第二十話
全開にした窓から注ぐ光が、寝室を暗いオレンジ色に染めていた。
オーバーサイズの古いブラウスに着替えたフルエットは、なんでもない一日のようにダイニングでホットチョコのマグを抱えていた。口をつけても、今はチョコレート色のとろりとしたお湯くらいにしか感じない。濃厚な甘い香りも、今はさっぱりわからなかった。
胸の痛みが、他の全部を塗りつぶしているみたいだった。
ユリオが護るなんて気を起こさないようにするためには、ああするしかなかった。仲間のことまで持ち出したのは、だとしてもやりすぎだったかもしれない。だけどそれくらいしなければ、きっと彼はついてきてしまう。ユリオは、仇さえ護ってしまうような少年だから。
このまま、彼が自分を嫌いになってくれればいい。どうせ独り立ちするまでの間の付き合いと、決まっていたのだから。
「っ」
舌がヒリつく。どうやら、ホットチョコで火傷していたらしい。……これだってすぐに治る。舌の火傷も、人狼に食い千切られるのも、フルエットにとって大した違いはない。
「……だから私は、護ってほしくなんて」
そうひとりごちた次の瞬間、玄関から派手な音が轟いた。
フルエットは表情ひとつ変えることなく、ダイニングの窓の方を見た。外はまだ、黄昏時の光を残している。日が落ち切る前に現れたのは予想外だったが、起きることはどうせ変わらない。後片付けのラインナップへ、マグといくつかの家具が加わるくらいだ。
その前にもう一口くらい飲んで置こうかと、マグに口を着けた。
「――フルエット!」
廊下から響いた声に、フルエットはたまらずむせた。
「えほっ、ごほっ……!?」
「玄関のドア! あとで直すから道具の場所教えろよな!」
肩をいからせてダイニングへ乗り込んできたのは、淡緑色の三角翅を生やした少年だった。ずんずん迫ってくるその姿を凝視しながら、フルエットは彼の名前を口にする。
「ユリオくん……君、なんで……」
フルエットの顔から、音を立てて血の気が引いた。力の抜けた手から、マグが滑り落ちる。
素早く距離を詰めたユリオが、テーブルに落ちる寸前でマグをキャッチした。中身まで無事とはいかず、こぼれたホットチョコが卓上に飛び散る。
ユリオがテーブルにマグを置いた次の瞬間、フルエットはソレを彼に向けて投げつけていた。
壁に激突したマグは音を立てて砕け散り、ホットチョコの飛沫と陶器の欠片が床と壁に散らばる。
そうなるのがわかっていたみたいに、ユリオはこれっぽっちも動じていなかった。これでもこっちは、必死で威嚇したつもりなのに。
「なんで帰って来た!?」
こんなに声を張り上げたのは、いつぶりだったろうか。ブラウスの胸元をかきむしるように握り締めて、苦々しい視線をユリオへぶつける。
距離を取ろうとして、背中に固い感触。そして、身体が宙に浮く感覚。自分が椅子に座ったままだったことを思いだしたのは、視界がひっくり返ってからだった。
痛みに備えて、目を閉じ身体を固く強張らせる。けれど想像したはずの痛みは、いっこうにやってこない。なのにとっくの前に椅子の倒れる音がしていたのを、今さらのように奇妙に思った。
誰かの体温を感じる。それが誰かということは、確かめるまでもなくわかりきっていて。
目を開けると案の定、瑠璃色の垂れ目が心配そうに揺れていた。フルエットは、椅子を蹴とばして滑り込んだユリオに抱き留められている。
「大丈夫か?」
瑠璃色がフルエットを見つめる。そこに映るフルエットは、自分で思っていたよりも情けない顔をしていた。震えて、ひきつって、本当にひどい顔だ。これじゃあまるで、心細かったみたいじゃないか。
「……なんで帰って来たんだ」
非難のつもりで発した言葉に、ユリオは馬鹿正直によどみなく答える。
「護りに来た」
「……っ、言ったはずだ。私は……っ、護ってほしく、ない」
ぴしゃりと言い放つつもりだったのに、喉が詰まったみたいになって声がうまくでなかった。どうしてこんな時にと、指先が無意識に喉へ触れる。
顔を背けた。彼の顔を見るのも、彼の目に映る自分を見るのも嫌だった。テーブルの端を掴んで立ち上がろうとするフルエットの手を、ユリオが掴む。そのまま、彼の腕の中に引き戻された。
「ゼフィラから聞いた。お前のお母さんのこと」
燃える音、視界を染める煙の灰色、ぬるりとした血の感触、事切れる寸前の幾つもの呻きに、焦げたようなゴムの臭い。記憶に焼き付いた事故の風景が蘇り、フルエットの心を焼く炎に姿を変えていく。
「……なおさらだ。だったら、なんで……っ」
叫びたかったのに、かすれた声しか出ない。
母のことを聞いたなら、わかっているはずだ。母は――モリアミス・スピエルドルフは、フルエットを護って死んだ。護る必要なんてない、死なない娘を護ったせいで死んだ。自分の身を護ることだけに専念していれば、きっと死なずに済んだのに。
記憶の熱がフルエットの瞳を焼く。涙が出ないのは、たぶんあの日に焼き尽くされてしまったからだ。溜まっていくばかりの熱に、視界がぼやけていく。
「日が暮れたら、きっとファルが来る。……手出しすれば、君だって喰われるぞ」
今からでもいい。イルーニュへ逃げてくれれば、そんな目に合わなくて済む。
「あの子に喰われるのは……私だけでいい。私は……私なら、何をされたって……」
「そうだな。何をされたって、お前はきっと死なないよ」
「なら……!」
掠れた声で叫びながら、フルエットはユリオを睨んだ。「でも」澄んだ瑠璃色が、そんな彼女を真っすぐに見つめる。
「ぼくは嫌だ。お前がそうやって、痛くて苦しい目にあうのは嫌なんだ」
きっぱりと告げるユリオの顔には迷いがない。どうしてそんなに迷いなく言えるのか。死ぬかもしれない怖さも痛みも、ユリオは知っているはずなのに。
フルエットの身体は震えていた。
「どうして、わかってくれないんだ……。私……私もっ、私だって、嫌なんだよ……!」
「だったら」
違うとフルエットは首を振った。
嫌なのは、身体を食い千切られることではない。確かにそれは、ユリオの言う通り、とても痛くて苦しいものだ。だけどそんなことより、もっと嫌なものがフルエットにはあった。
「私の……っ、私が……嫌、なのはっ」
口にしようとするだけで胸が苦しくなる。息が詰まる。肺から炎がせりあがってくるようで、声が掠れる。フルエットが絞りだした声は、灼けてひび割れたみたいだった。
「私のっ、せいで……人が死ぬ。いやっ、なんだよ……っく。ふ……うぅ……そんなの、もっ、見たく……ない。見たっ、く……ないん、だ……!」
焼き尽くされたと思っていた涙があふれ出して、後半はもうまともな声になっていなかった。ぼろぼろあふれる雫がおさえられなくなって、ユリオの顔も何もかもが見えなくなる。聞こえるものは子供のように泣きじゃくり、いやだと繰り返す自分の声だけだった。
結局のところ、フルエット・スピエルドルフというのはそういう女だった。いつだって、自分のことしか考えて居ないのだ。
小さな子供のように泣き続けるフルエットの頭に、ユリオはためらいがちに手を伸ばした。
颯爽とした少女の面影は、今も腕の中で涙するフルエットには見当たらない。これが本当の……いや、どちらも本当の彼女なのだろう。だって今のフルエットも自分が嫌だと言いながら、自分以外を想って泣いている。
結局のところ、フルエット・スピエルドルフというのはこういう少女だった。いつだって、自分より皆のことばかり考えている。
「お前はぼくに、自分を呪うなって言ってくれたよな」
まだぐすぐす言っている彼女に、この言葉が聞こえているのかはわからない。聞こえていなくても、別によかった。
「だったらさ、お前だって自分を呪っちゃダメだ。だって、お前のお母さんは……お前が死なないとか、きっとそんなのどうでもよかったんだ」
ユリオなんかに言われなくたって、フルエットはとっくにわかっているはずのことなのだから。
「お前が大事だったから、護りたかった。……それだけなんだと、ぼくは思うよ」
ユリオはモリアミス・スピエルドルフがどんな人だったのかを知らない。
フルエットの人柄や、ゼフィラの話をもとに想像するくらいしかできない。だけど、血の娘なんてものを背負いこんで、異類に何度も襲われて。きっとひどいことだって何度も言われて、最後には家を追いだされて。
もっと周りを恨んだっておかしくないのに、それどころか自分を呪ってしまうくらい優しい女の子にフルエットがなったのは、きっとモリアミスがフルエットのことを大事にしていたからだ。
もしフルエットに言ったら、「他人がどう思ってたかなんてわからない」なんて、この間のようなことを言われるのだろうか。
だけど、大事に思っていたのは間違っていないと思う。
「ぼくも、お前が大事だからさ」
ユリオがフルエットを護りたいと思うのも、同じ理由なのだから。
助けてくれた恩返しとか、ゼフィラと約束したからとか、ジオがあっちで生きろと言ったからとか、他にも理由は色々ある。だけど結局一番大きいのは、何度考えたってそれ以外に見つけられなかった。
鼻がすんすん鳴る音がする。
「……」
いつの間にか泣き止んでいたフルエットが、すっかり泣き腫らした目でユリオを見上げていた。
どこから聞こえていたのかはよくわからないけど、先日フルエットを抱えて飛んだ時と同じ、いやそれ以上に頬が赤くなっている。しゅっとしたツリ目が、なんだかわなわなと震えていた。
「フルエット」
撫でるのに頭へ添えた手はそのままでのぞき込むように顔を寄せると、フルエットの喉から変な音が鳴れた。
「ぼくはフルエットが大事だよ。でも、フルエットを護りたいのは、別にお前のためじゃない」
軽く深呼吸して、はちみつ色の瞳から目を離すことなく告げる。
「フルエットを護れたら、ぼくはこの身体を今よりもう少し好きになれると思う。この身体じゃなきゃできなかったことが、また一個増えるから」
泣き止んでいたフルエットの目に、またじわりと涙がにじむ。こらえようとして目を細めて、唇をぎゅっと山なりに結んで、だけどこらえきれなかったのか、ぽろぽろと涙が落ちた。
フルエットは、祈るみたいに手で顔を覆った。涙を何度もぬぐいながら、拭ったそばからまた涙をこぼしながら、ぐずぐずになった声で言う。
「……なんだよっ、それ。大事とか……色々っ、言っておいて……。結局、は……きみのためっ、じゃないか」
ユリオは笑った。少しわざとらしい、悪く見えそうな顔で。フルエットは顔を覆っているから、見えないのだけど。
「うん。ぼくのためだよ。……それらしい顔して『お前のため』って言うより、そっちのほうがいいだろ?」
目元が覆われて見えないまま、フルエットは口元だけで笑う。無理やりそうしているようで、鼻がずっとぐずぐずしているのがわかる。
「ああ……そう、だね。私も、そっちの方が……いいと、思うよ」
「知ってる」
だってこれは、フルエットが言ってくれたことなのだから。
やっと涙もぐずぐずいうのもおさまってきた頃、フルエットが「でも」と少し沈んだ声で呟いた。顔を覆ったままだから、もごもごと動いた口元以外の表情はよく見えない。左手で顔を隠したまま、彼女は右手でユリオのシャツの胸元をつかむ。
「それでもし、君が……」
「ぼくはこの身体だ、そんな簡単に死なないよ」
「でも……!」
「……うん。それでも死にそうになったら、その時は」
口の中に、甘く温かい蜜のような感覚が蘇る。喉が熱くなってむせそうになるのを抑え込て、ユリオは告げた。
「おまえの命を、ぼくにくれよ。そしたらぼくは、きっと死なない」
フルエットが、顔を追う手を離す。短い間に二度も泣いたせいでぼろぼろになった目でユリオを見上げて、少しだけ困ったような顔で目を瞬かせる。
「いいのかい、それで」
「うん、いいんだ」
ユリオは笑った。
この身体の力を振るうことも、血を吸って命を繋ぐことも、きっと真っ当な生き方ではないのだろう。
それでも構わないと思った。それでフルエットを護ることができて、彼女と一緒に生きていけるのなら。
◆
日が沈んだ。夕焼けの名残の赤だけが、空を血のように染め上げている。端の方には、黒い雲の気配が漂っていた。
相手がいつやってくるかわからない以上、ユリオにできることはただ準備を整えて待ち構えることだけだ。といってもせいぜい、死蔵されていたキャンドルの在庫を撒き散らして、フルエットに閉じこもってもらうくらいだ。
不意に、首の後ろが冷たくひりついた。
「……っ」
真っ赤な空の下を、血よりも紅い目をした少女が歩いてくる。
ぼさぼさの琥珀色の髪に、すっぽりと身体を覆う古びたコート。フルエットよりもさら小柄な、幼女と言ったほうがよさそうな小さな体躯。フルエットが名前を口にするのを聞いていたから、さほど驚きはしなかった。
あの日、あの通りで目にした時の怖気の理由が、今はっきりとした輪郭を伴う。
向こうから悠々と歩いてくるその少女――ファルの姿をはっきりと視認した瞬間、ユリオは既に虫の姿へと変異していた。
よけいな前置きは要らない。これは戦いではなく、狩るか狩られるかの争いに過ぎない。
屋根から飛翔したユリオは、初手から最大の速度でファルに突っ込んだ。
蹴り込んだ足に、確かな手ごたえ。小さな身体が冗談のような勢いで吹き飛んで、派手に地面をバウンドする。
様子見などしない。再び疾走、三角翅の生み出す推力が瞬時に両者の距離を消し飛ばし、
獣腕が頭を掴む。
「がっ……!?」
衝撃。視界が明滅する。頭の中に火花が散る。無造作に投げ捨てられた身体が宙を舞う。
辛うじて着地したユリオは、視界を染める血を拭いながら正面を睨みつけた。追撃してくるでもなく、ファルはそこに突っ立っている。
ただし、両腕だけが赤黒い毛並みをした人狼の巨腕へと変化していた。
「あはっ」
うすら寒い無邪気な笑みを浮かべたファルが、体に対して大きすぎる腕をおもちゃをみたいに振りまわした。
「やっぱりそうだったのね! おにいちゃんが、あのつよい虫さん!」
すぐにも反撃に移ろうとしていたユリオは、彼のこの姿を既に知っていたかのような言葉に動きを止めた。そうでなければ、「あの」とは言うまい。
「ファルねえ、おにいちゃんからへんなにおいがしたから『てーさつ』してたのよ!」
てーさつ。偵察。何のことだと訝しむユリオに、ファルは特別に教えてあげるといわんばかりの笑顔を見せた。
「お花と虫さん、おぼえてる? おにいちゃんとあそんできてーっていったのに、ちがうおじちゃんとあそんじゃったの!」
お花と虫さん。ここ最近のユリオの記憶の中で、それらに該当するものはたったひとつしかなかった。
イレールが来た晩に現れた、三色の虫と白い花……!
「あいつら、お前が……!?」
「そうよ。ファルがじぶんでかんがえたの。すごいでしょ?」
胸を張ってニシシと笑う姿は、褒められるのを待っている幼女そのものだ。腕さえ、視界に入れなければ。
唖然とするユリオに対し、でもねとファルは首を傾げる。その仕草だけは見た目相応に愛くるしくて、だからこそ見ていて背筋が寒くなる。
「ファルわかんないの。おにいちゃん、なんでおねえちゃんのことたべないの? あんなにいいにおいがして、おいしそうなのに」
ファルの口にする言葉は、どうあがいても異類のものだと強調されるから。
「たべないのに、なんでファルのごはんのじゃまするの?」
今まで相対した異類は、人語を解さなかった。ユリオもあちらのコミュニケーション手段など知らないから、言ってしまえば異類だろうが獣だろうがさほど違いはなかった。なのに人の言葉を話すというだけで、こんなにもおぞましく感じるものなのか。
何か閃いた様子で、ファルがその場で跳びはねる。
「あ、そっか! とっておきのごちそうなのね? ねえねえ、だったらファルとはんぶ」
「うるさい」
疾走。しかし頭を狙った蹴りは、ファルの腕にあっさりと掴まれ止められていた。身体が浮遊感に包まれる。滑らかな虫の外骨格が、なお粟立つような戦慄。
「っア……!」
翅を翻して旋転。遠心力でファルの腕を抜け出し、そのまま後ろへ飛んで距離を取る。
その時にはもう、ファルの全身は赤黒くくすんだ毛並みの人狼へと変貌している。
――こいつが、血狂い!
瞠目した次の瞬間には、ユリオよりも大きな巨体が目の前に迫っていた。
足を掴む手を寸前で躱し、即座に背後へ。跳びかかるファルの牙と、ユリオのつま先が空中で交差する。
牙の噛みあう斬撃にも似た音が虚空に響き、空中で瞬転したユリオはハサミを振るう。ファルの首を狙った一閃は、しかし硬直した筋肉を貫けなかった。毛皮に突き刺さった、ただそれだけだ。
ぐん、とファルが首を巡らす。涎を撒き散らしながら迫る牙から即座に身を引き、ユリオは空を打って距離を取、
れない。人狼は既に追いついている。
「ぐぁ……ッ!」
ファルが無造作に振るう両腕が、ユリオの腹を打ち据える。鞭のような鉄槌のような、しなやかで重い二連撃。
たまらず地面へ叩きつけられたユリオに、ファルは大口を開けて覆いかぶさった。
ハサミと腕で、ファルの口を三方から塞ぎ止める。目と鼻の先にまで迫った口からぼたぼたと糸を引く涎が滴り、悪臭がユリオの鼻を刺した。
こらえたと思う間もなく、腹に生ぬるいものが入り込んできた。遅れて、激痛。ファルの両手の爪が、ユリオの外骨格を容易く引き裂いて腹に食い込んでいる。
腹の中で爪が蠢く――死ぬ。
足の甲を踏む抜く一撃が間に合ったのは、ほとんど奇跡と言ってよかった。ファルが初めて悲鳴らしい悲鳴を閉じた口から漏らした瞬間、腹に食い込んだ爪が緩む。
ファルの太い脚を踏んで勢いをつけ、地面を滑るように離脱。そのまま飛翔、高度を稼いで今度こそ距離を取る。
腹を押さえる手に、鮮血がべったりと付着する。全身の血流が増大して燃えるように熱いのに、爪の食い込んだそこだけはむしろ冷たい。
このまま時間をかければ、先にこっちの血が足りなくなって死ぬ。
眼下のファルが四足に構えた。ユリオの方へと真っすぐに全力で疾走しまさかと思う間もなく、速度を乗せた跳躍がユリオの足元を捉えている。ファルの手がユリオの足を掴む。
「う、お……ッ!?」
巨体の人狼の重さに引かれ、ユリオの身体が空中で沈む。抵抗して高度を上げようとするユリオの身体を、ファルカはあろうことか力任せに上から下へと振り下ろした。そのまま手が離され、ユリオの身体は地面へ墜落する。
地面まで子供一人分もない高さでギリギリ飛行制御を取り戻し、急制動。指数本分の高さで停止するが、安堵する間もなく牙をぎらつかせたファルが重力のまま落下してくる。
寸前、横っ飛びに回避。
直後、巨体が降り立った衝撃が、周辺の空気を揺るがせた。高所からの着地でさすがにファルの動きが止まった隙に、ユリオは地面に撒いていたものを右手に回収した。こんな化け物じみたヤツでも、異類は異類だ。なら。
「……っ!」
不意に視界がくらんだ。風の音がぼやけて聞える。腹の痛みだけが、やけにはっきりと感じられた。全身の力が抜け、バランスを崩した身体が膝を突く。
血狂いを前に、度し難いほどの隙だった。
四足の構えのまま駆け出したファルが、体勢を立て直す間もなく肉迫した。腹を裂いた血を飛び散らせる爪が、涎を撒き散らす牙が眼前に迫る。
左の爪がユリオの肩をかすめ、右の爪が右胸に食い込んだ。そして牙がユリオの頭をかみ砕こうと開かれる。
その瞬間を、待っていた。
奥歯を噛みしめ激痛をかみ殺し、キャンドルを掴んだ右手ごとファルの口へねじ込んだ。
「ガッ……!?」
異類除けの香の成分が練り込まれた代物を口腔内にねじこまれ、ファルは身体を飛びのかせた。喉をかきむしりキャンドルを吐きだそうとするその一瞬が、ユリオにとっての好機となる。
ハサミがファルの首を狙って走る。
刹那、ファルの目が嗤うのをユリオは見た。
何事もなかったのようにキャンドルを吐き捨て、ファルの牙がぎらつく光を放つ。ユリオは知らぬことだが、香炉を直接ぶつけられてもすぐさま立ち直るファルにとって、キャンドル程度のものは大した意味を持たない。
ハサミの軌道を僅かに躱し、腕の半ばほどからかみ砕こうとする獰猛な牙。
果たして、ユリオはそれをこそ待っていた。
風切り音が走るほどの速さで左腕を曲げたユリオは、そのままファルの口へを肘を鋭く突っ込んだ。
――血狂いが死んだことにしておきたい。そんな風に思えるんだ。
フルエットの言葉を思い出す。ファルこそが血狂いであり、人相書きの男の死体が、確かにフルエットの言う目的で作られたものだったとしたら。ファルは人に擬する姿のわりに、頭のまわるヤツだ。だからきっと、効いたフリをすると思っていた。
「……!」
肘ごとぶち込まれるのは予想外だったのか、ファルの目が初めて驚愕に揺れた。
三角翅が翻り、ユリオの足が地面を離れる。そして一撃、そのまま二撃三撃四撃五撃。腕をねじこまれ食いしばれない、力を込められず今ばかりは無防備となったファルの腹に、ユリオは続く限りの蹴りを叩きこんだ。ハサミが通らなかった時とは違う、水の詰まった袋を殴るような柔らかい手ごたえ。
ごぼりと血を吐いたファルは、しかし血まみれの牙をねじ込まれた左腕に食い込ませる。
左腕が軋む。外骨格にヒビが走る。蹴るたびに腹に血がにじむ。それでもユリオは蹴る足を止めない。肘がかみ砕かれる前に、一撃でも多く――!
足を掴まれた。
そもそも塞いだのはファルの牙だけ、両腕はフリーのまま。当然の帰結だった。壮絶な蹴撃の連打を浴びたファルは、今一度口から血をあふれさせてなお健在。
しかしその瞬間、牙が緩んだのをユリオの左腕は逃さなかった。この左腕は、まだ動く。
「……ッ!?」
まだ動く左腕を、ファルが動くよりも寸毫速く跳ね上げた。上あごを直撃した外骨格が、ファルの頭全体をかちあげる。
血と涎のまじりあった糸を引く左腕を引き抜いたユリオは、そのままハサミでファルの上あごを押さえこんだ。今度は右腕をねじ込み、そして――。
飛ぶ。
速度は閃光には至らず、高さはあの夜には届かない。けれどファルの巨体を引きずって出せる限界の速度で、ユリオは飛んだ。ファルが動揺した数瞬に到達可能な、しかし大地を見下ろすには充分過ぎる高さまで。
黄昏色を空いっぱいに流すような風が、腹の傷にひどく沁みる。降下に転じる一瞬の浮遊感が、両者の身体を包み込んだ。
ユリオの足を身体から引き離そうとするファルに、ユリオは身体に残るすべての力を振り絞った。右腕と両足を踏ん張り、ファルの身体に自身を固定するためのアンカーとする。
落下に転じる寸前、姿勢を制御。ファルの身体を下へ。受け身など取らせる気はなかった。
紫と赤の混じりあった空を、叫ぶが如く翅が打ち据える。
そして、淡緑色の流星が落ちた。
全身が砕けたかと思った。
身体の中にまで響いた落下の衝撃に、ユリオは熱い塊をひとつ吐き出す。ぼやけた視界の中に広がった赤い色を見て、「血だ」とどこか他人事のように考えていた。遅れて鼻に抜けた鉄の臭いに咳きこむ。
痛みで熱いほどの身体の中で、腹だけが異様に冷たくて寒かった。
落下の衝撃によってもうもうと立ち込める土煙の中で、ユリオは下敷きにしていたファルに目を向ける。ユリオの右腕は、人狼の口へ突っ込んだままだ。感覚はあったから、食い千切られてはいないのだろう。
血の混じった泡を漏らす口から腕を引き抜くと、指先から肩までを激しい痛みが駆け抜けた。ついでに、腹から何か温かいものが漏れ出す感覚。
次の瞬間、ファルが空っぽの口から冗談のような量の血をぶちまけた。今まで彼女が食った血肉をそのまま吐きだしたかのような、ぞっとするほどの量と勢いだった。
それから身をかわそうとした拍子に全身を激痛が走り、ユリオはファルの上から仰向けに転がり落ちた。ぶちまけられた血の臭いが、ユリオの嗅覚を塗りつぶした。
ぼやけて天地がひっくり返った視界の中、口から下を真っ赤に染めた人狼があどけない声で言う。
「こんなに……たのしかったの、えへへ。はじめて、よ」
そうしてごろりと転がったファルは、そのまま這うように森へ向かいだした。赤黒い尾を引くその動きは、人狼とは思えぬほどに鈍い。
――逃がすか。
追いかけようとしたユリオは、しかしもう身体に力が入らない。
地面に肘を突き、かろうじて上体を起こしたまではよかった。しかし振り上げようとしたハサミは、意に反して地面に擦るばかりだ。そのうちにハサミは消え失せて、左手が無意味に地面を掻くだけになった。その左手も、やがて動かなくなってしまう。
身体が地面に溶けていくようだった。
何もかもが揺らいでいた。全身を砕くような痛みすらも、次第に遠くなっていく。腹の冷たくて寒いのが、だんだんと全身に広がっていく。異類への変異は、既にかなりの部分が解けてきている。
朦朧とした意識の中でユリオが思い浮かべたのは、フルエットの姿だった。
指先が地面に食い込む。
帰らないと。
死なないよって、証明しないと。
指先に力がこもる。ユリオの身体が、家に向かってほんの少しだけ前進する。
どこからか、ひどく甘くて芳しい香りがした。
鼻にこびりついた血の臭いを、忘れてしまうほどに強烈な香りだった。嗅いだ途端、ひどく喉が渇いた。この渇きを満たせるものを、ユリオの本能はひとつだけ知っている。いつかの夜もこの香りを嗅いで、同じ渇きを覚えた気がする。
バキバキと音がした。まだ虫の姿を保っていた口器の牙が開いて、鋭い口吻が飛び出す。
気づいた時には、彼は香りのもとを組み伏せていた。真っ白な首筋に伸ばした口吻は、けれど肌に触れる寸前で止まっている。細長い口吻は、激しく震えていた。
「君が言ったんだぞ」
呆れたような涙声に、組み敷く腕の力がふっと緩んだ。あるいは、もともと大した力はこもっていなかったかもしれない。
香りが揺蕩う。
「私もさ、首はさすがに苦しいんだ。……だから、こっちでいいかな?」
次の瞬間、細腕がユリオを抱きしめていた。
口吻が柔らかな胸に突き刺さる感触と、痛みをこらえるような小さな呻き声。甘く蕩ける蜜のような血が、ユリオの喉を伝い落ちていく。
身体に熱を取り戻していく彼の瞳に映ったのは、ユリオを見つめて笑うフルエットの姿だ。
あの雨上がりの夜よりも、ずっと穏やかな笑みだった。
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