第十八話
「あいつはぼくをどっちも見てる。だから、わかってて話しかけてきたはずなんだ」
夕食の皿を片付けながら、ユリオは言った。あの神父の存在は、二人の今後にも関わる重大事だ。次の動きがある前に、彼について少しでも整理しておきたかった。お茶を淹れながら、フルエットが眉根を寄せて呟く。
「……彼、もっと前からイルーニュに居たんだよね」
「そうなのか!? い、いつから?」
「私が君を拾った翌日にはもう、だね」
「なんで言わ……」詰め寄りかけて、ユリオははたと冷静になった。「いや、話してなかったもんな」
「そういうこと。それに教会へ行った時にたまたま出会っただけだし、頭の中で結びつかなかったんだよ」
皿を片し終えたユリオは、フルエットの淹れてくれたお茶に手をつけながら顔をしかめた。別にお茶が美味しくなかったわけではない。おかしなことに気付いたのだ。
「……じゃあアイツ、今までぼくのことほったらかしてたのか?」
「そういうことになるね」
おかしな話だ。ずっと前からイルーニュに居たにも関わらず、彼は今日この日まで動かなかった。直接捜索するのはもちろん、血狂いよろしくユリオの姿絵を作って、街へ存在を周知もできたはずなのに。
「……なんで?」
「彼なりの深謀遠慮があったのかもしれないが、なんとも言えないね。それ以上にわからないのが、どうして私たちの……というか、君の前に姿を晒したのかということだ」
どういう意図があるにせよ、結果としてユリオは彼が街に居ることを把握できていなかった。そのまま狩りに持ち込めばあちらが有利になったものを、彼は何故か顔を見せた。こちらを警戒させるだけで、彼にとってのメリットなど何もないはずなのに。
「追い詰めるため、とか?」
あえて姿を晒してプレッシャーをかける。そういう狩りの仕方という可能性はないだろうか。実際あの神父の顔を見た時、ユリオは相当追い詰められた自覚がある。無言で逃げられたのは、我ながらよくやったと思いたいくらいだ。
腕組みして考えを巡らせていたフルエットは、ややあってから首を横に振った。
「結果的には効果てきめんだったが、彼にとってもリスクが大きすぎる。そのせいで逃げられでもしたら、大失態だ」
「……確かに」
そのまま考えこむ二人。結局のところ、整理しようにも情報がなさすぎて上手くいかない。進むのはお茶ばかりで、気付いた時には二人ともカップが空になっている。
空のカップの持ち手をいじりながら、フルエットが口を開く。考えるような、ためらうような間があって、
「神父のことで、ひとついいかな」
「なんだよ?」
よほど言いにくいことなのだろうか。フルエットの様子のせいで、先を促すつもりで答えるのを少しだけためらってしまった。
彼女がすぐには先を口にしないものだから、思わず探るような目つきで彼女を見る。沈黙にユリオがちょっと不安になってきた頃、フルエットはようやく続きを口にした。
「神父の意図がどういうものにせよ、だ」
一度唇を引き結んで、それから意を決したように彼女は言った。
「君は……彼を」
ドン、ドン、ドン。
ドアノッカーの重い音が、フルエットの言葉を遮った。
どちらからともなく玄関の方を見た。とっくに日は暮れている。しかも雲のせいで外は真っ暗、こんな夜に誰がこんな町外れの家を尋ねてきたというのか?
まさかと二人が顔を見合わせた時、再びドアノッカーの音が響く。「私が出るよ」とフルエットが立ち上がった。
「待てよ、ぼくも」
ひらりと袖を翻し、フルエットはユリオを制して言う。
「彼をどうしたいのか、考えておいてくれないか」
その言葉の意味を考え、ユリオの身体が硬直した。その間に、フルエットは玄関へ向かってしまう。
ひとりだけになったダイニングで、ユリオは空のカップに視線を落として呟いた。
「……あいつを、どうしたいか」
あいつはみんなの仇だ。……なら。
「こんばんは、夜分遅くに失礼致します」
玄関を開けたフルエットの前に立っていたのは、「まさか」そのもの、いやその人だった。
「これは神父様。こんな暗くて恐ろしい晩に、いったい何の御用です? ……それに、狩装束など纏われて」
フルエットの視線が、彼の首から下へ落ちる。街で声をかけていた時は黄色だった祭服が、狩人を表す白へと変わっていた。背中にはクロスボウ、左右の腰にはそれぞれランタンと狩猟剣。どこからどう見ても、狩りのための姿だ。
フルエットは彼の肩越しに外へ目を向けるが、ランタンや聖火の類はひとつも見えなかった。まさか、ひとりでやってきたのだろうか。それとも、玄関から見えない位置に隠れさせているのか。
フルエットの疑念を察したのか、神父がにこやかに笑う。
「他には誰も居りませんよ」
「……勇敢な神父様でいらっしゃる。一人で狩りに向かわれるので?」
「これから次第、と言ったところでしょうか」
切れ長の瞳にナイフのような笑みを浮かべて、神父は言った。彼は懐から一枚の紙を取り出し、フルエットの前に掲げる。それには、ユリオの人相が描かれていた。刷ったものではなく、手描きだった。
「こちらの家には、こんな顔をした少年が居候しているはずですね? 彼と会わせて頂きたい」
「確かに、この人相書きの彼はこの家の居候です。ですが、何故神父が彼と? ……まさか、彼が異類だと?」
「ええ」
フルエットもどうせわかっているのだからと口にしたわけだが、こうもはっきり頷かれるといっそすがすがしい。
人相書きをしまいながら、神父はそう断ずる根拠をあれこれと述べ始めた。色々あったが、フルエットの記憶に残ったのは極めつけのひとつだった。
「決め手となったのは、ランタン祭りの夜です」
「……祭りの?」
「観測したのですよ。虫が、この家の方角へ飛び去っていく姿を。それで調べさせて頂きましたが、少し前から少年を居候させ始めたというではありませんか。タイミングも一致しますし、これは間違いないと。……となれば、動かない訳にも行かないでしょう」
内心で舌打ちした。あの晩を見られているとは思わなかった。フルエットの背筋を、一筋嫌な汗が伝う。
「あの夜は満月で見通しもよかったですが……ずいぶん目が良いのですね?」
「そこまでの鷹の目ではありませんよ。塔をお借りしていなければ、観測は無理だったでしょう。何より運がよかった」
「塔……――まさか、大火記念塔ですか?」
神父が笑う。刃を突き付けるような笑顔だった。
そういうことか。やけに長い「雨漏りの修理」は、塔をユリオの捜索拠点とするためのカバーだったのだ。
「あなたのことは特別に不問と致します。おわかり頂けたのなら、少年を」
「狩るのですか?」
苦し紛れに問うたわけではなかった。
こちらの推測通りユリオが異類だとわかっていながら、何故異類の力が強まる夜に、何故ひとりで現れたのか。それがどうしてもわからなかったからだ。
彼が母のような狩人だったとしても、正体も居所もわかっている異類を襲撃するのに、わざわざ夜に行う理由がない。陽が出ているうちに、仕掛ければ良いのだ。
神父の表情から笑みが消えた。かといって冷酷さを顕わにするでもなく、ただひたすらに真摯な眼差しがフルエットを射抜く。
「その前に、確かめなければならないことがあります」
「確かめる?」
フルエットの眉が上がる。異類だとわかっている獲物に、なお確かめなければならないこととは何か。彼が夜に一人で現れたことと、おそらく無関係ではあるまい。では、それは何か。
そしてある可能性に思い至り、フルエットは目を見開いた。
「神父、あなたは――」
どこから漂ってくる甘く濃厚な香りが、フルエットの口を塞ぐ。神父も同じ香りに気づいたのか、怪訝な顔で鼻に触れている。
そしてフルエットは、神父の背後の闇にうごめく輪郭を見た。
「神父!」
フルエットが叫ぶのと、神父が動くのは同時だった。いや、神父の方が早かったかもしれない。
背中のクロスボウを構え、ランタンの灯りを投射した先へ素早く矢を連射する。投光に姿を顕わにしたのは、白い花を無数に咲かせた異類。あの花は確か、月下美人だったろうか。
月下美人の異類は葉のような長い腕をしならせて、放たれた矢を叩き落とした。
神父は一切ひるむことなく、聖火ライターで矢に着火。狙いを定めながらフルエットに鋭く呼び掛ける。
「扉を閉めなっ」
その声を遮ったのは、横面から飛び込んできた赤、青、緑に輝く影だった。
「神父!?」
あるいはこの血が異類の注意を引きつければと、玄関から一歩飛び出してランタンの灯りを目で追った。
先ほどの三色の影が、投光の中で神父に覆いかぶさっていた。神父の抵抗もあり、光が乱れてはっきりした姿は見えない。だが細長い脚のシルエットや鞘翅のような背中からすると、恐らくは虫の異類だ。
虫は彼女に見向きもしない。フルエットが玄関から一歩出ると、むしろ没頭するかのように神父への攻撃が苛烈さを増した。月下美人の異類も、必死さすら感じる勢いで神父の方へと向かっている。まるで、血の娘から必死で気を紛らわそうとしているみたいだった。
「……どういうことだ?」
二対一。このままでは、神父は間違いなく殺されるだろう。ユリオのことはあるが、かと言って目の前で殺されるのを看過もできない!
ユリオは頼れない。頼ればその時点で、彼が「どうしたいか」は上書きされてしまう気がした。
だからフルエットは、今自分にできることをすると決めた。それは、この身体を寄せ餌にすることだ。至近距離まで近づけば、血の娘への誘惑が勝るはず――。
「お前は家に居ろ」
肩を掴まれた。
かと思うと、フルエットの身体は玄関に押し込められている。ほとんど突き飛ばすような勢いだったが、今はそんなことどうでもよかった。
その一瞬にすれ違ったユリオの横顔は、目にしたこちらの胸が苦しくなるほどに険しい。
夜に向かって立つ背中に、フルエットは呼び掛ける。
「……いいのかい」
他に問うべき言葉があるような気がした。他になんと問うべきかわからなかった。
ユリオは答えず、代わりにシャツを脱ぎ捨てた。その背中が鮮やかな淡緑色に染まり、それを覆うように三角の翅が現れる。
そして、言葉の気配だけがあった。
翅が広がる。ユリオの姿が目の前から消え去り、次の瞬間には轟音が響いていた。
ユリオの蹴りが、赤青緑の虫の異類を直撃する。
大顎を今にも神父に届かせようとしていた虫の異類は、水切りの石ように何度も地面の上をバウンドして転がっていった。
左から、空気を切り裂くするどい音。無造作に突き出したハサミが、花の異類の振りまわした腕を切断する。
「……わかんないよ」
うつむいた彼の口がこぼしたのは、フルエットへの答えだ。これでいいのか、間違っているのか、それはユリオ自身にもわからなかった。
虫の異類が飛びかかり、応じてユリオの身体は竜巻めいて瞬動した。鋭い蹴撃が金属質の光沢を持つ頭を捉え、外骨格の砕ける音が響く。吹き飛ばされた虫が、その先に居た花を巻き込んで地面に転がった。
「立てよ」
汁を撒きちらして悶絶する花にも、ひしゃげた頭をいかれた機械のように動かして起き上がる虫にも目もくれない。そして彼のことも見ないまま、ユリオは神父にハサミを向けた。
恨んでいない、と言えば嘘になる。
胸の奥でじくじくと疼く痛みは、あの日抱いたのと同じものだ。胸の奥で熱を放つものは、目を覚ました日にフルエットの首を絞めさせたソレと同じものだ。何もかも失って、自分だけがここに居ると気づいた時に抱いた、痛みと怒りと同じものだ。
あの時と違うのは、首を絞める手を離さない理由があるということだ。
殺せば心は晴れるだろうか。みんなのぶんまでハサミを突き立て、バラバラに切り裂けば、それだけ心は軽くなるだろうか。
そう思うのに、息が詰まるのは何故だろうか。許したわけじゃない。許せるわけがない。なのにハサミを向けると息が詰まるのは――。
「立てよ」
もう一度だけユリオは告げる。ハサミを虫と花へ向けると、呼吸は少しマシになった。
理由はまだわからない。だけど今この身体を動かすのは、きっとジオの言葉だった。
コイツを見殺しにしても、この手で殺しても、たぶんもうこっちには居られなくなるからだ。
◆
怒りと憎しみのまま復讐されるなら、別にそれでもよかったのだ。
「立てよ」と繰り返した虫の少年の背中を見つめる神父イレールの胸に、あの日からの記憶が去来する。
枝葉の天蓋越しに、灰色がかった雲が覗き始めた頃。その場に立っていたのは、イレールただひとりだけだった。周囲には同輩たちが倒れていて、目の前には翼に何本もの矢が突き立った血まみれの異類が転がっている。
異様な異類だった。おおむね鳥類を思わす姿をしていながら、蛇のような尾を併せ持っていた。このような混種の異類、今日まで見たことはなかった。
荒い息もそのままに、頬にこびりつく乾いた血をぬぐい取る。それが自分のだったか、仲間のものだったか、はたまた異類のものだったかはわからなかった。
確実にトドメを刺すべく、狩猟剣に聖火を灯そうとしたその時だった。
「コルドリール」
狩りの最中は無言だったソレが突然発した言葉に、イレールは手を止めた。この期に及んで言葉を発する体力が、言葉を弄するずる賢さが残っているのか。
相手はイレール含む十数名の狩人を相手に、はぐれの人狼にも匹敵する力で暴れ続けた凶悪な個体だ。一瞬の油断や隙が命取りになる。
もっと弱らせようと矢筒に伸ばした手が、空を切った。クロスボウの矢はもう打ち止めだった。
その間にも、異類は言葉を垂れ流し続けている。
「……ヒルドは、コルドリール。ラムは、ムーラン。デスは、マリンボワ」
最初は何を言っているのかわからなかったが、すぐに見当がついた。前者は名前だ。異類たちが互いの名を呼び合うのを、イレールも耳にした。そして後者は地名だ。この広大なアシュトン地方の各地にある街や村、都市の名前だった。
「アルグはフォスフラムで、イヨロはクシム。エデスは……イゾワールだったかな。あとの子は、わかんないって言ってたっけ。ユリオは……どうだったっけ」
名前と地名。人間とのやり取りなら、前者が後者の生まれであることを示す組み合わせ。だが、こいつらはこの森に住み着いていた異類だ。
視線は異類から離さないまま、イレールは倒れた仲間の身体を探って矢筒を探す。
思えば、奇妙な異類の群ればかりだった。どれも初めて見る混種のうえに、何が混ざっているかは個体ごとにバラバラだった。ふたつ目の群れは特に奇妙で、構成する個体はいずれも――正確には最初に狩った一匹は不明だが――人に擬する能力を持っていた。ほとんどは不完全で、何かしら異類の特徴が残ったままだったが。
そのうえ、何故か助けを求めてきた。
人語を解する頭があるわりには稚拙な策で、だからイレールたちは迷いなく彼らを狩った。最初に異類の姿を晒した時点で、彼らを人と誤認することなどあり得ないのだから。
さらに奇妙だったのは、ろくな抵抗をしてこなかったことだ。狩られることなど考えたこともなかったとでも言うように、逃げ惑うばかりで。この最後の一匹も、突如攻勢に出るまではそうだった。強いて言えば、こいつだけは逃げ方に迷いがなかったくらいで――。
悪寒がした。
突然の攻勢とその強さに意識を傾けざるを得なくなり、あることが頭から抜け落ちていたのを思いだしたのだ。
もう一匹だ。こいつは逃げる時、もう一匹の異類を連れてはいなかったか。淡緑色の姿をした、そして一匹だけ完全に人に擬していた虫の少年を。
ようやく一本見つけた矢を握り締め、イレールはソレに聖火を灯す。装てん。クロスボウを異類へ突きつけた。
「あの虫をどこへ逃がした?」
歯噛みする。こいつが突然攻勢に出たのは、あの虫からイレールたちの意識を逸らすためだったのだ。そして確かに、こいつには虫のことを忘れさせてしまえるだけの力があった。イレールたちは、まんまとしてやられたのだ。
弱弱しくもおぞましい、鳥の鳴き声が森にこだました。それは異類の笑い声であり、やがて女のソレへと変わっていった。咳きこみ、吐くような不快な音がして、笑い声が止まる。
頭だけを白金色の髪の女の姿へ変えた異類は、傍らに出来たぬらぬらする赤黒い水たまりを眺めながら微笑んだ。異類らしからぬ観念したような穏やかな顔つきが、イレールに不快感を催させる。
「あの子はあっちへ行ったわ」
「……あっち?」
「そう、あっち。……あの子は、あたしたちみたいな……ごほっ、出来損ないとは……違うから」
再びせき込んだ異類が、赤黒い血を吐いた。顔がどんどん青ざめていく。髪と頬に飛び散った血が、気味の悪いほど鮮やかに見えた。
言っている意味がよくわからず、イレールは眉根を寄せる。だがこの様子なら、あるいは吐かせることもできるだろうか。
「答えろ。あの虫を何処へ逃がした。出来損ないとは何だ?」
「あら、神父様。最期の懺悔にでも……付き合ってくれるわけ?」
火が着くような怒りがあった。異類から神父と呼ばれるなど、冒涜以外の何ものでもない。引き金を引きかけて、しかし寸前でイレールは指を離した。怒りに震える指先がトリガーに触れないようにするのは、少し努力が必要だった。
「よく口のまわる異類だ。聞かれたことだけ――」
「あそこは今……調べてる、ところ?」
あそことは、この異類たちが潜んでいたあの廃墟のことだろうか。こいつの言う通り、別働隊が今まさに調査にあたっているはずだった。しかし、わざわざそれを異類に教えてやる必要はない。
イレールが答えないのには構わず、異類は言葉を続ける。
「あそこであなたたちが見つけるものは、全部ほんとのことよ」
「何の話だ。それより、あの虫のことを話せ」
「あたしたちは、みんな……」
異類は血が喉に絡みついたような、ひときわ嫌な感じのする咳を何度も繰り返した。異類の顔はほとんど色を失くし、目の焦点も合わなくなり始めていた。このままでは、虫の居所を聞き出せなくな。
「その話はもういい。答えろ、あの虫をどこへやった」
いつの間にか、異類の腕は人のソレに姿を変えていた。ただし、鱗に塗れていたが。その指先が、誰かの頬に触れるみたいにそっと動く。
忌々しいほどに穏やかな笑みを浮かべた異類には、もはやイレールの姿は見えていないのかもしれなかった。消え入りそうな声で口にするのは、ただのうわ言だ。
「ああ、ユリオ……」
「ユリオ? それがあの虫の名前か?」
「あんたが、あんたさえ……あっちで生きてくれるなら、あたしは……」
あっち、ユリオ。その言葉を何度も繰り返した末に、異類はやがて動かなくなった。
その死骸は何故か蛇の尾を持つ鳥に戻るのではなく、鱗まみれの手を持つ白金色の髪の女へと変じていた。まるで、そちらこそが本当の姿だとでも言うように。そういえば、どいつこいつも死体は人に寄っていた気がする。まったく不快な話だった。
その首に、イレールは聖火を灯した矢を打ち込む。
仲間たちに向けて炎の十字架を掲げた後、イレールは例の廃墟へと戻ることにした。矢も尽き負傷した今の状態では、虫を追うことは難しい。かといって、ひとりでは仲間の遺体を運ぶこともできない。別動隊と合流しなければならなかった。
「隊長、このようなものが」
そして廃墟へ戻ったイレールは、別動隊が発見した手記に目を通すことになる。
経年劣化で半ば朽ちたような手記のページの抜け、インクの掠れ、乱れた筆記、もとがなんだったか考えたくもないような染み――そういったノイズの海から拾い上げた記憶は、この廃墟である種の実験が行われていたことを示唆していた。
それは人を獣や虫と繋ぎ合わせ、異類を産み出そうとする実験だった。
血塗れの手で、背骨を撫でなられた感覚がした。
本来であれば、それは一笑に付すべき狂人の妄言だった。人と異類は聖火によって峻別されるべきもので、どちらかがもう一方に「なる」などあり得ない、あってはならないことなのだから。けれど彼は、あの異類の言葉を聞いてしまった。
絶対的な炎の壁が、今は風前の灯火のように揺らいでいる。
『出来損ない』あの異類の言葉がよみがえる。『あたしたちは、みんな』イレールが狩った異類たちは、皆? 『ヒルドは、コルドリール』ならばあの異類が口にした名前と地名の組み合わせとは、すなわち――。
『全部ほんとのことよ』
頭の中で、白金色の髪の死体が嗤う。あの女の死体が人の姿をしていたのは、真実あの女が元は人間だったからではないか?
足元に奈落が口を開ける。バランスを崩してふらついたイレールの身体を、部下が慌てて横から支える。
「隊長、まずは休息を取られては――」
「読みましたか」
「はい?」
「君は、これに目を通しましたか」
「え、ええ。ですがこんなもの、狂人の妄想でしょう? 異類どもは、これで要らぬ智慧をつけたのでしょうかね」
当然の答えだ。あの女とのやりとりがなければ、あの女の遺体を目にしていなければ、イレールも同じように答えだろう。
「異類が人に擬することはあっても、人が異類になるなどありえません。我らと奴らの間には、真白の聖火が横たわっている。そうでしょう?」
「ええ、その通りだと思いますよ」
揺るぎない確信に満ちた部下の目を見返して、イレールは称えるような笑みを浮かべた。
その後、イレールはすぐにイルーニュ方面へ――虫の少年が真っすぐ逃亡したとすれば最も辿り着く可能性の高い地域へ――向かう傍ら、各地の伝手にある依頼をした。あの女が口にした土地で、あの女が口にした名前の人物が関わる事件はなかったかを調べさせたのだ。
あの女が名前と出身を並べた者は、皆それぞれの土地での失踪者だった。
教会は手記を、イレールの報告を一顧だにしなかった。人が異類になることなど、ありないからだ。
だから彼は、ユリオと呼ばれた虫の少年を、この手で探し出すことに決めた。
彼もまたあの女と同じなのか、この目で確かめなければならなかったからだ。
◆
「立てって言ってるだろッ! 死んでんのか!?」
ユリオの怒号に、イレールはハッと目を見開いた。クロスボウを支えに立ち上がると、虫の異類に蹴られたあばらがひどく痛んだ。ヒビでも入ったかもしれない。
ユリオはイレールに背中を向けて、二体の異類に対して身構えている。イレールに対して、彼は今まったくの無防備だった。
「……生きてますよ」
クロスボウのトリガーを引く。
ユリオの肩越しに放たれた矢は、しかし飛び退いた虫に避けられて地面に突き刺さった。ユリオは振りかえりもしない。
「いいんですか」
意図したものではなかったが、それはフルエットがユリオに投げかけた問いと同じだった。その意味するところも、おおむね同じだ。ここに居るのは、少年にとって仇そのもの。仲間を奪った狩りを指揮した張本人だ。
ユリオはやはり振り向きもしない。けれど緑の翅を微かに震わせて、外骨格に覆われた拳を握り締めて呻く。
「だから、わかんないんだって……!」
泣きそうな声だった。
その情動を吐きだすように、抱えきれなくなったものに押し出されたように、次の瞬間ユリオの身体が疾走する。
淡緑色の閃光が走った。
飛びかかろうとしていた三色の虫が弾き飛ばされた。直後、白い花の葉腕が小間切れになっている。噴水のような体液を撒き散らす花は、この時点でただのオブジェ同然になった。
再び疾走。閃光が通った後からは、先ほどの矢が消えている。気づいた時には、もうその矢は虫の腹に突き刺さっていた。
刃にも似た鋭い弧状の軌跡が走り、既にヒビの入っていた虫の鞘翅を砕く。そのまま虫の身体が宙を舞い、追って閃光が曇り空へ向かって飛び立つ。
無数の、おそらくは打撃音。三色の虫の身体が、繰り返し繰り返し打ち上がる。やがてひと際大きな音が響いたかと思うと、虫の身体は一転、流星めいた勢いで地面に叩きつけられた。
不意に、淡緑色の閃光が消えた。それはユリオの形に姿を変えて、地面の上で小刻みに震える虫のそばに立っている。
イレールはクロスボウを構えたまま、しかし一本たりとも矢を放つことはなかった。というより、撃てなかった。
何が起きたか、ユリオの動きによってどんな結果が生じたかを認識するだけで、彼には精いっぱいだった。夜目の効きなどは問題ですらなかった。
今さらのように、冷たい汗がイレールの額を伝う。
すべてが終わったというのにクロスボウを握った手を動かすことができず、二体の異類が森へ逃げ帰っていくのを追うことも、彼らに狙いを定めることもできなかった。イレールの五感の全てが、今はユリオだけに向いていた。
あの日、もしユリオが逃げなかったら。異類の獰猛さを以て、イレールたちに牙を剥いていたとしたら。
あの場に居た狩人は、別動隊まで含めて全員なすすべなく死んでいただろう。
「お前も行けよ」
ユリオの声がした。ハサミを喉元に突きつけられているような、鋭く冷たい声だった。
彼が見ているのは、波打つ炎の十字が刻印された白い二輪。家の近くに停めておいた、イレールの白い二輪だった。
「……私が」
構えたままのクロスボウを、ユリオへ向けた。ランタンが投げかける光の中で、やはりユリオはイレールを見ないままで居る。
「狩人を連れて戻ってきたら、どうします」
その時、初めてユリオはイレールの方を見た。彼の目はそのまま、玄関先に出ていたフルエットの方を向く。
祈るように自身の手を握る彼女の姿を数秒ばかり見つめた後、ユリオはイレールへと視線を戻して歩み寄ってきた。おそらく、彼女に声を聞かれたくないのだろう。その姿は、少年のものへと戻っている。
「そしたら、フルエットはどうなる?」
「人に擬する異類を見抜くことは、我ら狩人であっても極めて難しい。……ですから、罪を負うことはないでしょう」
「だったらぼくは、あいつを置いてここから逃げるよ」
そう口にしたユリオの表情は、白金色の髪の女がうわ言を口にした時のソレによく似ていた。
「……そうですか」
クロスボウを背中に戻す。ずっと構えたままで筋肉が固まってしまったのか、腕に少し強張りを感じた。
ふっと真顔になったユリオが、やはり視線を逸らして二輪の方を指差した。
「わかったら、早く行けよ。……そうじゃないと、ぼくは」
イレールは、何も言わずに二輪の方へ歩き出した。もはや何も言うべきではないと思っていた。イレールが何を言っても、それはユリオの心に波を立てるものに過ぎないのだから。
痛むあばらを押さえながら、イレールは二輪に乗り込んだ。肌を撫でる湿った空気に空を仰ぐと、夜空を覆う雲は灰色を通り越して黒くなりはじめていた。
そのうち雨が降り出すだろう。急いでイルーニュへ戻らなければ。
ここには、異類など居なかったのだから。
◆
イレールの姿が見えなくなった後も、ユリオはずっとその場に突っ立っていた。その目はきっと、イレールが去ったあとを見つめ続けている。
フルエットはその背中にそっと近づくと、ちょっと背伸びしてシャツを肩にかけてやった。飛び出す時、彼が玄関先へ脱ぎ捨てていったシャツだ。
「風邪を引くよ」
彼女の接近に気づいていなかったのか、ユリオの肩が軽く跳ねた。
「あ、うん。……ありがと」
そのままフルエットは彼の隣に立って、イルーニュへ続く道がある方へ視線を向けた。ちらりとユリオを見上げる。
泣きそうな顔で唇を結んだ彼の目には今、どんな光景が映っているのだろうか。
ユリオの胸中に渦巻くものは、フルエットにはわからない。慮ることはできるが、それだけだ。
……彼がそうするつもりなら、止める気はなかった。というより、止められないと覚悟していた。彼がそうしなかった理由はわからない。彼にとって、それでよかったのかもわからない。今はただ、しないことを選んだ彼を肯定したいと思う。
ユリオの手を取った。ハサミではない少年の左手を、両手で包む。
「そろそろ中に戻ろう。雨が降り出しそうだ」
「……そうだな」
言っている間にも、ぽつりぽつりと雨粒が地面を叩き始める。
戻って玄関の扉を閉めると、ほどなく雨は本降りになった。
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