十九話

 丸一日続いた雨の翌日の空気は、雨の余韻が肌へ貼りつくみたいに湿っていた。

 時刻は昼を少し過ぎた頃。ユリオの自転車を見繕いに向かう途中で、二人は新聞売りのスタンドに立ち寄っていた。急がないと新聞がなくなるというわけでもなし、と買ったその場で新聞に目を通している。

 正確に言うと、ユリオが見ているのは新聞ではなく、新聞を読むフルエットの様子だった。彼女の細かい表情の変化を見ていると、なんとなくどういう記事があったかわかる。それが少し楽しいのだ。すると不意に、フルエットが表情をくもらせた。

「悪いことでもあった?」

「……」

 少し首を伸ばして、横から紙面を覗き込む。フルエットが見ているのは、一面の中ほどにある血狂いについての記事だ。

 血狂いと目されていた男の死体が、イルーニュと先日の事件――ユリオには何のことだかわからないが――のあった村の真ん中あたりで発見されたという。

「血狂いが死んだ、ってことか?」

 ユリオが呑気にそう告げると、フルエットは歯切れの悪いもごもごした声を漏らした。

「人狼……というか人に擬する異類は、人と異類の姿の同定が難しいからね。本当にそうと決まったわけじゃないよ。それに……」

 少し考える素振りがあってから、「ここを見てくれ」と死体の状況について書かれてた箇所を指差すフルエット。

 仔細に記されたソレに目を通していると、昼を食べたばかりのお腹が不快な感覚に襲われる。無意識に手をやると、フルエットの手が背中をさすってきた。

「すまない。昼食を済ませたすぐに読ませるものじゃなかった」

「や、大丈夫だよ。このくらいなら、まだ」

 記事によると、死体の損壊状況は凄まじいものだった。至るところが食い千切られ、成人男性が子供かと思うほどに小さくなっていたのだ。他の人狼との争いに敗れたか、と記事では推測されていた。

「……ここまで食い散らかされているのに、顔だけあまり損壊がないのが気になる」

「……食えるところが少ないから、とか? ……うぇ」

 自分で言って、自分で気分が悪くなってしまった。口を押えて通りの向こうを向いたユリオの背中を、フルエットの小さな掌が何度か行ったり来たりする。

「確かに顔を狙われることはあまりな……んんっ、なんでもない。その可能性もあるが、ここまで食い散らかしておいて、というのが気になる。私には……」

 気分が持ち直したユリオは、首を傾げて横目にフルエットを見つめた。

「顔の分かる死体にしておきたかった。……血狂いが死んだことにしておきたい。そんな風に思えるんだ」

 フルエットが、ばさりと音を立てて新聞をたたんだ。トランクに入れておいてくれ、とユリオへ新聞をよこす。

「もういいのか?」

「続きは帰ってゆっくり読むさ。それより、君の足を用立てに行こう」


 大通りから何本か、くねくねと道を曲がっていった先にある、荒い石畳の小路。

 頭上に小さな橋がかかる他よりも立体的な構造をしたその一帯を、二人は歩いていた。窮屈そうだったので、バイクは大通りの方に停めてある。

「……ほんとにこんな所にあるのか?」

「自転車をずらっと並べてるものだから、こういうところでもないと店の広さが確保できないんだとさ。通りで広々した店を構えるのには、元手も相応にかかるしね」

「だからって、何もこんなとこじゃなくても……」

 正直、ひとりだと大通りまで戻れない気がする。それに、あんまり居心地が良くない。橋の影で昼間なのになんとなく暗いし、空が狭いからか少し息苦しさも感じる。

 ……いや、それだけではない。

「なあ、ここ……なんか、変な臭いしないか」

 雨の名残の匂いに、腐ったような臭いが混じっている気がした。それにゼフィラの一件で嫌というほど嗅いだ、香の臭いもだ。

「変な臭い?」

 すんすんと臭いを嗅ぐ素振りをしたフルエットが、首を傾げた。ユリオを見る目が、どこからだいと問うていた。

 その時、不意に強烈な風が路地を駆け抜けた。フルエットのドレスの袖が、バサバサと翻る。

「うっ……!?」

「うわっ……!」

 その風は二人の居た付近だけでなく、この入り組んだ一帯の空気をかき回したのだろうか、先ほどは微かにしかわからなかった腐った臭いと香の臭いが、一挙に二人の元へ押し寄せた。

 ふたつが混ざった臭いは強烈だった。ユリオがこみ上げた吐き気に口を押えながらフルエットを見ると、彼女は顔を真っ青にしていた。それを見た途端、ユリオ自身の吐き気はどこかへ吹っ飛んでいく。

「大丈夫か!?」

「あ、ああ……ちょっと吐きそうになっただけだ」

 見よう見まねでフルエットの背中をさすっていると、今度は慌ただしい足音が聞こえてきた。ガラガラと車輪がまわる、慌ただしい音も一緒だ。

 奥の曲がり角から、白い祭服の人影が飛び出してくる。遠目にもよくわかるほど、ただならぬ気配を漂わせていた。

 一瞬、やっぱりイレールが暴露したのかと身構えるユリオ。しかし白服の狩人は、荷物を様々詰みこんだリヤカーを引いて通り過ぎていくだけだった。

「な、なんだ……?」

 いよいよもって胸がざわついて、首の後ろもぞわぞわして落ち着かなくなってくる。

「っ!」

 かと思うと、今度はフルエットが走り出していた。

「なっ、おい! フルエット!?」

 複雑な路地で見失う前に、すぐに追いつく。けれど止める間もなくフルエットが走り続けるから、ユリオもやむなく後を追って走り続けた。といっても二人の身体能力の差を考えれば、本当は簡単に止められるはずだ。ユリオも無意識に、何が起きたのか知りたいと思っていたのかもしれない。

 そしてそれは、存外すぐに二人の前に現れた。

 さっきの地点からリアカーの狩人を追って進んだ先、道をさらに曲がった向こうの袋小路。三方を壁に囲まれた薄暗がりがそうだった。

 周辺の住人たちだろうか。狩人たちが聖火キャンドルの燭台や設置式の香炉を置く外から、あるいは近くの橋の上から、人々が様子を伺っていた。ひそひそと聞こえる声のほとんどは、祈りを捧げる文句だった。

 狩人たちは人々を遠ざけるようにしながら、どんどん燭台と香炉を運んでいた。伸びていく燭台と香炉の道は、遠からず大通りにも届くのだろう。

 そんな人々や狩人や、異類を遠ざける設備による幾重もの囲いの隙間から、ユリオはソレを見た。そしておそらく、フルエットも。

 目を見開く。

 腹からこみ上げる酸っぱいものを必死に吞み込むために、ユリオは抉り取らんばかりの力をこめて自分の足を掴まなければならなかった。

 隣りからフルエットの苦し気な声と、湿った嫌な音がべしゃべしゃと響く。こらえきれなかったフルエットが、その場にしゃがんで激しく嘔吐していた。

「フルエットッ! しっかりしろ、おい!」

 激しく咳きこむフルエット。震える背中をさすりながら、ユリオはもう一度だけ薄暗がりに横たわるソレを見た。

 至る所が食い千切られ、性別も年齢も、何もかもがわからなくなっている無惨な死体を。

 誰かの声が、人狼の仕業だと呟く。狩人たちが声を張り上げ、人々へ家の中へ戻るように告げた。そして宣言した。イルーニュの街は、これより非常時の態勢に移ると。門もまもなく閉ざされるとの言葉に、ユリオはフルエットの顔を見た。

「異類が街に居るなら、ぼくたちはすぐ街を出ないと」

「……」

 ハンカチで口元を拭って、フルエットが振り返る。荒い呼吸を深呼吸で無理やり抑え込んだ彼女は、ハンカチを強く握りしめ、ユリオと微妙に目線を合わせないで言った。

「君は街で宿を取れ。ルイリに頼むのでもいい」

 意図がくみ取れなくて、ユリオは顔をしかめた。いや、宿を取るというのはわかるのだ。門が閉ざされるということは、街から出られなくなるということなのだから。だけど、何故ユリオだけが街に残る前提で話をしているのか。

「……お前は?」

 背中をさすっていたユリオの手を払い除けるようにして、フルエットは立ち上がった。足元が少しふらついたのを支えようとユリオが手を伸ばすと、彼女はそれもまた振り払う。手と手のぶつかる小さな音がした時、触れられてもいない胸が何故か痛んだ。

「フルエット?」

 彼女は少し顔を伏せていて、だから表情がよく見えなくて。ただ、歯を食いしばっているのだけがやけにはっきりと見えた。

「私は帰る。今ならまだ、門が閉じるのに間に合うはずだ」

「ばっ……お前だけ帰ってどうするんだよ! それでお前のところに、あれやったやつがきた……ら……」

 声が小さくなっていくのに比例して、ユリオの顔は青ざめていった。気づいてしまったのだ。フルエットだけがあの家に帰る、ということの意味に。

 周りに聞こえないようにだろう。彼女は声を低く小さくした。

「そうだ。人狼がこの街に居るなら、きっと私の血を嗅ぎ付けてやってくる」

「やってくる、じゃないだろ!?」

 フルエットの肩を掴む。服越しでもわかるくらいに繊細で、このまま力を入れるだけで簡単に砕けてしまいそうな小さな肩。彼女の首筋が目に入る。真っ白でほっそりとした、力を込めたら簡単にへし折れてしまいそうな華奢な首筋。この身体を人狼の爪が引き裂くのを、人狼の牙が食い千切るのを想像するだけで息が詰まった。

 そんなのはダメだ。

 頭の奥が熱を帯びて、全身の血が沸騰しそうなくらい熱くなる。その熱に突き動かされるように、ユリオは肩を掴んだままフルエットに詰め寄った。彼女の肩のか細い輪郭が、よりはっきりと指先に伝わってくる。

「……痛いん、だけどな」

 フルエットが身を引いたから、二人の距離は縮まらない。

「お前だけなんて絶対ダメだ。ぼくも一緒に帰る。ぼくがお前を、」

「護る、って?」

 え。

 顔を上げたフルエットは、はちみつ色の瞳をゾッとするくらい鋭利に細めていた。淡い色の唇が、せせら笑いの形に歪む。

「君に私を護れる保証があるのかい? だいいち、前にも言ったろう? 私は誰にも護ってほしくない」

 初めて見るフルエットの酷薄な表情に、ユリオは言葉を失った。彼女にこんな顔ができたなんて、今まで思いもしなかった。

「この際だから、はっきり言っておくよ。そんな風に息巻かれると、迷惑なんだ。食い散らかされた死体の後片付け、誰がすると思うんだい? 丁度いい機会だ。糊口をしのぐ手段も見つかったんだし、このまま街で暮らしたまえよ」

 聞いたこともないような冷たい声で、聞きたくなかった言葉が次から次へと放たれる。

 予告のような深呼吸をひとつ。とびきりの悪意を乗せた、とびきりの笑顔がユリオの胸を穿つ。

「仲間が死んだ悲しみの穴埋めに、私を使わないでくれるかい?」

「……ぁ」

 ふら、とユリオは後ずさった。視界がぐらぐらして、身体中の力が抜ける。息がうまくできない。胸に開けられた穴から、吸い込んだ空気がそのまま抜けていくみたいだった。

 肩を掴んでいた手が離れた瞬間、フルエットが来た道を逆走しだす。

 力の抜けた身体でそれでもユリオが彼女へ手を伸ばしたのは、フルエットが本気でそんなことを言うわけがないと思っていたからだ。

 ユリオを血の娘という危険から遠ざけようとして、フルエットはわざとこんなことを言っている。そう信じる心が、ユリオの身体を動かしていた。

「来るなッ!」

 フルエットが叫び、ユリオの足の甲から脳天までを激痛が走り抜ける。フルエットが、全力でユリオの足の甲を踏みつけたのだ。いくら彼女が小柄で華奢で軽いといっても、全体重をかけて分厚い靴底で踏み抜かれれば激痛は必至だった。

 声も出せずに悶絶するユリオを尻目に、フルエットは走り去っていく。角を曲がったところで、すぐにその姿が見えなくなる。

「君、大丈夫ですか?」

「大丈夫……!」

 ただならぬものを感じて声をかけてきた狩人を追い払い、ユリオは香の臭いが強く漂い始めた小路にフルエットを追った。脱力感も胸に穴が空いた感覚も、そうしているうちに感じなくなっていった。そんなものに耽溺している暇は、今のユリオにはない。

 しかし、ひとりでは案の定迷ってしまう。やっとの思いで大通りに飛び出した時には、停めてあったバイクは影も形もなくなっていた。

「……くそッ」

 人目もはばからず、ユリオは歩道を蹴って叫ぶ。燭台や香炉を設置中の教会関係者や、家へと急ぐ人々が何事かという視線を向けてくるが、気にしている余裕は欠片もなかった。踏み抜かれた足からまた激痛が走って、ユリオは悶絶する。

 大通りを真っすぐ進んだ先に、イルーニュの街を外と区切る門が見えている。今から向かって、門の閉鎖に間に合うだろうか。フルエットに追いつけるだろうか。

 不意に、背中がむず痒くなった。

 恐る恐る手を伸ばすと、シャツの背中がわずかに盛り上がっている。ゾッとして全身が冷や汗にまみれたのを気取られないようにしながら、ユリオは汗をぬぐって深呼吸した。もう一度背中に触れると、出現しかけの翅はもう引っ込んでいる。飛んでいけば、と無意識に思ってしまったのだろう。

「くそっ、どうする……」

 呟く間にも、身体は門へ向かって駆け出していた。

 痛む足で一刻も早く門へたどり着こうとするユリオだったが、さほど進まないうちに門は閉ざされてしまう。フルエットの姿がその向こうへ永遠に消えてしまった気がして、ユリオは目の前が暗く――、

「そうじゃないだろ」

 唇を思いきり噛みしめた。その痛みが、真っ暗闇に沈みかけた思考を浮上させる。

 まだだ。いったんどこかに隠れてタイミングを伺って、それから異類の姿になって、狩人たちの目を盗んで飛んでいけばいい。異類が本格的に活動を始めるのは夜だ。ならば人狼が既にイルーニュを出ていたとしても、きっと間に合う。間に合わせる。

 問題は、どこに身を隠すかだ。人の流れが減っていく大通りに突っ立ったまま、ユリオは辺りを見まわした。拾われてからの短い間に行き来した街の風景を思い出し、どこかに使えそうな場所がなかったか必死に考える。

 聞き覚えのある声がしたのは、その時だ。

「ユリオ?」

 ほとんどぶん殴られたみたいな勢いで振り返ると、目に入ったのは赤い三つ編み。前髪で隠れた左目に、少し眠そうにも見える緑の右目。フルエットよりも背が高くて曲線の目立つメイド服姿に、ユリオは目を瞬かせる。そこに彼女が居る事を確かめるように、思わず指を差してしまう。

「ゼフィ、ラ?」

 ゼフィラ・ローダンセが、布を被せた籠を手にして通りに立っていた。

「お前、フルエット様はどうしました。……それと、人を指差すのは失礼ですよ」

 お前は何でここに居るんだという言葉は、舌がもつれてとっさに出てこなかった。


 一方、少し時間は遡り。

 一刻も早くイルーニュを出て、家へ帰る。フルエットはその一心で、バイクの速度を上げて大通りを走っていた。

「……っ」

 胸がズキズキと痛みを訴え、たまらず呻く。この痛みの原因が何なのか、フルエットにはよくわかっていた。

 ユリオを街に置いておくためとはいえ、あんなことを言ってしまった。事態が落ち着いても、彼はもう戻ってこないかもしれない。それで彼が独り立ちして、もうフルエットのことを護ろうなんてしなくなるのであれば、それも良いのかもしれない。理由は違うが、「嫌ってくれたら」と願ったゼフィラの気持ちが、今は少しわかる。

「今のは……!」

 歩道にぼさぼさの琥珀色の髪を見つけたフルエットは、思考をいったん打ち切って急ブレーキ。タイヤが地面にこすれる嫌な音がして、若干の焦げた臭いが鼻をつく。

「ファル!」

 どこへ向かうでもなく突っ立っていた幼い少女は、フルエットの呼びかけに振り返った。数日前にフルエットが買ってあげたコート姿そのままのファルは、フルエットの顔を見るなりとろけるような笑みを浮かべる。

「おねえちゃん!」

 ファルが駆け寄ってくる。街の現状がよくわかっていないのか、幼い少女は周囲の慌ただしさや緊張感とはまったく無縁の、のんびりとした空気を漂わせていた。

 フルエットはバイクを降り、ファルの正面にしゃがみこんだ。きちんと言葉が伝わるように、目線の高さと視線をファルに合わせる。

「ファル、今この街はすごく危ない状況なんだ」

「そうなの?」

 こて、と首を傾げるファル。やはり彼女は、状況がよくわかっていないようだ。

「ああ、人狼……とても凶暴で、恐ろしい怪物が出たんだ。だからファル、君も外に居ちゃいけない」

 通りに香炉と燭台を設置し、人々を誘導する教会の人間の方へフルエットは目を向けた。

「あの人たちにお願いするんだ。そうすれば、彼らが教会へ連れて行ってくれる。そうすれば、」

「や!」

「えっ?」

 ファルがぶんぶん首を横に振った。困惑混じりのフルエットの視線に、ファルはさらにもう一度首を振る。

「教会は、や!」

「ど、どうして嫌なんだい?」

 自分は何か、大事なことを忘れてはいないだろうか。

「だってくさいもん」

 喉が渇いた。舌が渇いたといった方が、感覚としてはより近かったかもしれない。

 自分が忘れていたものを、フルエットは思いだした。ユリオがファルに感じたざわつきのことだ。あれはもしかして、彼の異類の部分が発したある種の警告ではなかったか?

「ファル、おねえちゃんのところがいい。いいにおいがするもん」

 ファルの無邪気な笑顔が、かつて母が退けた人狼の顔と重なって見えた。

 少女を突き飛ばしたとフルエットが気づいたのは、反動で彼女自身が後ろのバイクにぶつかってからだ。

 あっけなく地面を転がったファルを、フルエットは恐ろしくて直視できない。自分の袖を踏みそうになりながら起き上がり、半ばすがりつくようにバイクに乗り込んで始動させる。

 走り出す寸前に振りかえると、身体を起こしたファルがフルエットを見つめていた。とろけるような紅い瞳で、血のように真っ赤な舌をチラつかせながら。

 胸の奥で心臓が暴れまわるのを感じながら、フルエットはこれで良かったのだと思う。

 今のできっと、ファルは自分に狙いを定めたはずだから。


 ゼフィラと思わぬ再会を果たしたユリオは、彼女が取っている宿の部屋に案内されていた。

 道すがらに説明されたことには、仕送りの金子を渡すためにやってきたところだったらしい。車を潰してしまった件は、許してもらうことができたそうだ。

 そして今二人は、簡素で飾りっ気のない部屋に置かれた丸テーブルを挟んで向かい合っている。

「改めて聞きますが、フルエット様はどうされました。まさか、家にお一人で?」

「そうだ、っていうか……このままだと、そうなる」

 思案気なゼフィラの指先が、彼女自身の唇に触れる。

「その言い方。それに今の街の状況……置いていかれたのですか、フルエット様に」

 図星を突かれ、ユリオは「う゛」とうめいてうつむくことしかできない。そんな彼を見て、ゼフィラは小さなため息をついた。

「顔を上げなさい、ユリオ」

 目が合う。初めて会った時の濁った目つきとは違う、澄んだ緑がユリオを見つめていた。そこに映るユリオ自身の姿は、ひどいしかめ面をしている。

 念のため確認しますが、とゼフィラが少し身を乗り出す。

「そのままで居るつもりはありませんね?」

「うん」

 即答したユリオにひとつ頷くと、ゼフィラはおもむろに席を立った。大通りに面した窓へ向かう彼女を追いかけ、ユリオも立ち上がる。

 ここは宿の三階だ。香炉と燭台が並んだ通りを、狩人たちが巡回しているのがよく見えた。

 ゼフィラが部屋の反対側を振り返る。そちらにも窓があるが、大通り側に比べるとだいぶ小さい。かろうじて人ひとり通り抜けられるくらいの大きさだ。路地に面しているのか、窓の向こうはほんのり薄暗い。

「日が落ちてきたら、わたくしは大通りに向かって騒ぎます」

 そのタイミングで、とゼフィラは薄暗い方の窓を指差した。

「あちらの窓から出ていきなさい。そうすれば、狩人様方にも少しは気取られにくいでしょう」

「……いいのか?」

「当然でしょう」

 ゼフィラは表情ひとつ変えなかった。

「フルエット様をお護りする。わたくしとお前にとって、それ以上に優先されることがこの世にありますか?」

 窓からの日差しを背負って答える彼女は、あまりにも自然で堂々としていた。

 面食らっていたユリオが、不意に小さく吹き出す。その途端、真っ直ぐな目がじとっと細められた。

「ふざけているのですか、お前」

「ち、違うよ! ……ただ、初めて会った時が嘘みたいだなって」

 不服そうな顔で腕を組んで、「当然です」とゼフィラは鼻を鳴らした。すぐにその表情は和らいで、穏やかな笑みを浮かべる。

「もう、嫌いになる必要はなくなりましたから」

「……そっか。そうだよな」

 つられて笑ったユリオは、けれどすぐに表情をこわばらせた。

 拳を握り締めて、ゼフィラの方に一歩踏み出す。日が暮れる前に、彼女に聞かなければいけないことがある。

「お前に聞きたいことがあるんだ」

 それを口にしようとするユリオの脳裏に、フルエットの酷薄な表情が蘇る。初めて聞いた冷たい声が頭の中に反響するせいで、言葉がうまく出てこなくなる。

 だから、ゼフィラの答えの方が早い。

「何故、フルエット様が『護ってほしくない』と仰るのか。そうですね?」

 沈んだ微笑みを浮かべたゼフィラが、丸テーブルのもとへ戻る。ユリオにも座りなおすように手で示した。

 小さなテーブルを挟んで向かい合う二人。「できることなら、フルエット様からお話頂きたかったのですが」胸もとをそっと手で押さえたゼフィラは、伏し目がちに口を開いた。

「……それにはおそらく、モリアミス様……フルエット様のお母様のことが関係しています」


 フルエットの母モリアミスは、スピエルドルフ家に嫁入りする前は狩人だった。

 極小規模とはいえ異類の群れをたった一人で撃退し、ギヨームとその両親を護り抜いた。それがきっかけとなり、彼女はギヨームと結ばれた。

 その話からわかる通り、モリアミスの狩人としての腕は卓越していた。常軌を逸していた、とさえ言ってもいい。ゼフィラが母から聞いた話によれば、モリアミスは代々狩人として研鑽を重ね続けてきた家系の生まれだったらしい。

 そんな彼女もスピエルドルフ家に嫁入りしてからは、狩りの腕を発揮することはなかった。

 状況が変わったのは、フルエットが血の娘だとわかってからだ。

 血に引き寄せられた異類から娘を護るため、モリアミスは狩人として再びその手に剣と聖火を取った。それはフルエットをスピエルドルフの屋敷に留め置くため、彼女自らギヨームへ言い出したことだった。

 妻となり母となってなお、彼女の腕は依然卓越していた。類を見ないほど凶暴なはぐれの人狼すら一蹴し、フルエットを護り続けた。

 そしてある日、モリアミスは死んだ。

 それは狩りの最中のことではなく、ただの不運な事故によるものだった。フルエットと街へ向かった際、バスの事故に巻き込まれたのだ。本来付き添う予定だったゼフィラは、その日たまたま体調を崩して同行できなかった。だから、彼女も詳細は人伝に聞いただけだ。

 折れたパイプが腹を貫いたらしい。発見当時の状況から、フルエットを庇ったことによるものだと考えられた。

 当のフルエットは事故の唯一の生存者で、奇跡的に無傷だった。何も知らない人々には、それは母の愛が起こした奇跡に見えた。


「モリアミス様は、フルエット様が不死であることもご存じでした」

 それでもフルエットを庇ったのは、ひとえに娘を護りたいと願う母の愛からだったのだろう。死なないから放っておいていいなどと、モリアミスは考えなかった。

「……でも、フルエットは」

 こわばってかさついたユリオの声に、ゼフィラは静かにうなずいた。

「ええ。……ご自身のせいでモリアミス様が亡くなったと、フルエット様はそう思われました」

 状況と結果を考えれば、フルエットがそう思うに至るのはある種自然なことだ。だからこそいずれは向き合い、解結できたのかもしれない。自分のせいで母が死んだのではなく、母が命を懸けて自分を救ってくれたのだと。

「死なない自分なんか、護ろうとしたせいで……と」

 彼女が血の娘でさえなければ、そうなっていたのかもしれない。

 その考えをより強固なものにしてしまったのは、スピエルドルフの家人たちだった。

 彼らは血の娘のことを知らない。彼らにとってフルエットは頻繁に異類に襲われる不吉な娘でしかなく、だからモリアミスの死は彼らにとって、フルエットのせいでしかあり得なかった。フルエットのせいで事故が起きたとすら囁く者も居たそうだ。

「……おかしいだろ、そんなの」

 ユリオの声は震えていた。頭に血が上ってきてくらくらする。全身に火が着きそうなくらい、身体中が熱い。

「事故なんて起きなきゃ、あいつだって……!」

 テーブルに打ち付けたはずの拳から、ザクリという音が響く。拳はいつの間にか、ハサミへと姿を変えていた。そのままテーブルを両断しかねなかったハサミを、ゼフィラの右手が制す。

 ユリオがハサミをテーブルから引き離すと、ゼフィラは伸ばしていた右手を握り締めた。そのまま、拳をテーブルの上へ静かに伏せる。

「当然です」

 押し殺した低い声。それでも抑えきれない怒りが、ゼフィラの拳を震わせていた。ハサミが食い込んでできたささくれが刺さっているのに、気付く様子もない。

「フルエット様のせいではありません。ましてや事故がフルエット様のせいだなど、そのようなこと……!」

 だが、皆はフルエットを呪った。お前のせいだ。直接言葉を浴びせなくとも。お前のせいだ。積もり積もった囁きは。お前のせいだ。じわじわと広がる毒の様に、フルエットを蝕んでいった。お前のせいだ!

 ただでさえ母を失い不安定になっていたフルエットに、その毒を払い除ける力はなかった。母を失った悲しみと罪悪感は、毒によって彼女の中で凝り固まっていった。

「……そうしてモリアミス様の愛は、フルエット様の中で呪いへと変わってしまわれたのだと思います。だから、『護ってほしくない』と」

 ゼフィラが震える息を吐く。窓から差し込む日差しは、気付けばオレンジ色に染まり始めていた。

「ユリオ」

 夕暮れを背にゼフィラが笑う。自嘲するような、今にも泣きだしそうな笑みを浮かべて、ゼフィラは抑えた、でも少し震えた声で言った。

「手前勝手な浅ましい理由でフルエット様を傷つけてしまったわたくしには、フルエット様の呪いは解けません」

 ゼフィラがいきなり、そのままになっていたユリオのハサミに両手で触れた。

「おい!? お前、何して……!?」

 ユリオが狼狽えるのにも構わず、ゼフィラはハサミを握る手に力を込める。皮が切れたのか、ゼフィラの両手から赤い血が手首を伝い落ちていった。

 慌ててユリオが左手を元に戻すと、ゼフィラはそのまま彼の左手を両手で握った。より正確には、祈るように組んだ手に挟む格好だ。真新しい血の臭いに、ユリオの身体が微かに疼く。

 ユリオの左手を挟んだまま、ゼフィラは両手に額を押し付けた。

「ですが、お前は違います。フルエット様のお心を変えることができるとしたら……それができるのは今、お前しか居ないのです……っ」

 最後の方になると、涙が混じって声が掠れていた。そのまま静かに涙を流し始めるゼフィラの両手を、ユリオは自由な右手で上から掴むみたいにする。

 そのまま少し目を閉じて、深呼吸。「前にも言ったろ」そして目を開けた時には、瑠璃色の瞳には決意が宿っている。

「フルエットは、お前のぶんまでぼくが護るよ。フルエットが泣いて嫌がったって、ぼくが護ってみせる。そしたら、あいつの気持ちもなんとかなる……と、思う」

 いまいちしまらない言葉に、顔を上げたゼフィラが涙はそのままに笑う。目は充血していたけど、さっきよりはだいぶ良い笑顔になっている気がした。

「微妙に頼りになりませんね、お前は」

「ごめん。でも、やれるだけやってみるよ。……もう行かなきゃ、日が暮れてきてる」

「では、一芝居打つとしましょうか」

 

 夕暮れを背に、淡緑色の閃光が空へと走る。

 厳戒態勢の敷かれたイルーニュの街でそれを目にしたものは、ほとんど居なかった。

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