第4話

少しの空腹を感じて目が覚めた。


カーテン越しに差し込んだ陽光が、冷え切った室内をほんの少しだけ暖めていた。試しに再び目を閉じてみたが、睡魔はすでに立ち去った後のようだった。


喉の乾燥をなくすため、ゆらゆらとキッチンに向かった。水道水をコップに汲み、一気に飲み干す。突如劇薬が放り込まれたかのように、鋭い痛みが腹部を貫いた。


先刻の行いを悔いながら炊飯器を開け、炊き上がった米を茶碗に装う。普段は特に何を思うわけでもないが、今日はいつもよりふっくらと仕上がっている、そんな気がした。


冷蔵庫から卵と醤油を取り出す。今日の卵は、当たりだった。一回り、いや二回りは大きいだろうか。確かな重みと、ざらついた殻を右手でなぞりながら卵を持ち直す。手のひらに収まる程の曲面の中に、ふと数秒先の未来を見た。


見た通りに卵を茶碗で軽く叩き、両の親指を亀裂にかける。茶碗の真上で、少しずつ外側に力を加えていく。亀裂は乱れることなく殻を分かち、可食部が重力によって引きずり出された。そして、まるで米に吸い込まれているかのように落下し、ちょうど茶碗の中心で静止した。


「なんてことはないな。」


本当になんてことのない出来事だった。卵が美しく米の上に鎮座していることなどというのは。だがそのなんてことのない幸せを認識できている。これは、とても幸せなことだと思った。


昼まではただソファにもたれかかって過ごした。何もしていないと、何かを思い出してしまいそうだったので、映画でも見ることにした。スマホの画面をテレビに映し、目についた映画を再生する。昨晩買ったコンソメ味のポテトチップスを口に含んで、結局買われることになったレモン味の酎ハイで流し込む。想像よりも案外悪くない組み合わせだった。


いつしか日はすっかり沈んでいた。ほんの少しの幸せと、全くといっていいほど感じられない不安を抱えながら、ニュース番組を眺めた。


やはり、昨日のカモミールティーのおかげなのだろうか。正直な所、この手のリラックス効果はどれもまやかしだと思っていたが、今の僕に必要だったのは、まさにそのまやかしだった。


「しばらくは楽しんでみよう。」そう思って、僕は再びお湯を沸かし始めた。


「おはよう。」


「おはよう。体調はもう大丈夫なの?」


「ありがとう。昨日休ませてもらったおかげで元通りだよ。」


元通り、とはいつを指すのか自分でもわからなかったが、少なくとも一昨日の状態よりは改善されていた。その証左に、彼女とこうして話していても、彼女を人間であると認識できている。


「それはよかった。」


「ああ、本当に。」


よかった。心底そう思った。無意識のうちに、いろいろなものが溜まっていっていたのだろう。そのせいで、思考がおかしな方向に進んでしまったのだ。僕のような一般人にも例外なく、そんなことが起こり得るのが、この世界の不思議で素晴らしい所だ。だが、今の僕にはカモミールの茶葉があり、今のところ期待した効果を得られている。たとえプラシーボだとしても、それはさほど重要なことではない。


「本当に、よかった。」


何度でも、口に出さずにはいられなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る