第4話 それぞれの朝 井出透(いで とおる)

 目覚ましの音が、井出透の意識を肉体に戻した。ああ、今日もまたこの井出透の肉塊を着て一日という時間を過ごさねばならない。その絶望感に井出透の目は中々開かない。目覚ましのけたたましい音が小さい部屋に鳴り響く。あまり長いと母親が怒鳴りこんできてしまう。井出透はおずおずと手を布団からだして、アラームの音を消す。目を閉じて背伸びをする。静かに心を整えて、目を開ける。今日こそは白い天井だけが見えるようにと祈りながら。


 薄っすら開くと、今日は白い蛇のようなものが天井とは異質にふわりと飛んでいる。ああ、だめだ。今日も見える。もう何千回祈ったって、叶わない祈りをいい加減諦めたいのに。神様なんていない、と言いたいところだが、いわゆる神らしきものも見えてしまう、井出透は軽く絶望していた。顔も洗わず、汗拭きシートで顔も全部拭いてしまって、坊主に近い髪をとりあえずなでつけ、制服を着る。すべての用意が終わってから、井出透は小さい和室をでた。




 リビングには朝ご飯の匂いが充満していた。4人掛けのテーブル。父がスマホをいじりながらコーヒーを飲み、母は井出透の弟の満にかいがいしく声をかけている。「おはよう」というもこの家では基本、井出透の為に朝ご飯は用意されていない。母が「朝ご飯あるわよ」と珍しく言ったので、普段使われない井出透の席を見ると、パンの耳が置いてあった。なるほど。今日は満は遠足のようなので、お弁当はサンドイッチなのだろう。




「ありがとうございます」




 言わないと母はとんでもない暴言を吐き出すので、素直に礼を言って、井出透は味のしないパンの耳をなんとか甘くなるまで咀嚼してみる。




「お弁当、たくさん用意したから。友達にも分けてあげるのよ」




「うん、母さん」




 ああ、嫌だ。母の体から蛇のようなものが甘いハチミツ色をして、満にまとわりついている。気色悪い。気持ち悪い。何とか早く口のものを空にして、外に出たかった。父は相変わらず小さい青黒い箱の中に入っていて全てを遮断している。お前がそんなだから、母の愛情はこんなにゆがんでしまったんだ、と怒鳴りたくなる気持ちを井出透は抑えて、顎の上下運動にとにかく集中した。集中して集中して、ようやくすべてを胃に送ると、手を合わせて「ごちそうさまでした」と行儀よく言った。そして、バックをひっつかみ、家を出る。




 重苦しい家の扉を開くと、廊下の手すりの奥から、薄く雲のかかった秋の空が見えた。10月。神様がすべて出雲に集まるこの季節。空が晴れ渡っていてすがすがしい。ようやく据えた新鮮な空気に、少しだけ足取りを軽くして、エレベーターの下りのボタンを押した。14階から降りてくるエレベーターを見て、井出透はしまったと思う。4階でエレベーターが開く。やはりスーツ姿の男性がすでに乗っていた。軽く会釈をして、乗る。




『いやだ、いやだ。仕事なんていきたくない』




 声になって聞こえそうだ。黒い何かが水蒸気みたいに体から湧き上がるのが見える。気持ち悪い。そんなに嫌なら仕事なんて行かなきゃいいのに、そう思うけれど、こういう大人と何千回とすれ違ってきた。大人になんて救いがない。井出透はそう思っている。


エレベーターを出ると、井出透は大きく息を吐いた。




「透ー!おっはよおおおおお!」




 つんざく大きい声の主は谷日向だ。 



「また待ってたのかよ」




「あら、失礼じゃありませんこと?このヒナタ様が待っていてあげているのに」




「お前は朝見るには眩しすぎるんだよ」




「えっ」と竿谷日向は両手で顔を覆う仕草を見せたので、井出透は「顔は普通だ」と言ってやった。




「ひどいなあ。あ、氷雨、これ、幼馴染の井出透。透って呼んでやって」




 日向の後ろに神の長い女の子が立っていたことに井出透はようやく気付いた。

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