境界線
藤宮一輝
第1話
すっかり夏の気配も消え、シャツ越しに肌寒さを感じる十月の朝だった。
「はじめまして。下田絵里っていいます。」
静かで、それでいて第三事務室全体に響くような声だった。たとえこの部屋の隅に僕が立っていたとしても、一言一句を聞き取ることができただろう。
「上村祥吾です。下田さんは経理課からの異動だっけ。」
「ええ。右京さんが、君はもっと色んなことを学ぶべきだって。」
「……ああ、あの人か。古臭い考え方は相変わらずだな。」数年ぶりに聞く名前に、時の流れを感じてしまった。
「右京さんを知っているの?」彼女は少し意外そうな顔をした。
「そりゃもう、嫌というほどね。彼、以前は広報課の研修も担当してたんだよ。おかげで同期はみんな異動さ。」
右京さんは決して悪い人間ではなかった。ただ、昭和の時代に取り残されたような物言いや指示をする人だから、若い社員は皆、少なからず彼に苦手意識を持っていたように思う。「もっと色んなことを学ぶべきだ。」なるほど、確かに彼が言いそうな言葉だ。とはいえ、本当に異動にしてしまうあたりが、良く言えば大胆、悪く言えば乱暴な、彼の最大の特徴だろう。
「悠長にご歓談とはいい身分だな。前に頼んだポスターは出来上がったのか?」
ふいに、入り口のほうから皮肉が聞こえた。
「阿佐美さん、もちろん今から作る予定ですよ。」
彼は僕の返事には聞く耳も持たず、下田さんのほうを見た。
「君が例の?」
「はい、下田です。今日からよろしくお願いします。」
「よろしく。荷物の移動とか終わったら仕事振るから、声かけて。」
阿左美さんは足早に自分のデスクに向かい、仕事を始めた。
「あれが上司の阿佐美さん。性根が悪い人だね。仕事はできるけど。」
「聞こえてるぞ。」デスクの影から声だけが飛んできた。
無論、悪いのは頼まれていた仕事をほったらかしていた僕の方であって、彼の性根では断じてない。むしろ、「性根が悪い」などという軽口を咎めない程度には、寛容であるといえる。
「なんかごめんね。仕事の邪魔しちゃって。」
「心配しないで、うちに急ぎの仕事はほとんどないから。」
「それならいいけど……。じゃあ、私は荷物とか取ってくるね。」
そう言って立ち去った彼女が残した香水の香りが、なんの花だったか、昔公園に咲いていた花の香りに似ていた気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます