第3話 それぞれの朝 雨洞氷雨(うどう ひさめ)

 雨洞氷雨は物音一つ立てないようにそっと制服を着て、学校に行く準備をしていた。彼女は決して目が悪くなかったのだが、ダサい黒縁の大きな眼鏡を手放さない。艶々と無駄に輝く長い直毛の髪をいっそぐしゃぐしゃにしてやろうかと鏡の前で彼女は憎らし気に自分を見ていた。それでも彼女の切れ長の美しい目や整った目鼻立ち、形のいい唇すべてから醸し出される美しさは消えないようだった。


 雨洞氷雨は全身が耳になったかのように1階の物音に集中していた。普段、雨洞氷雨の両親は家に滅多にいない。どちらも仕事で忙しいようだ。仕事だけが忙しいのか、という気はしているがそんなことはもうとっくに雨洞氷雨にはどうでもよかった。いる方が都合が悪い。それよりももっと悪いのが父だけがいることだった。


 カチャカチャと音がする。母はもっと物の扱いが荒い。間違いなく父がいる。恐らくコーヒーでも淹れているのだろう。雨洞氷雨は父にできるだけ、できるなら永久に会いたくなかった。けれど、今父がいるであろうリビングを通らなければ、玄関にたどり着けない。「そろそろ学校に行かなくていいのか」なんて言いに来ないのがせめてもの救いだ。コーヒーの香りがここまで漂ってきそうで、雨洞氷雨はもう履きそうなほど胃がキリキリと痛んだ。


「ひーーーーちゃーーーん!学校いこー!!」


 静かな家に近所迷惑なほど大きな声が響いた。夏休み前からやたら構ってくれる竿谷日向の声だった。夏休みの間など、どれほど彼女に助けられただろうかと雨洞氷雨は思う。竿谷日向と雨洞氷雨は教室が違う。竿谷日向は大楠中学校の2年1組で、雨洞氷雨は2年3組だ。


 「貴方綺麗な眼だね。なんて名前なの?」


 廊下に散らばった教科書を拾っている時に、突然話しかけられたのだ。「綺麗だね」より、「美しいね」よりその言葉は染み入るように雨洞氷雨の心に届いた。以来、何かと構ってくれる竿谷日向を雨洞氷雨は心地よく思っている。


 自分の部屋の窓からのぞくと、竿谷日向のひまわりみたいな笑顔と、私に向けて手を振っている。


「今行くね!」


 雨洞氷雨は竿谷日向に会うまで、自分に大きい声が出せることを知らなかった。雨洞氷雨は急いでカバンをとり、リビングを「行ってきます」とだけ言って急いで家をでた。


 外に出ると一気に息が吸えた気がした。


「おはよう、ひーちゃん!今日もいい天気だね」


「おはよう」


 これだけしか返せない自分を雨洞氷雨は嫌に思った。竿谷日向は自転車を押して雨洞氷雨と一緒に歩き出した。


「あ、これからもう一人迎えに行くんだけど、いい?」


 雨洞氷雨は極端な人見知りだ。けれど、竿谷日向にだけはどうしても嫌だと思われたくない。


「うん、いいよ」


 そしてすっかり明るくなった海辺の町を歩いた。

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