第2話
「暇だなあ。」
頼まれていた仕事も終え、いくらかの雑務をこなしたところで、特にやることがなくなった。急に部屋の寒さが気になって、壁のスイッチへ向かった。
「みなさん、上げてもいいですか。」異論はなさそうだったので、ボタンを押した。
「それにしても、最近急に冷えたな。」
「私が来たときはまだ秋って感じだったのに、ほんの一か月でもう冬ですよね。」
そんな会話があったのもつかの間、部屋はまたキーボードの静寂に包まれた。
いよいよやることが尽きた。かといって、本当に暇そうにしていると次の仕事を振られかねない。なんとしてもこの平和な時間を維持しようとして、周りを見渡した。
「そういえば、下田さんは大丈夫だろうか。」
前のデスクで仕事をしている彼女が目に留まった。新人の仕事の監視も立派な仕事だろう。そう思い、僕は腕を組みながら彼女の仕事ぶりをしばらく観察した。
彼女は姿勢よく椅子に座って、仕事をしていた。整頓されたデスクの上から必要な資料を探し出し、慣れた手つきでパソコンに何かを打ち込み、資料をもとあった場所に戻す。ひたすらそれの繰り返し。
たまに視界に落ちてきた前髪を手で掬って耳にかける。しかし、それもしばらくするとさらさらと落ちてくるので、今度は少しめんどくさそうにまた耳にかける。
ペットボトルを開けて飲み物を飲むこともある。大抵の場合、彼女が飲むのはホットのいちごミルクだ。休憩所の自販機で買っているのだろう。ごく稀にブラックコーヒーの缶を飲んでいることもある。こちらも同自販機のラインアップだ。
彼女はこのひと月、僕が特段何かを教えるまでもなく、頼まれた仕事をほとんど問題なくこなした。彼女が初めて作成した社内用ポスターの完成度は、僕や阿佐美さんがこれまで作っていたものよりも美しく見えた。そして、それは至極正当な評価を受けた。
「下田さんのポスターって、なんというか綺麗ですよね。僕らが作るのと何が違うんでしょう。」僕は、廊下に飾られたポスターを見ながら阿左美さんに問いかけていた。
「なんだろうな。俺もある程度ソフトの使い方には自信があったが、そういう次元の問題ではない気がする。」珍しく、彼も僕の意見に納得していたようだった。「やはり、女性のほうが美的センスを持っているのだろうか。」
「今のご時世にそれはまずいですよ。」
そうやって二人して首をひねっていたが、結局答えはわからなかった。
「下田さん。ちょっといい?」そんな出来事を思い出して、直接聞いてみることにした。
「どうしたの?」
僕の手元には、ついさっき作成したポスターがあった。
「僕らのポスターって、何がダメなの?」そう言って、自分のポスターを見せた。
「ダメってことはないと思うけど……。」渡された彼女もポスターに目を落とした。
「全体的に彩度が高いかな、とは思う。」
彩度。中学の美術の授業以来、この単語を聞いてすらいないんじゃないか。
「文字の色とか背景色の鮮やかさのこと。ほら、ここの文字とか真っ黒でしょ?」
「色って鮮やかなほうが目に留まりやすいとばかり思ってたけど。」
「もちろん、重要な部分はその方がいいこともあるよ。でも大量にある文字まで鮮やかだと、読んでる人の目が疲れちゃうんだよね。」
「へぇ。そんなことがあるのか。」
きっと彼女は優しい心の持ち主なのだ、と思った。ポスターを作るに際して、読み手の理解力の心配をすることはあっても、目の心配をしたことはなかった。きっと僕や阿佐美さんに足りていないのは、この優しい心だったのだ。
「ありがとう。なんとなくだけど、わかった気がするよ。」
「どういたしまして。」彼女はそう言って微笑んだ。
仕事というのは意外なところから湧いてくる。優しい心を手に入れるのは険しい道のりだろうが、目下僕にできることは、手元のこのポスターを、幾分ましなものに修正することだ。こうして僕の平穏は終焉を迎えた。
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