第10話 能く生きる
空木は、国立駅南口の旭通り沿いの喫茶店で、小谷原と待ち合わせた。
空木は、「小谷原さんにやっと最終報告をすることが出来ます」と、封筒に入った報告書を小谷原に渡した。そして、小谷原の名前を
小谷原は、改めて報告書を見て、「マルス製薬のMRでしたか」と呟くように言った。
「ええ、転落死した横山さんと同じ会社のMRでした」
「空木さんの報告書には、ある人物に偽名で泊まるように指示された、とありますがどういう意味なんですか。偽名で泊まれと言う方も言う方だと思いますが、その通りにする方もする方だと思いますが」
その小谷原の疑問は、最ものことだった。偽名で宿泊しろと言われて、訳も分からずその通りする人間などいる筈がないのだ。
「塚水と言う男は、偽名を使えと命じた人間に弱みを握られていたようです。結局は、保身のために命じられたままにしたという事です」
「悲しいことですね。人の弱みに付け込もうとする人間がいることも、その弱さと戦う勇気を持てない人間であることも」
二人はコーヒーカップを空にした。
横山晴美は、ウルトラマン像の前で日傘を差して立っていた。ここで待ち合わせるのは何度目だろう。これが最後になるかな、と思いながら、「お待たせしました」と言って晴美に会釈をした。
コーヒーショップに入って空木は、「奥さんに最終報告をさせていただく時がやっと来ました」と、小谷原に渡した時と同様に、封筒に入った最終報告書を渡した。そして、塚水は命じられるまま、偽名で横山さんとテント泊をし、命じられた通り睡眠剤を飲ませたこと。命じたのは畑上という東京支店長だったと話した。転落時に塚水は、別ルートで下っていて現場にはおらず、横山さんは一人で奪われたスマホを取り返そうとして、奪った赤城という男を追って、あの急な下りで転落したことを、順を追って話した。
晴美は空木の報告を聞き、封筒の最終報告書を取り出して読み始めた。
「主人は不正と戦おうとしていたんですね。塚水さんもご自身と戦ってくれれば、主人は命を落とすことはなかったんですね」
「塚水は、私との面会で横山さんが、畑上という人間と戦おうとしていたと知り、涙を流して悔やんでいました。奥さんには、自分が後悔している事、詫びていることを伝えてほしいと頼まれました」
「塚水さんは、どんな罪を問われるのでしょう。それと畑上という人は、部下を守る立場にいた筈のその人は、罪には問われないのでしょうか」
「塚水は、横山さんへの未必の故意の殺人と、赤城太という男の死体遺棄を問われます。畑上は横山さんの転落死については殺人教唆を、赤城太については殺人と死体遺棄を問われることになるでしょう」
「‥‥‥主人は命と引き換えに畑上に罰を与えたということですね。これでマルス製薬は良い会社になるんですね」
晴美はハンカチで目頭を押さえた。
空木は晴美の言葉を聞いて、マルス製薬が良くなるにはまだ足りないことがあると思った。
「空木さんは以前、
「私の四十三年間の人生経験では、まだまだ答えは出ませんけど、人間は辛いこととか、苦しいこととかに遭った時、死にたいとか死んだ方が増しだとか思います。生きるというのは、その逆の嬉しいこと、感動することに出合って、生きていて良かったと思う瞬間に出合うために、生きるのではないでしょうか」
コーヒーショップに入って三十分ほど経って、アイスコーヒーの氷も解け始めていた。
「奥さんには、報告書には書かれていませんが、お伝えしておきたいことがあります」そう言って空木は、横山忠の異母妹である島岡多恵の話を始めた。
「主人からは、母親違いの妹がいることは聞いていましたが、島岡多恵という名前は初めて知りました。その妹さんが一緒の会社にいて、二人で畑上という支店長のセクハラの証拠を撮ろうとしていたなんて、主人は何故私に言ってくれなかったんでしょう」
「話す機会を失って言いそびれたのか、奥さんに余計な心配をかけたくなかったのか、それは分かりませんが、島岡多恵さんは奥さんに会いたかったようです。多恵さんは、ご主人の葬儀にも参列していたと言っていました。畑上が厳罰を受け、厳しい社会的制裁を受けることは、多恵さんの思いでもあるでしょう。お会いになってみますか」
晴美は黙って頷いた。
空木は、探偵事務所のパソコンの前である文書を作成していた。空木が今回の事件に関しての、最後の仕事と位置付けた仕事に取り掛かっていた。文書は次のようなものだった。
マルス製薬株式会社 監査役各位
告発状
前略
突然の、匿名での告発状をお送りする非礼をお許しください。
私は、貴社の常務取締役である田神義則の、善良なる管理者としての注意義務、善管注意義務違反を糾弾し、訴えるものです。
私は、横山忠氏の転落死亡事故の調査を託され、その調査の中で、横山氏が畑上和行(貴社の東京支店長で殺人容疑、死体遺棄容疑ですでに逮捕)のセクハラ行為を糾弾するため、内部通報した際、田神義則は、あろうことか営業企画課の竹井課長から横山氏が通報者であることを聞き出した上、被通報者である畑上和行に教えるという、貴社のコンプライアンス体制を根底から覆す暴挙を行ったのです。田神のこの行為により、横山氏の転落死、そして赤城太氏が殺害されるという事件が引き起こされたことを考えれば、元凶は田神義則の、役員としての善管注意義務違反は明白であると確信するものです。
マルス製薬の再生のため、監査役各位がその善管注意義務を果たされることを強く希望致します。
草々
令和元年六月
マルス製薬の再生を願う者より
田神は、六月二十七日のマルス製薬の株主総会において、解任退職することとなるが、空木がそれを知るのはしばらく先のことだった。
梅雨入りを間近にした晴れの日を使って、空木は久し振りに奥多摩の山に登った。
奥多摩駅から昭和橋を渡り、大岳山の登山口に入る。愛宕神社を過ぎ、林道から山道に入り天聖神社を過ぎた辺りから鎖場、梯子場を渡る。登山口から歩くこと二時間三十分、鋸山に着いた。この山の直下の大ダワへの分岐辺りで、赤城の死体が見つかった。空木はこの辺りだな、と呟きながら通り過ぎた。ここからおよそ一時間半で大岳山に到着する。大岳山は標高1237メートル、多摩三山の一つで人気も高く、御岳神社からのハイカーも多い。眺望も良く、今日も富士山が綺麗に望むことが出来る。空木は、ここから御岳を通り、大塚山を経て、丹三郎を
久し振りの山行を終えて国分寺に帰ってきた空木は、平寿司で足に心地良い張りと疲れを感じながら、ビールで喉の渇きを潤した。
常連客の林田と金澤が、「石山田さんから話は聞いたよ。空木さん、お疲れ様でした」と言ってビールのグラスを掲げた。
店員の坂井良子も「お疲れ様でした」と言って、芋焼酎のボトルと水割りセットを運んできた。
この瞬間も生きていることを実感する時だ、と空木は思った。
近年稀にみる長い梅雨が明け、一転して猛暑日が続く東京を離れた空木は、横山晴美、島岡多恵とともに北海道の東室蘭駅に降り立った。三人は、駅から徒歩十分ほどのところにある室蘭寺に納骨に向かっていた。
空木は、晴美から、その後島岡多恵と会ったこと、二人で忠の納骨に室蘭に行くことになったことをメールで知らされた際、自分も許されるなら一緒に行きたいと頼んだところ、了解をもらえたのだった。
室蘭寺には忠の母の美江が待っていた。空木はここで島岡多恵から、マルス製薬常務の田神が六月の株主総会を持って退職したことを教えられた。
空木は墓前で手を合わせる三人を見て、晴美は実家のある京都に戻ることを、多恵は兄さんのお陰で敵討ちが出来たとでも報告しているのだろうかと想像し、こんな形で室蘭に戻ってきた息子に母親はどんな思いなのだろうか、と思いを巡らせた。空木自身は役目を果たせたことを、横山の墓前に報告した。
手を合わせていた晴美は、墓に向かい、「あなたよく頑張りましたね。また、めぐり合ったら一緒になろうね」と言って涙を落した。
納骨の墓参を済ませた空木は、三人と別れ札幌へ向かった。札幌で後輩の土手と合流し、寺山を紹介してくれた礼をすることにしていた。
空木が札幌に来るのは一年振りだ。札幌で良く行っていた寿司屋の『すし万』の須川ご夫婦に挨拶がてら顔を覗かせ、ついでに北海道ならではの味を満喫する魂胆だった。
蝦夷アワビ、時知らずというサケの子で「
これも人生を能く生きている証かな、と訳の分からない独り言を言った。
東京は猛暑が続いていた。またヒマになった探偵の空木は、ジムでのトレーニングを終えて、石山田と平寿司で待ち合わせた。
「いらっしゃいませ」カウンターの向こうから聞き慣れない若い男性の声がした。石山田が、「誰」と主人に聞いた。隣にいた女将が、「うちの主人の甥なのよ」と言い、
「フレンチの修業をしてきたんだけど、しばらく寿司屋の修業をさせてやってほしいって、うちの兄貴から頼まれてね、何年か面倒見ることになったんですよ。宜しくお願いしますよ」と主人が説明した。
「平沼勝利と言います。宜しくお願いします」と言って、その甥は頭を下げた。
スラっとした醤油顔の良い男だった。
「健ちゃん、これは大変なライバルが出て来たねー。良子ちゃんとられちゃうよ」、と石山田は
「馬鹿言うな、俺は脇目も振らずに、人生を能く生きるのみだ」
「ああ、もう負け惜しみ言っているね。失恋も生きている証拠だ。健ちゃん、能く生きて行こう」
空木はこの他愛もない会話に、今を生きていると実感した。そして、明日も今日と変わらない一日でありますように、と呟いた。
了
奥多摩連山 暗闇の獣道 聖岳郎 @horitatsu1110
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