第5話 海とブドウ(うみとぶどう)
それから半刻ほど後、
あれから後、書院で茶を振る舞われ、菓子を供され、
そうして、姫に庭を案内せよと座敷を追い出されたのだったが、歩く弓削之介は、後に付き従う
片手を頭の後ろに置いて、しかし、逃げ出す訳にもいかず、ゆっくりと歩くしかなかった。
その弓削之介の背後で、
「くすっ!」
と、笑うのが聞こえた。
「どう、なされますか?」
と、可笑しそうに姫が
「ど、どうと言われましても!」
思わず振り返ると、小柄な姫は、やはり清々しい風情で、くりっとした目は、黒よりも茶色に近い明るい色で、笑いたげな光をたたえてこちらを見つめていた。
「
「いや! あれは、父上の
「武士に
「い、いや!」
新たな汗が額から吹き出すのを覚えながら、駒姫のくりくりとした目を見つめる。
しかし、そのまま、姫の丸い目に吸い込まれそうに覚えて、弓削之介は、慌てて体ごと向きを変えた。
駒姫は、そんな弓削之介を興味深そうに眺めていたが、
「義姉上様は、美しいお方であられたのですね?」
と、いたずらっぽい調子で聞いて来た。
困った問いだ。
「お美しい方で‥‥、ございましたな」
やけくそ
初めてお会いした時より、弓削之介の中では、「美しい女性」と言えば、義姉上の事であった。
「ただ、それがし、義姉上に最後にお会いしたのは、3年も前の事でござる」
苦し
「兄上とご婚約なされたがそれがしの幼少の折で、5年前に嫁いで来られるとすぐに江戸に上られて、兄上とお暮らしになり、幸松丸殿がお生まれになり、その誕生の祝いに江戸に参ってお会いしたのが最後で、以来、お会いしておらぬ」
(
一瞬、思いにふけりそうになったが、傍らでは、「わくわく」といった表情で、駒姫がこちらを
(これは、いい加減、反撃をせねばならぬな!)
弓削之介は、思い定めた。
「で、お駒殿は、いかがなされる?」
からかい口調でざっくり
「存じませぬ」
駒姫は、ふっくらした小麦色の頬に、今にも笑み出しそうな様子を浮かべて答えた。
「わたくしとて、
と言って、ついにクスクスと笑い出した。
「この様なお話と存じておれば、船上にて、あの様なはしたない真似はお見せいたしませなんだ」
「笑い事ではごらなぬであろう!」
と言いつつ、弓削之介もつい笑ってしまったが、そもそも、朝方、船上に見た駒姫は、「はしたない」どころか、好ましいくらいであった。
しかし、その
(ど、どうして、わしが慌てねばならぬ?)
「で、姫は、どうなされます? 女性にも、好みというものはござろう?」
「そうですね。
そう言うと、姫は、庭石をぴょんと跳んで渡り、2,3歩行って振り返った。
「でも、
そう言って、こくりと首をかしげて来たので、反撃したつもりの弓削之介が、ますます困ることになった。
「武芸にござるか?」
トクンと胸が鳴る。
「やはり、
「それで申せば、それがしなど、
「その様な事はござりませぬ。お見事な、頼もしき武者っぷりでござりましたよ」
駒姫は、きゅっと目を細めた。
それで、弓削之介は、目を
そのまま、ゆっくりと歩き、青葉の茂った
その脇の
「しかし、それがし、
駒姫は、弓削之介に
「お志とは、どの様な?」
弓削之介が、なおしばらく言葉を探ると、駒姫も、気遣わしげに眉を八の字に寄せる。
その八の字に、弓削之介は、ようやく答えた。
「それがし、酒を
答えてみると、自分でも意外なほどに、すっと
しかし、さすがに、駒姫の方は、
「は?」
「お酒でござりまするか? それはまた、
不思議そうな顔で言う。
「お酒ならば、ご領内でも?」
「いや、その様な酒ではない。ブドウで酒を造ってみたい」
と言って、弓削之介は、妙に胸を張りたくなった。
しかし、駒姫の方は、
「は!?」
いよいよ不思議そうな様子で見つめて来た。
「ブドウと申されますと、この‥‥」
と、脇の植え込みを
「山に生えるブドウでござりますか?」
「そう!」
弓削之介は、晴れ晴れと姫に体を向けた。
「お駒殿はご存じないかも知れませぬが、海の
それがし、つてがあり、近頃、それを
駒姫は、話が分からぬという顔で、弓削之介を見つめている。
「徳川御三家の一、水戸の
弓削之介は、あらん限りの勢いで頭脳を回転させながら、言葉を
「姫は、武芸こそが武門の肝要と言われました」
駒姫は、戸惑い顔でうなずいた。
「しかし、関ヶ原の
「それは、そうではござりますが‥‥」
姫は、不満そうである。
「でも、武芸がなければ、
「お駒殿は、
弓削之介が問うと、
「お
「実際のじゃ!」
弓削之介は困って言った。
「
「そう。その
「
「あのお家は、実は、塩の産地としても有名でしてな」
と言うと、駒姫は、また、戸惑った顔をした。
「塩と言われまするは、お料理に使う?」
「そう、その塩じゃ。塩がなければ料理にならぬ。播州赤穂は塩作りが盛んで、その塩を
駒姫は、きょとんとした顔で、弓削之介の話を聞いている。
「わしは、この花坂藩に、そうした特産物を作りたい。
そういうと、弓削之介は、何やらそれが、一時の思いつきでなく、まことに己の歩むべき道のように思われてきた。
しかし、驚いた顔で弓削之介を見つめていた駒姫は、やがて、複雑な表情で
「商いなどと‥‥」
「武家のなす事ではない、と言われるか?」
「駒には、いささか‥‥、その、
「わしにも突飛じゃ!」
「は?」
「今、思いついた」
「なんと! お
駒姫の
「戯れ‥‥、でもない」
ははは、と弓削之介は、空を見上げて笑った。
「ただ、わしは、この世に生まれて来て、何事かを成さんと考えたのじゃ。考えて‥‥、今、思いついた」
そう言って、駒姫に、
駒姫は、怒った様なあきれた様な相貌で弓削之介を見つめていたが、やがて、軽く首をすくめた。
「つまり‥‥、駒はお呼びでない、という事ですね?」
弓削之介は苦笑した。
「そうは申してはおらぬ」
「と、申されますと?」
「何しろ、父にあの様に言われてしまった」
と言って、にっと笑った。
「まっ!」
駒姫は、むすっとした顔をした。
「あきれたお方!
と言って、ぷいっとそっぽを向く。
「とにかく、わしは、そういう男じゃ、今のところな」
弓削之介が言うと、姫は、「わかりました」とでもいう様にうなずいて見せた。
「今日は帰ります」
「また、参られますか?」
「存じませぬ!」
ふくれ顔で言うと、また、ぷいっとそっぽを向く。
(これは、本気で怒らせたかな?)
と思ったものの‥‥。
しかし、「来ぬ」とは言わないらしい。
「されば――」
再び、姫のために、あらん限りに頭を働かせる。
されば――
「明日、馬にて
西の空に、
ひとまず、姫を座敷へ案内するために歩き出した。
「馬には乗られまするか?」
「無礼にござります! 馬など、武芸の基本です」
つんっとした口調で答えながらついて来る。
(いやいや、姫君は普通は馬なぞ乗らぬぞ?)
などと思いつつ、その
~ 終 ~
海とブドウ デリカテッセン38 @Delicatessen38
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