あの両の手から。

西奈 りゆ

彼女と私。

コンビニのレジ横に並べてあるそれが目に入ると、今でもつい手を伸ばしてしまう。

季節ごと、あるいは思い出した頃に新しくなっている、サイコロサイズの四角形。

「チロル」、あるいは、「チロルチョコ」。

今回は「うぐいす」あんのチョコらしい。昔、開発室では、「ウナギのかば焼き」味や「キムチラーメン」味が試作されたというのを読んだけれど、本当だろうか。


親友の奈美に子どもができて、落ち着いたころにお祝いにいったとき、

その子、「桃花ももか」ちゃんは桃色の肌にお日様を浴び、すやすやと眠りこんでいた。控えめに言って少しやつれた表情の奈美はそれでも私を歓迎してくれ、受け取ったゼリーの詰め合わせを開いて、歓声をあげていた。


私は特に家事が好きというわけでもないし、どちらかとも言わずとも嫌いだ。

それでも明らかに疲れの色を隠せない奈美を見て、ほんの数時間ではあるけれど、その日は簡単な家事を代わることにした。


桃花は、よく泣く子だった。

もともと一人っ子で結婚もしておらず、子どもと接する機会もなかった私が恐る恐る作業をしていると、不意に背中から火のついたような泣き声が聞こえてきて、ソファで休んでいた奈々が慌てて駆け寄るのが見えた。


「ごめんねー」と服をはだける気配がして、目の前の食器に向き直る。


「大変だね」


「覚悟はしてたつもりなんだけどねー。覚悟だけじゃ、もうぜんぜん足りないっていうか・・・・・・」


ついてみせるというより、本人も気づかないうちに出てしまったような、大きなため息だった。大学時代に、奈々のこんな種類のため息は聞いたことがない。


油ものだろうか。スポンジでこすってもなかなか取れないぬめりを落とすため、ガスをつけていいかと尋ねる。「いいよー」と、間延びした声。

かすかな震えが混じったその声に、あらためて彼女に蓄積した疲労の色を感じ取る。

代わってやることは、できない。お湯で洗ったお皿は、元の白色を取り戻していた。

開け放たれた窓から、カーテンをゆらして夏の風が入り込んでくる。


二枚目のお皿を片付け終わったとき、「でも、可愛いよ」と奈々が言った。

自分に言い聞かせるまでもなく、自然と口をついて出た、という感じだった。


私には一生言えないセリフなんだろうなと思っていると、「うるさくてごめんね」と、後ろから声がした。振り向かずに、「ううん、大丈夫」とだけ答え、ふきんを手に取る。

奈々は、私の子ども嫌いを知っている。


持って生まれたものなのか、それとも感情を出すことを「みっともない」と見下ろす母の影響からか、私はめったに感情を表に出さない。

かといって、孤立しないためのルールには違反しないように、そつなく立ち振る舞うことができたので、「友達」、たまには「恋人」と呼べる人も、そこそこにいるし、いた。SNSで繋がっている友達は、ほとんど何も考えず、ライン作業のようにスクロールと「いいね」ボタンを繰り返す私の無表情を、どこまで知っているのだろう。


とはいえ、べつに私は、人が嫌いだとか、進んで周りから距離を置きたいと思っているというわけでもない。ちょうど良い距離、というのが、他の人よりも少し狭いのかもしれないけれど。ようするに、めんどくさい引っ込み思案なのだと、自分では思うようになっていた。


「ありがと。うち今、こんなのしかないけど」


いくぶん顔色もよくなったように見える帰り際、奈々から渡されたのはバラのチロルチョコだった。レゴブロックのような「TIROLU」の文字の入った、コーヒー色のヌガー味。


「変わらないね」というと、「私は変わらないよ」と、学生時代のような眩しい笑顔で、彼女は笑った。

桃花はお腹が満たされて満足したのか、またすやすやと寝息をたてていた。

その姿を見て、ちくりとした感情が私の胸を刺した。


「母性本能、弱いのかな。私」


古臭い言葉だとは思いながらもついそんな言葉を口にしてしまうと、

「そんなもん、男が勝手に作った幻想だって」と、奈々は鷹揚おうように笑った。学生時代、「私はあんたのこと、けっこう好きだよ」と笑ってくれた、あの表情かおで。


ちょっとしたいきちがいで、会社内で私の悪い噂が持ち上がったのは、それから数年後のことだった。周りの女子社員からは好奇、あるいは敵意のこもった目で見られ、男性社員からは遠巻きに、当たり障りのない距離を置かれて、明確な孤立というわけでもないのに、それが日に日に蓄積していった。

PC画面を機械よりも機械的に叩いて、最低限の仕事を済まして、たまには残業をして。前より反応の薄くなったあいさつをして、コンビニで食べるかもわからない何かを適当に買って、帰宅する。週に2回のゴミ捨ても両方とも忘れてしまったときは、正直はっきりと自分に嫌気がさした。鏡を見れば、化粧の下にうっすらとクマの滲んだ、生気のない女の顔がそこにあった。


奈々から久しぶりに連絡があったのは、ちょうどそんなときだった。

旦那が出張だから、久々に会わないかという文面を、私は胡乱うろんな気持ちで眺めていた。別に休日だからといって、何もすることがない。

会うとすれば数年後だし、もうすぐ5歳になるはずの桃花のことを思うと少し面倒な気持ちにもなったけれど、気づけば上辺以上に長く人と話すことをしてこなかった、その期間があまりにも長くて、私は気づくと承諾の返事を送っていた。


色違いのノースリーブを着て私を出迎えたのは、奈々と大きくなった桃花だった。

「おそろいだね」と言うと、「今日はたまたま。ママみたいな服が着たいって。おませさんだよね」と、奈々は苦笑してみせた。


きっと気づいていたと思う。けれど奈々からは、心配の声をかけなかった。

学生時代の思い出話、友人、知人の近況、最近話題になっているカフェの話。

けれど最近復帰したという仕事の話は、奈々の口からはほとんど聞かれなかった。

透き通るティーポットの中の茶葉が開くにつれ、他愛のない話はゆっくりとふくらみ、私の喉元を香りのよい紅茶が温めていく。「内緒だよ」と奈々が開けた高級ホテルのクッキー缶が半分空くころには、気づけばあっというまに夕方だった。


桃花は大人しい子なのか、それとも最近続く曇り空のせいなのか、その間ずっとテレビでアニメのDVDを観たり、お絵描きをして遊んでいた。子どもらしい3等身の3人(家族だろう)が並んで立っている、白いたんぽぽの草原の絵だった。お手洗いに立ったときに何気なく目に入ったので思わず「可愛いね」と言うと、どう反応したらいいのかわからなかったのか、うつむいてしまった。「照れてるのよ」という奈々の言葉がなかったら、嫌われてしまったと思ったかもしれない。


「思い出した。ひとみ、ちょっと待ってて」


帰り際、玄関先で靴を履こうとしていると、奈々がそういってリビングにかけていった。戻ってきた彼女の手には、もう何年も目にしていないチロルチョコのアソートの袋があった。


「好きなの持っていきな。仕事、疲れるでしょ」


やっぱり奈々には、分かっていた。どこからどう知ったのか知らないけれど、小首をかしげて笑うそのまなざしの奥にはうるんだような心配の色があって、その場に座り込んでしまわないようにするのが精一杯だった。

ぼやけそうになる視界をようやく取り戻すと、いつのまにか桃花が母の側に立っていた。初めて出会う何かを見るような、不思議そうな顔をして、私を見上げていた。


「あげる」


奈々が手にぶらさげていた袋から、小さな手で桃花は3つ、チョコを取り出した。

ミルク、ヌガー、クッキーショコラ。

出会って間もなくて、ほとんど話したことすらない、ほとんど見ず知らずの人間にこうして手を伸ばせる、それは奈々譲りの彼女のやさしさなのだと気づき、けれどこの先自分にはたぶんこういう子どもに恵まれる機会はないだろうという思いが錯綜し、ついまた視界がうるんでしまいそうになった。

それに。ミルクもショコラも、甘いものがあまり得意ではないわたしは、日ごろほとんど食べたことはない。


「ありがとう。桃花ちゃんのが少なくなっちゃうから、お姉ちゃん、これをもらおうかな」


「TIROL」の文字が入った、どこかほろ苦いヌガー味だけは昔からわたしの好物で、自分の半分ほどもない小さな手のひらから、私はそれを受け取った。


「桃花ちゃんは、どれが好きなの?」


思いついて何気なく訊くと、桃花は少し顔を赤らめながら、「うしさん」と答えた。

白と黒のパッケージの、ミルク味のことだ。


「そっか。お姉ちゃんは、これが一番好きなんだよ」


かがんでヌガー味を指さして見せると、「それ、きらい」と辛らつな答えが返ってきて苦笑した。たしかに、どちらかと言えばチョコよりもコーヒーの味を連想させるそれは、子どもというより、背伸びした子ども時代を懐かしく思う大人の味なのかもしれないし、中の嚙み切れないヌガーも、桃花くらいの子どもにとってはまだ受けつけないのかもしれない。わたしはその、ほろ苦く甘い味が好きなのだけれど。

「それ、にがいからきらい」と案の定いう桃花も、いつかこの味がわかる日が来るのだろうか。


「またおいで」と手を振る奈々に見送られて、玄関を出た。

母親の背中に半分隠れて見送りにきてくれている桃花に「またお絵描き、見せてね」というと、その日初めて彼女は、はにかんだ様子で「またね」というように、小さく笑って手を振っていた。

角を曲がると、ねずみ色の雲の間に、一筋だけ光が差していた。


「今でも、ぜんぜん信じられないんだけどね」


とるものもとりあえず駆けつけたあの日から3年が経ち、大きくなったお腹をなでながら奈々が言った。

「そうだね」と、私は言った。私だって、信じられなかった。


お供えした牛柄のチロルの前で、写真の中の桃花は、たんぽぽのような、ひまわりのような、まっすぐな笑顔を向けてピースサインをしている。

その笑顔は、ずっとここにあるけれど、もうかえってくることはない。


「奈々」


「ん?」


「桃花ちゃんと会わせてくれて、ありがとう」


正しいことなのかわからない。けれど心の底からそう言うと、深い湖のような色をたたえた奈々の瞳から、一筋の涙がこぼれた。


奈々にことわってから、桃花が残した姿の前に膝をつく。

これでよかったのだろうかと思いながら、一回り大きくなった牛さんのチロルチョコを並べる。


「桃花ちゃん。お姉ちゃん、元気だよ」


あの日の後、桃花が書いてくれたという3等身の私の絵は、

今も机の中に、はにかんだまま眠っている。


風の音を、聞いた気がした。


2024.6.10 誤字訂正しました。










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あの両の手から。 西奈 りゆ @mizukase_riyu

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