第9話 アップルパイ
キッチンの奥から、香ばしい匂いが漂ってくる。
匂いとともに、奴が手にミトンをはめて、熱々の皿を運んできた。
焼きたてのアップルパイの匂いは、昔食べた時のものより気持ち甘めなのは、奴が腕を上げたのか、それとも単純に記憶の不可思議か。
あいつはアップルパイをその場で切り分けて、そのうちの一切れをまた新たに皿に乗せた。仕上げにバニラアイスを横に添えて、私にくれる。
「どうぞ」
「……いただきます」
私は一緒に渡されたフォークでゆっくりとアップルパイを割く。さくりと気持ちの良い音がして、りんごの甘く食欲を唆る匂いが鼻を満たす。
喫茶店で珈琲を飲み終わった後に、私は結局、奴の家まで来てしまった。
家に入るとリビングに通されて、ちょっと待っててと言われて十数分くらいしたら奴はアップルパイと共に現れたのである。
私の頭の中には色々な思いが交錯しつつ、おそるおそるそのアップルパイを口に入れた。
「──うっま」
記憶の中の彼のアップルパイと同じ──いやそれよりも断然美味しい──味が口の中に広がる。私はそのまま二口目を割いて、口に放り込む。
「私、ぶっちゃけ昔のことあんま覚えてないんだけどさ、あなたのアップルパイのことはたまに思い出すんだよね」
「嬉しいね」
そしてまた、はにかむようにして笑う。
「あの頃もアップルパイ食べてる時の反応が、一番良かったよアキちゃん」
「マジか。覚えてない」
「あの頃はさ、アキちゃんにもこっちを好きになってほしくて、それで色々やったりしてたんだけどさ」
「わかったよそれは。だから別れることにしたんでしょ」
SNSでやり取りして、今こうして再会してまた顔を合わせて改めて思う。こいつのことは、別に嫌いではない。梨恵と同じ、どこかしら波長の合う存在だ。
「私も他人を好きになれるかも、なんて私の気まぐれに付き合わせちゃって、悪かったよ」
「むしろ光栄だけどね、その実験相手に選んでもらえて」
「あの時から、私何にも変わってないよ。私が人を好きになるのはさ、多分もう無理って悟ったんだ。流石にこの歳になって、自分のことわかったよ」
人を好きになれなかった少女が、運命の相手と出会って恋に落ちるとか、そんな物語が、私にもあるかもしれないと考えていたこともある学生時代。ただ、私にとってそれは手で掴むことはないものだった。
正直、ちょっとガッカリしたこともあったけど、今はもう割り切っている。
「アキちゃんってさ、今でもその辺線引いちゃってるんでしょ」
「その辺?」
「だって、わざわざその、相手に『私はあなたのこと好きにならないよ』って言うのは、そういうことじゃん」
「なんか前に似たようなこと、友達にも言われた」
──好きって感情を特別視し過ぎてない?
梨恵に言われたその言葉は、おそらくその通りなのだ。そりゃそうだ。自分にないものだから、気にせざるを得ない。
「今はもう、俺もアキちゃんと恋人っぽくなりたい、とか思ってないよ。あれからやっぱり、色々考えたから。こっちだってさ」
「ねえ、このアップルパイさ」
なんだか気まずい話題だったので、さくりとアップルパイにフォークを刺して、話題の矛先を変える。
「もしかして朝から仕込んでた?」
アップルパイを作る工程は知らないが、流石に家に帰ってきてからの数分そこらで作れるものではないことくらいわかる。
「そう。アキちゃんに食べてほしくて。ダメだったら普通に自分で食べるつもりだったし。アキちゃんがアップルパイ食べる時に、ちょっとだけ頬が緩むの、好きだったから」
むう。四面楚歌。
「これからも、食べに来なよ」
「え?」
「アップルパイ。いや、アップルパイだけじゃなくて、作るの好きだし、食べてくれる人がいると嬉しい。もちろん、アキちゃんさえ良ければ」
「でも悪いし」
正直このアップルパイは、美味しい。
また食べたいと思っていたこいつのアップルパイ。私の好きな味なのだ。
それよりももっと美味になっていたこれを、もう一度食べたいのが素直なところだ。
「それに、私はあなたのこと好きにならないし」
「それは、拘らなくていいじゃん。俺もアキちゃんとそうなりたいとは、思わない。悪いって言うんなら対価でも貰おうかな」
「体?」
「なんでだよ」
突然の私の回答に、奴はふき出した。
確かにちょっと茶化したが。でもどうだろう、別に良いけれども。
「俺の方が気が進まないからそれはなし。普通に、なんか変わりのお菓子とかなんとか、土産物持ってきてくれれば」
「なんかお店通うみたい」
「それで何か悪いこと、ある?」
「──いや」
「また映画一緒に見に行こうよ。アキちゃんと感想言い合うの、楽しかったよ」
「──私も」
楽しかった。普通に。ロメロと同じくらい。
「え、でも私、他の男とセックスした後とかに来るよ?」
「そこ気つかうところ?」
「いや、そっちが良いなら良いんだけど……」
私は腕組みをして、天井を見上げた。普通じゃない。でも、こいつの、榎本の提案は、私にも少し楽しそうに思えた。
「じゃあ、来月あたり、またお邪魔しちゃおうかな」
「待ってるよ」
そう言って、榎本はまたはにかむようにして笑った。
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