ってはいけません」と彼女が言う

   

 ふと気がつくと、俺は水辺に立っていた。

 ザッと見た感じ、川幅は100メートルか200メートルくらいあるだろう。大きな川の河原で、薄灰色の石が至るところにゴロゴロと転がっている。ちょうどこぶしサイズだから手頃らしく、石積みして遊ぶ子供たちの姿もあった。

「近頃の子供にしては珍しいな。自然のもので遊ぶなんて、微笑ましい光景じゃないか」

 最近は近所の公園ですら、ベンチに座ってスマホや携帯ゲーム機を弄っていたり、草の上にシートを広げて紙のカードゲームを並べたりする子供たちをよく見かける。

 それらと比較してしまい、ついなごんでしまったが……。

「いや、そんな場合じゃないだろ」

 ツッコミの独り言を口にしながら、ハッと我にかえる。

 どうして俺は、こんなところにいるのだろう?

 一体ここは、どこなのだろうか?


「確か、今夜は……」

 改めて自分の行動を思い返してみる。

 特に予定もなく、暇を持て余す夜だった。繁華街をぶらりと歩き、立ち寄ったバーのカウンター席で飲んでいると……。

「ああ、そうだ。赤いコートの女だ!」

 二つか三つ隣の席に、俺好みの若い女が座っていた。店内でも真っ赤な外套を着たままで、それと艶やかな長い黒髪のコントラストが美しかったのを、今でもはっきり覚えている。

 ちらりちらりと視線を送るうちに、声をかけてきたのは彼女の方だった。具体的には忘れてしまったが、たわいない話をするうちに意気投合。今夜は二人で飲み明かそう、とか言っていたのに、いつのまにか俺は酔い潰れてしまい……。


「そして気づいたら、この有様ありさまか」

 ぽつりと呟きながら、さらに俺は考える。

 ならば、あの赤いコートの女が、俺をここまで連れてきたのだろうか?

 しかし、近くに彼女の姿は見当たらず、俺は一人で河原に佇んでいた。

 確認の意味で、改めて周囲を見回すと……。

 先ほど見かけた子供たちの他に、視界に入ってきたのが大きな橋。赤い手すりのついた立派な橋が、少し下流に設置されていたのだ。

 それを目にした途端、俺の中で奇妙な衝動が駆け巡る。

「あの橋、渡らなきゃいけない気がする……」

 という言葉と共に、俺は橋に向かって走り始めた。


――――――――――――


 いざ橋のたもとに到着すると、そこで俺の足は自然に止まる。

 橋の利用者を遮るみたいにして、一人の男が立ち塞がっていたのだ。

 赤ら顔で、髪はモジャモジャ。つのこそ見えないものの、赤鬼を彷彿とさせる大男だった。

 俺の姿を認めると、彼はジロリと睨みつけてくる。

「おい、ちゃんと渡し賃は持ってきたか?」


 どうやら、この橋を渡るには通行料が必要らしい。

 財布を取り出すつもりでポケットに手を入れるが、それらしき感触がない。俺は自然と表情が険しくなり、その様子を見て、大男の方でも事情を察したのだろうか。

かねがないなら、代わりのものでもいいぞ。そうだな、何か芸でも見せてもらおうか?」

 少し穏やかな口調で、大男が新たな条件を提示するが……。

 ちょうどそのタイミングで、指先が小さくて硬いものに触れる。ポケットから出してみると、硬貨のたぐいのようだった。

 五円玉や五十円玉のように、真ん中に穴が空いている。ただし穴の形は丸ではなく四角、また「5」や「50」といった数字の代わりに、よくわからない漢字がいくつか刻まれていた。

 現在の日本で流通している貨幣とは、明らかに別物だ。俺自身、そんなものポケットに入れた覚えはなく、どうして入っていたのか見当もつかない。

 しかし、謎の硬貨を不審げに見つめる俺とは対照的に、大男は嬉しそうな態度を示した。

「おお、あるではないか! そう、それだ!」

 相手がこれで満足というならば、これを使わせてもらおう。

 その硬貨を大男に渡して、俺は橋を渡り始める。


 そして、橋のなかばを過ぎたあたりで、向こう岸の様子も見えてきたのだが……。

 反対側の橋のたもとにも、誰かが立っているようだ。俺に向かって手を振っているし、何か大声で叫んでいた。

 まだかなりの距離があるはずなのに、ちょうど風に乗ってきたのか、その声は俺の耳まで届いてくる。

「ダメよ、こっちに来ちゃダメ! この橋を渡ってはいけないわ!」

 妙に聞き覚えのある声だった。気になって、俺は歩くペースを速める。

「何してるの!? 違うわ、早く戻って!」

 慌てたような勢いで、叫び声を激しくする女性。

 近づくに連れて、その姿もくっきりと見えてきて……。


 ハッとした俺は、自然に足を止めていた。

 その女性は、3年前に付き合っていたノリコだったのだ。

 それを認識すると同時に、俺の胸がチクリと痛む。

 彼女との最後は、振ったとか振られたとかどころではない、酷い別れ方で……。

 今さらになって、少し罪悪感を覚えるほどだった。


 そんなノリコが凄い剣幕で、俺に「来るな!」と言っているのだ。

 ならば、彼女に従うべきだろう。

「わかった。君の言う通りにするよ」

 ノリコに対して、最後に一声かけてから、俺はくるりと背中を向けた。

 これが彼女との本当の別れになるのだろう。そんな気持ちをいだきながら、元いた河原の方へと再び歩き出す。

 ところが、橋を渡っている途中で、再び意識が遠くなり……。


――――――――――――


 次に気がついた時、俺は病院のベッドの上だった。

 俺は2週間くらい、昏睡状態だったらしい。

 ならば、おそらくあれは臨死体験だったのだろう。賽の河原から三途の川を渡ってあの世へ行く途中で、ノリコが俺を止めてくれたのだろう。


 そこまでは何となく納得できたのだが、生還した俺を取り巻いているのは、手放しで喜べる状況ではなかった。

 そもそも俺が昏睡状態に陥ったのは、岸壁から自動車で海へ突っ込んで、溺れたからだという。

 運転席に座っていたのが俺で、同乗者は、赤いコートを着た長い黒髪の女性。助手席にいた彼女は、既に亡くなっていた。しかも、肺に残っていた水を調べると、海水ではなく真水だったらしい。

 だから……。

「他で溺れさせて殺した死体を乗せて、海へ飛び込んだ。無理心中に見せかけた殺人だな? 自分だけ車から脱出して、助かる魂胆だったのだろう?」

「想定していた通りの脱出は失敗したけれど、こうして死なずに意識も取り戻したんだ。一応は成功したつもりか?」

 というように、警察は俺が彼女を殺したと決めつけている。


 そもそもあの夜は泥酔していたのだから、そんな犯行は俺には不可能。おそらく真犯人が俺と赤いコートの彼女を自動車に乗せて、ブレーキやハンドルなど運転席に細工した上で、海へ突っ込ませたのだろう。

 そう俺は主張したのだが……。

 警察は全く信じてくれなかった。

 運転席の細工なんて証拠は出てこないし、俺たち二人が知り合ったバーのマスターも、俺の主張に合致する証言はしてくれなかったという。マスター曰く、いちいち客の様子など――酔い潰れていたかどうかなんて――覚えていないそうだ。


 バーのマスターが本当に覚えていないのか、あるいは彼も犯人とグルだったのか、それは俺にはわからない。

 そのあたりは警察の領分だ。そうした全てを引っくるめて、真相を解明するのが警察の本来の仕事のはず。

 それなのに、俺を犯人と決めつけて、それ以上の捜査をおこなおうとしないとは!

 ああ、なんて無能な警察だろう……!


 とはいえ、警察が無能なのは、今に始まった話ではない。

 かつて俺は、身をもってそれを実感していたし、むしろ当時は、その恩恵にあずかるがわだった。

 なにしろ3年前、俺がノリコをった時には、全く疑われずに済んだのだから。




(「その橋を渡ってはいけません」と彼女が言う・完)

   

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